ふたつの恐怖 *奏嘉
「っ、」
半ば強引に人混みを搔き分けるように、男は劇場の外へと飛び出した。
瞳を刺すような陽光が余りに強く、青年は表情を歪める。
僅かに縺れた足、眩む視界は余りに無様だ。
ふら付きながら足を踏み入れた路地裏で、ずるずると座り込む。
男は忙しなく脈打つ古傷を爪が食い込むほどにぎちりと搔き毟った。
呼吸が乱れ、視界が真っ白になっていく。
耳を塞ぎたくなるような喧噪も次第にきこえなくなり、男はこの世界にひとり取り残されたようだった。
(なんだ、あれは)
無垢で純なる光を暗く貪り喰う、醜く悍ましい、疎むべき存在。
決して明るみで認められてはいけない、――――汚らわしい、『影』。
あんなにも美しい花を愚かにも愛し欺き、手に入れようとした「仮面の男」。
その姿は、必死に太陽を求めながらも街燈にしか群がれない夜光虫に他無い。
(…最後に見せた、本当の顔でさえ)
「…彼女、には…」
喉がカラカラに渇いていく。
ただただ恐ろしい。
怖かったのだ、私は。
情けなくも未だに脅え、仮面を手放せないでいる。
あの舞台に舞う男も、そうだ。
―――――蛾のように哀れで無様だと、青年は思った。
「……わ、…たしは……」
嗚咽のように漏れたその声は聞こえなくなったはずの外界の喧騒に搔き消される。
彼女に惹かれ、
彼女を身勝手な理由から騙し、
彼女からの「同情」をそれでも尚乞い、
私は彼女の一生さえも呪い、奪おうとしているのではないか?
―――――――――あの物語の結末を、男は知っていた。
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春一番とでもいうのだろうか。
頬を掠める未だ冷たい風が、不意に音を立てるほどに強く吹いた。
強い風に乱された髪を、鈴は乱雑に掻きあげる。
その瞬間、噎せ返るような華やかで豪奢な薔薇の香りが彼女の鼻腔を突いた。
あまり嗅ぎ慣れないその高貴な香りに、店の入り口を箒で掃いていた彼女は顔を上げる。
「……?」
少し遠くから、仕立ての良い洋服を身にまとった男女の面影が見えた。
「―――――あら、それくらい教えてくださってもいいんじゃなくて?」
鼓膜を擽る深く甘い声色は、人を惑わせる魔性のような妖しげささえ備えているような気がする。
猫のように肩に擦り寄る美しい女性、そして白い腕を絡められているのは見慣れた軍人の姿だった。
「いいから、離れてくれねぇかなー…」
げんなりとしながらも女性であるためか強くは出れず、されるがままになる山縣。
「……いらっしゃい」
一応は声を掛けながらも、むかむかとざわつく胸に彼女は首を傾げたくなった。
(なんだっていうんだい)
そんな自分にさえも苛立ってしまい、困惑する。
「おう、なんか久しぶりだぁな」
――――へらりと笑ってみせた、男の顔にさえ。
「……悪いけど、今日はもう締めるんだ」
勿論、そんなつもりであったはずはなかったのだ。
けれどそんな意地の悪いことを口にした自分に、いまさら訂正もできず彼女は唇を噛む。
山縣はがしがしと後頭部をかくと、
「…そうか、悪かったな。また出直すとすらぁ」
どこか寂しげにその大きな手をひらひらと揺らしてみせた。
――――出直す?
出直すって、つまり。
うちを、誰かに紹介しようとか、した、とか?
つまり、
そう、つまり、
(――――また、そのひととうちにくるって?)
どっと、いやな汗が彼女の背中を伝い始めた。
「急すぎたよな、悪い。次は一太郎に土産か何かでももってくるわ」
どくどくと、いやに鼓動が速くなっていく。
じわり。
(……なんだって、いったい)
じわり、じわりと。
その暗い炎は彼女の胸を焼き始めた。
突如黙り込み立ち尽くした彼女に、男は驚き慌てふためく。
「……おい、大丈夫か?どこか体調でも悪いのか、おりんちゃ――――」
ひょこりと自らを覗き込んだ背の高い男の胸倉を、彼女は咄嗟に掴み。
「………っ!」
彼女は男の薄い唇に、自らの赤い唇を押しあてた、