温もりの色 *奏嘉
「やだわ将臣さんたら。またこんな床で寝て」
目を覚ますと、弥生夫人が可笑しそうに笑いながらこちらを見下ろす形で頬杖をついていた。
突然の事に一瞬ぽかんとするも、後追いするように襲われた倦怠感に思考がぼんやりとする。
「……御免なさい」
苦笑しながら体を起こせば、寝違いをしてしまったのか首が微かに痛んで少し眉を潜める。
着物を簡単に正すと、何か用があったのではと思い立ち義母を見上げた。
「如何したんです、弥生さん」
「ああ、そうだわ。紫子さんにお庭のお花を取りに行って貰ってるんだけど、なかなか戻って見えなくてね。そろそろ雨も降りそうだから、ちょっと声をかけてあげてくださいな」
何故そんな遠回しな事をするのだろうと不思議そうに首を傾げるも、青年は静かに頷くと「判りました」と微笑む。
「将臣さん」
履物を取りに行こうと立ち上がれば、不意に後ろから再び名前を呼ばれ青年は振り返る。
花のように微笑んだ義母の姿に驚きながらも「はい」と返事をすれば、いっそう夫人は瞳を細めて笑った。
「ねえ、良い子ね。私も大好きだわ」
驚いたように、青年が目を丸める。
それが誰を指すのかは、聞くまでもなく理解できた。
静かな雨に揺れ始めた紫色の花と、剣のような葉が視界の縁に入る。
――――感情が共有できるというのは、こんなにも心地が良いものなのか。
感心しながら、つられる様に青年が目を細めて笑う。
「はい」
それだけ返すと、婦人は「傘を持ってらしてね」続けながら緩やかに手を振った。
建物の殆どが洋風の建築物へと変わり、舗装の間に合っていない道路には最近輸入されたばかりの車や馬車、人力車が入り混じる。
次々に流れ込んでくる異国の文化や情緒を一番に享受し、目まぐるしくその表情を変えていく帝都。
街の喧騒が、時代の急速な流れを具現化したようで、人々の足も僅かに早いような気がした。
その一角に静かに佇む、学び舎とは到底思えないような和と洋が混在したこの豪奢な建築物が、逢崎子爵の嫡男である総一郎も通う『学習院』だった。
(いつ見ても馬鹿馬鹿しい)
贅の限りを尽くしたようなその豪奢な建物を見上げると、青年は嫌気がさすと言うように表情を歪め小さく舌打ちをした。
その後ろ、聞いていないであろうことを理解しながらも、付き人の青年は「いってらっしゃいませ」と恭しく頭を下げる。
不意に横を通り過ぎた青年の姿に顔を上げると、反応するよりも早く、青年はバシッと総一郎の背中を教材で小突いた。
「おはよう、総一郎。どうしたのその顔?面白いね」
穏やかな微笑みを浮かべながらも、総一郎の神経を逆撫でするような言葉を平気で吐く青年。
天才肌であるその独特な雰囲気から、声をかけたり好んで近づく者が少ない総一郎にとってその青年はかなり珍しい存在ではあるが、きっと彼にとっては煩わしいに違いないと付き人の青年は可笑しそうに微かに笑った。
「テメェ…」
子爵の息子とは思えない粗暴な口調と、普通の人間なら怯えるであろうその表情にも、青年は気にしないと言うように平然と相変わらず穏やかに笑い話しを続けている。
「はい京都のお土産。総一郎結構甘いの好きだったよね?」
言いながら青年がごそごそと鞄を探れば、そこから出てきた愛らしい柄の小包みを総一郎に手渡し首を傾げて見せた。
総一郎はお礼こそ言わないものの「ふん」と言いながらも素直にその小包みを鞄にしまう。
付き人の青年はその様子を物珍しげに眺めていたが、更に笑いそうになってしまい僅かに
震えている。
―――――その物書きの青年は、総一郎の本質的な部分に惹かれたらしい。
彼曰く、変人同士であるからだと言うが、一見真逆のような二人の関係は長年付き人をしている青年にすら到底理解できないことである。
夜露に濡れたような黒髪と深い黒い瞳を持つその青年は、名を東郷伊織といった。
かの東郷家の嫡男であり、将臣の弟である。
「お前の兄貴に殴られたんだよ」
嫌みたっぷりにそう吐けば、青年はきょとんと目を丸め首を傾げた。
「よっぽど悪いことしたんだねぇ総一郎」
当然とばかりにそうさらりと返す青年に総一郎は目を見開いたあと小さく舌打ちした。
「もういい」
呆れたように吐き捨て歩き始めた総一郎を追うように歩を進め学舎へと入れば、木造の床が靴で歩くたびに軽快な音と軋むような音を鳴らす。
「似てただろう?」
不意に背後からした声に振り向くことなく「何が」と総一郎が問い返しながら扉を引く。
ガラガラと音を立てながら開かれる扉を眺めながら、青年は再び口を開いた。
「君と兄さん」
突然の言葉に総一郎が再び面食らったように目を丸くしぽかんとするが、直ぐに嫌悪感丸出しの表情を浮かべては伊織の顔のすぐ横の壁を感情のままに殴る。
「虫酸が走る…」
突然の響いた音や地を這うような声に、教室にいた人間がしんと静まり返るのを横目で見ながら伊織はへらりと笑い、更に「同族嫌悪じゃない?」と続け総一郎をひょいと避けては席についた。
「物書きな分、人間観察は得意な方だと思うけど」
気に喰わない、といった様子で席に座った総一郎を見上げては相変わらず不思議そうに青年は首を傾げる。
「変人同士だから余計、君の事は解る気がするしね」
そう続けながら笑う青年に「気持ち悪い」とだけ返せば、総一郎は居眠りを始める。
いつも通りだと思いながら青年は窓越しの曇天を見上げた。
(泣き出しそうだ)
癖だろうか、詩のような表現でそう思えば、頬杖をつきながら寝息を立てる青年の横顔を眺める。
――――彼が、先天的な天才ではなく、それまでの経験や努力があった上でのことだと言うことはなんとなく感じ取れた。
故に、その純粋に歪んだ感性も、何故だか寂しさも理解できて、だからこそ青年は共感できるのだ。
彼は、自身が尊敬する兄に何処か似ている。
境遇もそうだが、直感的に思ったのは、瞳からだったような気がする。
(自己満足なのは解ってるけど)
この友人の為に何かができたらと、常々思うのだ。
不誠実にもそれは、兄とだぶって見えるからなのかもしれない。
「……おかしいな」
大方庭園を周った筈だが、目的である少女の姿はなかなか見つからず、ひとつ息を吐いた。
僅かに降り始めた雨に焦りながら、庭園をくまなく回っていると、木々の奥に懐かしい小さな離れが見えた。
(…残りは、あそこだけか…)
記憶が走馬灯のように駆け巡ると、首筋から胸元まで伸びる古傷がずきりと疼き、咄嗟にぐっと着物を握った。
情けないと自身を叱咤し首を振っては其方へと歩を進める。
青い紫陽花が、白い壁に映え雨音に切なげに揺れている。
この離れを、改めて外から見るのは初めてかもしれない。
きっと屋敷からは殆ど見えないだろう小さな離れ。足元に小さな小窓が見えた。
少し後ずさる様に行き先を変えると、紫陽花の咲き誇る入り口付近へと向かう。
人の出入りが最近は殆どなかったためか、石畳の隙間からも枝が伸びている。
少し先に鋏が転がっているのが見え、それを拾うと視界の先に軒下で膝を抱える様に蹲る少女の姿が見えた。
軒下に居てくれたお陰か濡れていないようで、青年はほっと胸を撫で下ろす。
「紫子さん」
微かに、少女の肩がぴくりと跳ねるのが見えると、青年はゆっくりと歩み寄り彼女の前に静かに屈みこむ。
少女座るすぐ横には内側と外側に二重に嵌められた鉄格子と、切り取ったのであろう紫陽花の束が散らばっていた。
「濡れていないようで良かった。御勤めは終えられているみたいですし母屋に戻りましょう」
―――――少女が、顔を覆うように膝を抱えたまま、僅かに首を振った。
(…顔を見られたくないということだろうか)
内心驚きながらも青年は穏やかに「判りました」と返すと傘を閉じ、少女の隣に腰かけた。
僅かに震える手を隠す様に左手で右手を握れば、不意にそれに気付いた様に少女が顔を僅かに上げる。
目の縁か赤くなってしまっており、泣いた後である事が見て取れたが、そのことには触れないようにしながら青年は情けなく笑った。
「…こんな、情けない姿をお見せして申し訳ない」
その言葉にまた泣き出しそうに表情を歪める少女に驚き青年が目を丸くすれば、咄嗟に少女の肩を抱きその手で頭を撫でた。
少女も驚いたように目を見開くが、丁度喉元に少女の耳があたり、とくとくと青年の穏やかな脈拍を感じて、少女は安堵した様にすう、と息を吐く。
「ごめんなさい」
雨音に消されてしまいそうな程、弱々しくも聞こえた少女の囁きにも似た謝罪に青年は「いいえ」とだけ答えると目を閉じた。