悼みの時季 *矢玉
頬をくすぐるやわらかな猫の毛、ざらりとしたぬるい舌に、細い鳴き声。それにうながされるように、紫子は瞼を震わせゆっくりとその飴色の瞳を空けた。
そして、眼前に将臣の秀でた顔があり、硬直する。
事態が呑み込めず、そのまま数秒間静止した後、ゆっくりと身を起こす。
酔った末に宴席を外れこの部屋にきてからの出来事。己が何を口走ったかはほとんど覚えていない、だが青年が言ってくれた言葉は不思議と思い出せた。
しかし。ほとんど思い出せないうすぼんやりとした昨日の記憶で、かすかに何やらとんでも無い事を言った気がし、頭に血の気が上りくらくらした。
自分の姿を見下ろし、再び息を呑む。
晴れ着の振袖のまま寝入ってしまったと悔やんだのは一瞬。なぜ帯がゆるみ胸元が肌蹴け、裾が乱れているの、だろうか。
飛び上がるように袷をかきあわせ、そのまま泣きそうな顔になる。
憶えていない、あの青年の優しい言葉以降まったく。憶えていないのだ。ほとんど恐慌状態に陥った紫子の横からうめき声が。
長い睫毛が震え、上質な水晶硝子のような青灰の瞳が露わになる。
ぼんやりとした様子のまま、無邪気に微笑まれた。
「・・・・・・おはようございます、紫子さん」
それにぴくりとも反応できない紫子の様子を不審に思ったのかゆっくりと彼も身を起こし――――――そのまま硬直した。
口元に手を当て、固まる。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
無言の時だけが、静かに流れる。
その沈黙にとうとう耐え切れなくなった紫子は震える唇を動かした。
「昨日は、あの、失態をさらし、まして」
「・・・・・・いえ」
「あの・・・・・・あの、ですね、あの」
言いたくない、が聞かなければもっと怖い。
「昨日は、何が、あったのでしょうか・・・・・・?」
それに青年が息を呑むのがわかりますます居たたまれない。
「覚えて、おられない?」
「あ、アロイスさまがおっしゃってくださったことは憶えて、おります。けれどその」
横になってからの記憶がない。
将臣は無言で手のひらに顔をうずめた。
「あの」
「・・・・・・覚えておられないなら、結構です」
私もいささか、酔っていました。そう告げられ、ますます不安になったものの、赤面してそれどころではない。
あまりの動揺からか、眩暈が。天井が回っている気さえする。
頭痛をこらえるように顔をしかめる紫子。それに気が付くと将臣はそっと手をのばし紫子の額に手を当てた。
「もしかして、二日酔いですか?」
「そうなので、しょうか」
紫子は今までほとんどアルコホルの類を取ったことが無い。だがカフェにいた頃に、姐さんたちが朝方呻いているのを見ていたので、二日酔いがどういう症状なのかはわかっている。
「ふわふわ、します」
「たぶん二日酔いですね。しばらく横になっていてください」
すっと青年が立ち上がったのに、また飛び上がる心地がした。その怯えた猫のような様子に口を開きかけた将臣も、何を言っていいかわからないように口を動かした後、お大事にとだけ告げ、部屋をあとにする。
紫子はそのまましばらくうずくまったままの姿勢でいたが、そろそろと動き出した。
まず、着替えてしまおう。そして、寝てしまおう。そうすればもう少しいろいろと考えられるはずだ。
動かない体を動かし、華やかな振袖を肩からすべらす。皺の心配をしながら夜着に着替え、再び横になった布団に青年の残り香がするような気がして、泣きそうになりながら赤面した。
***
「紫子さん、起きていらっしゃる?」
廊下から声を掛けられ、紫子は飛び起きた。
はいと上擦った声で応えれば、いつもの微笑みを浮かべた弥生夫人の姿が。
「体調は、大丈夫かしら」
「昨日は、あのような失態を」
申し訳ありませんと、消え入るような声で告げるのに、夫人はいつものようにころころと笑った。
「お酒、弱いのねぇ。今度から私たちも気を付けておきますね」
紫子は、うつむくことしかできない。耳まで赤いのが、自分でもわかる。
「そうそう、お風呂が沸いたのだけれど、どうします?夕餉は食べられるかしら」
今日はお風呂、やめたほうがいいかしらと呟かれる言葉に障子を見れば、真っ赤に染まっていた。どうやら、一日中寝ていたらしい。あまりの事態に、もう消えてしまいたい。
再度の弥生夫人の呼びかけで我に返る。そしておずおずと口を開いた。
「あの、ご迷惑でなければお湯を使わせていただければと」
綺麗に結われていた桃割れはところどころほつれ崩れてしまっている。それに慣れない日本髪のせいか軽い頭痛もし、はやく髪を潰してしまいたかった。
そのまま、体調が万全で無い中の入浴と洗髪がいけなかったのだろうか。
紫子はその晩から熱を出した。
***
「心配いりません」
体のおもわしくない母にうつしたくないから、と紫子から言付けを頼まれた将臣が明代にそう告げると、明代は静かに目を伏せた。かけらも動揺が無いのを、かすかにいぶかしむ。それがわかったのだろう。明代は安心させるように将臣に微笑みを向ける。
「あの子は、この時期になると熱を出しやすくて。毎年の事、といってはおかしいでしょうが」
「そうなの、ですか?」
今回の事はそれ以外にも要因があるような気がするのだが、というのは後ろめたくてとても口にはできない。
そんな将臣を不審に思うでもなく明代は、遠くを見つめていた。硝子障子の奥、東郷の庭園にはまだまだ白く雪が積もっている。
「雪が降る時期になると、いつもそう」
呟かれた言葉は、かなしげ、で。
「藤乃が死んだのが、この時季なのですよ」
昨晩はセーフだったそうです!!!一応!!!(ついったー談)




