虚像の天使 *矢玉
重々しい緞帳が下ろされると、劇場内にわれんばかりの拍手が響き渡った。
それに応えるように再び幕が開き、一列に並んだ役者たちが楽しげな笑みを浮かべ一礼する。もう役から抜け出た役者たちは、今までの仮想の世界の住人ではなく、生身の人間として笑みを浮かべお互いをねぎらうように手をつなぎ、観客に向かい頭を下げる。
素晴らしい劇と、それを作り上げた役者たちに対し観客は惜しみなく拍手を送り続け、興奮した空気はなかなか去らない。
だが紫子だけは途中でいてもたってもいられず、拍手の止まぬなか立ち上がった。
赤い絨毯が敷き詰められた廊下にも、やはり彼の人の姿は見えない。
はしたないと思いながらも裾をからげ、東郷の馬車が止められているはずの馬停めへと向かう。
行きは天候がいいから歩いて向かうが、帰りは陽が暮れるので馬車を呼ぶと聞いていたのだ。
いくつもの馬車の中を見渡す、もどかしく思いながら見渡せば、見慣れた箱馬車を見つけた。
息をきらせて駆けてきた主人の婚約者に、馭者は心底驚いたようだった。くわえていた煙管を落としてしまい灰があたりに舞い散ったのを、慌てふためき踏んで消す。
「東郷さまは、こちらにおいでなりませんでしたか?」
「い、いいえ。旦那さまはお嬢さまとご一緒ではないのですか?」
「・・・・・・途中で席を立たれてしまって。私、少し探してまいります」
「へ?!そんなことお嬢さまにさせられませんよ。わしが行ってきますからお嬢さまは馬車でお待ちください!!」
「いえ、薫さんと桐子さんが劇場に見えますので、お二人とすれ違っては困りますから。貴方はこちらにいらしてください」
「ちょ、お嬢さま!!」
強引に言い置いて、紫子はその身をひるがえした。
残された馭者は、紫子を追うか、薫と桐子を待つかで右往左往し、頭を抱えた。
宮殿のような帝劇を出ると、辺りは宵闇に染まりかけていた。
ガス燈に火を入れる青年の姿や、仕事を終えた職人が急ぎ足で闊歩する。
そんな人々が、紫子の出で立ちをみてぎょっとする。それに気が付き、紫子は迷うように歩みを止めかけた。
昼用のペチコートの膨らみが少ないドレスとはいえ、洋装はやはり目立つのだ。それに外套も帽子も置いてきてしまい、身を竦ませるほど寒い。
しかし、再び頭を上げて歩きはじめる。
大通りとはいえ、陽の暮れかけた道を一人で歩く良家の令嬢風の出で立ちの少女の姿に、道行く人は振り返って驚いたように目をみはる。それを居心地悪く感じながらも、紫子は足を止めない。
あの、青ざめたような青年の顔が、ちらついて離れない。
あれは、きっと――――――傷ついている、顔だ。
何がそんなに青年に傷を与えたのかはわからない。けれど、早く探さなければ、きっとあの青年はその傷を隠してしまう。傷を負った獣が虚勢をはるように、その微笑みの下に傷を隠し、何でもないように笑ってしまう。その瞳が、切なげに揺れているのに、本人だけが気が付いていない。
泣きたいような気持になりながら紫子は歩みをやめない、首をめぐらし、必死に彼の青年の姿を探す。
早く、見つけなければ。
人ごみの向こうに、まわりから抜きんでた長身の影を見つけ、紫子は細く息を吐いた。
将臣のほうもふと顔を上げ、二人の視線が絡まる。
幽鬼のような足取りだった青年は一瞬棒立ちになり、慌てて走り出した。
「紫子さん!」
ほっとしたような顔をする少女にかけよる。
「なんて、危ない。こんな時間に一人でこんな所まで」
「アロイスさまをお探ししていたのです」
よかったと、心底安堵した顔で微笑まれ息を呑んだ。
紫子の身にまとっているのは、白蝶貝釦に繊細な真珠の刺繍を施した、白いドレス。
そんな純白のドレスが彼女の姿を宵闇から浮かび上がるように見せる。
慈悲の笑みを浮かべた、彼女は――――――穢れ無き“天使”のように、見えた。
気が付けば、伸ばされたその手を、逃げるように振り払っていた。
「アロイス、さま」
息を呑んで驚きに見張られたその飴色の眼を見て、初めて自分のしでかした行いを思い知る。
すみません、と口早に謝る声が上滑りする。
「・・・・・・行きましょう」
エスコートするようにその背に腕を添えたが、その身に触れることは出来なかった。
***
「また天使の絵なんだね」
黙々と筆を動かしていた総一郎は、ちらりとこちらに漆黒の眼を向けた後、すぐに画布の中の少女へとその視線を戻す。
それに苦笑し、近づく。
画布の中で、丸い色硝子の落とす光の影に、白い背を向けた天使が座り込んでいる。
その翼はもがれ、床は白い羽根に覆われている。羽ををもがれた痛々しい跡の残るその背を、今にも揺らし、すすり泣く声が聞こえてきそうな、そんな絵。残酷なはずなのに、なぜか、息を呑むほど切ない。
「綺麗な絵だね」
「うるさい」
心底わずらわしそうに言われ、瞳を伏せる。悲しいなどと思うのは、意味の無い事なのだろう。
「そういえば今日、紫子さん達、帝劇に行っているんだよ。演目はえっと『オペラ座の怪』だったかな?」
「『Le Fantôme de l'Opéra』」
流暢な仏語に息を呑む。まさか返答があるとは思わなかった。たいていの会話に総一郎は返事を返さず、いつも一方的に喋ることになるのだ。
「仏国の小説だろ」
「読んだことあるの?もしかして、原書で?」
まぁなという返答に素直に感心する。やはりこの男は、天才なのだろう。
「“Ein Musical des Engels”か少女趣味だな」
「は?」
「だから話ふってきたんじゃないのか?」
手を止めいぶかしげに訪ねてくるのに目を丸くする、呆れに眼を眇められた。珍しく、説明してくれるらしい。
「和訳じゃ“音楽の天使”ってとこか。主人公の歌姫の女がそう呼ばれんだよ。そいつに執着して手に入れようとする醜い男が巻き起こす騒動が、話のだいたいのあらすじだ」
非常にざっくりした説明は、きっとこの男の偏見に満ちていてあまり正しいといえないのだという予想はついたが、そのままにしておいた。
「音楽の天使、か。だから兄さん見に行くの嫌がったのかな」
兄の産みの母親は、確かそんな名前で呼ばれていたと、どこかで聞いた。
金色の髪に青灰の瞳をした、兄の異父妹。その歌声は、何回か耳にしたことがある。
その旋律にあわせ奏でられる、この男の異母妹の透きとおるようなピアノの音。
音楽の天使“達”。
「兄さんにとって、幸せってなんだろうなって、時々思う」
「はぁ?」
ぽつりと落とされた独り言は、心底馬鹿にされてしまった。
「君はどう思う?」
「何で俺に聞く?」
「だって君、兄さんに似ているから」
不愉快そうに顔を歪められても、どうしても聞いてみたかった。
「ねぇ、君の幸せってなに?」
その問いに、総一郎の口元が皮肉に歪む。
「俺の幸せは、十の頃に終わったさ」
後に残ったのは絶望という幸せの残りかすだけ。夢さえ描けたあの頃は、血染めの手で描いた時から、失われた。
失われた、幸せ。
伊織は口の中だけでその言葉を転がす。
嗚呼、そうか。
「兄さんは、自分の幸せを諦めている」