まことの名 *矢玉
あの座敷牢で見た、幼子のまぼろし。
それが目の前の青年へと重なる。
どこか泣き出しそうにみえる、その青年と。
そうだったのだ。
二重にぶれる『将臣』の存在。分厚い硝子の先にいた、本当の彼。
首もとの古く深い傷痕。
なぜだか赤くなっているそれに、そっと白い指先が触れた。
「傷は、もう痛みませんか・・・・・・?」
ふともれたのは、そんな呟き。
はい、と応える青年になぜだか首を振りたくなった。
「身体に負った傷は癒えても、心に負った瑕はなかなか癒えませんから」
例えば異人の子とよばれ、石をぶつけられた幼い自分。
例えば女給をしていた頃に、掴み上げられた赤い髪。
心無い、兄の言葉。
深く深く沈めたつもりでも、何かの拍子に浮かび上がり、己をさいなむ瑕たち。
「私も、貴方も、偽りだらけで、出会ったのですね」
子爵令嬢として偽りの名、偽りの容姿を纏った自分と。
生きていくため、幼い己を消し去り、偽りの名で生きてきた彼。
それしか方法が無く、しかたなしに偽った自分とはいえ。
一度偽りをまとったものが真の姿を晒すことの、何と不安でこころもとないことか。
それを、青年は自分にさらしてくれたのだ。己の瑕を、さらしてくれた。
ふと、愛しさで胸がいっぱいになり、思わず腕を伸ばす。幼子にするように、頭を抱え胸に抱き込んで抱える。
青年の動揺が伝わったが、かまわなかった。
ほとほとと、涙がこぼれ、青年の黒髪を濡らす。
哀しい、愛しい――――――愛おしい。
嗚呼、恋とは。相手を想うとは、このようなことなのかと、ようやく紫子はさとった。
「東郷さまは繰り返しおっしゃいましたね。私に幸せになれと」
囁くように、そう告げる。その言葉。
理解できなくて、優しくされても、戸惑うばかりだった己。
自分の幸せ、が。自分など幸せになってはいけないなどとすら考えていた自分。
「きっと・・・・・・きっと私は、貴方が幸せにならなければ幸せになどなれない」
息を呑む青年を。ますます深く抱き込み、紫子は問う。
「私は、桐生紫子と申します。貴方の、本当の名前は何とおっしゃるのですか?」
びくりと跳ねるその背を、ゆっくりと撫ぜながら。
ふと解かれた腕、そこには少しだけ目元を赤くした、青年の姿。
「アロイス、と言います。アロイス=カシュヴァーン」
アロイスさま、と口の中で転がすようにその名を繰り返す。
「アロイスさまは偽りだらけだった私から、まことの私を見つけてくださいました。貴方の、まことの姿を、私に託してくださいますか?」
痛いほどの抱擁が、その答えだった。
◆ようやくひとくぎりついた感じ。二人の問題はなんとなく終わったけど、今度は周囲の問題があるんですよね。まだまだ続きます