初春の宴 *矢玉
針や糸を裁縫箱にしまっていた紫子は、襖の向こうの呼びかけに不思議に思いながら応えた。
つい先ほどまでこの部屋を訪れていた将臣の声だったからだ。
現れた青年の腕の中にはちっぽけな黒い毛玉が。大きな手の中にいては、あまりに小さく見える。
「まあ、子猫ですか?」
「ええ、庭にいたんです」
猫は雪のせいだろうか。その毛並みが濡れている。紫子は慌てて手ぬぐいを二枚出した。青年の肩のあたりも濡れているのだ。
将臣から手渡された子猫を、そっと手ぬぐいで包んでやる。
にゃあ、とつぶらな瞳でこちらを見るのが、可愛らしい。火鉢の横へ移動し、その小さな体を温めてやる。
こぼれるような笑みを浮かべ、手の中の子猫をかいがいしく世話する紫子を見て、将臣はそっと息を吐いた。
「やっと笑ってくれましたね」
「え?」
「最近のあなたは、寂しそうに笑ってばかりでしたから」
その一言に紫子は頬を赤らめる。
「申し訳、ありません」
「謝らないでください。そんな謝ってほしいわけでは無くて・・・・・・」
何と言えばいいのだろう。考え込んだすえに出てきた、言葉。
「心配、していただけです」
ああ、この少女が己の身を案じてくれていたのもこういう感情だったのかと青年はぼんやり思った。
「でも少し悔しいですね。あなたを笑わせたのが私ではなく、その猫だったなんて」
「そんな」
慌てたように手を動かすと、にゃあと子猫の不満そうな鳴き声が。そのまま膝を降り、火鉢に身をよせるように丸くなる。ゆらりゆらりと、小さな尻尾が揺れていた。
「猫には、少し思い入れがあって・・・・・・昔、近所のお寺に子猫が住み着いたのです。この子と同じ、黒猫でした」
その小さな姿が可愛くて。
「でも、近所の子どもも同じことを思ったのでしょうね。いつも誰かがその猫をかまっていたので、私はあまりさわれなくて。それを見かねた庵主さまが、お堂の中で子猫を抱かせてくれたのです」
小さな、ただ暖かなぬくもりを与えてくれる存在が愛しくて。毛並みはやわらかくてなめらかで、ぺろりと頬をなめられて、ひどく驚いた。
「庵主さまは、こんな私にも優しくしてくれた方でした。郷里では、母以外唯一の」
再びよみがえる、その飴色の瞳の奥のさびしい色。
「その庵主さまが――――――尼さまが、亡くなられたと母から聞いて。それで、少し沈んでいました」
紫子は泣きそうな顔で微笑をうかべた。
***
新年の準備は慌ただしく過ぎて行った。
大掃除や、正月料理の手配。門松や、しめ縄などお正月飾りを、女中や家人が慌ただしく用意する。
この東郷家は本家にあたるので、年始の挨拶回りに訪れる客人はたくさんいるのだ。その接待に不手際があってはと、皆忙しく働いている。その忙しさにまぎれたのか紫子の顔から憂いはいつしか消えていた。
それがいささか心配だったが、将臣自身も気づかう余裕もないほど雑事に忙殺されていた。
正月元日。
晴れ着に身を包んだ紫子に、将臣は眼を見張った。
濃淡の美しい淡い若草色の振袖には紅色の椿がいくつも華やかに散らしてある。黒い西陣の帯には金銀で縫い取られた松竹が。帯留めは、梅を描いた赤漆。
そして紫子は、髪を日本髪に結っていた。赤い髪を桃割れに結い、紫子の瞳のような鼈甲の簪をさしている。
「母と、弥生さんに娘時代の最後のお正月なのだからと、すすめられて」
おかしいですか?と不安そうに上目づかいに見つめられて、思わず手のひらで顔を覆ってしまった。
「アロイスさま?!やっぱりおかしいでしょうか・・・・・・」
「違います、大変よくお似合いです。ちょっと驚いたというか、いつもと雰囲気が変わられていて」
「兄さんは見惚れて照れているだけだと思うよ、紫子さん」
「兄さまが見とれるのも当然ですわ。今日の紫子さん、とっても可愛らしいんですもの!Japanisch Puppeのようです。日本髪、というのでしたか?わたくしもその髪型にできればいいのに」
波打つ金のブロンドの髪の持ち主である薫は残念そうに言った。髪質が柔らかすぎて、結えないと言われてしまったのだ。そんな薫は藍色の振袖姿。亀甲模様の銀の帯と合わせると、西洋人らしい華やかさがますます際立つ。
薫は将臣の妹であることは伏せ、修雅の友人の娘としてこの宴席に参加することになっている。
「さあさあ、皆さん。楽しいのはわかりますが、お客様がお見えですよ」
弥生のその言葉に、慌てたように若者たちは動き出した。
前当主である修雅は病床から起きられないので上座には将臣が座り、その横には弥生が控えている。次には分家当主の成篤が座るはずなのだが、その席を篤康に押し付け紫子の隣を陣取ったのに将臣の青灰の瞳が冷たく眇められた。
「おお、紫子さん。今日は特別華やかだなぁ」
「ありがとうございます」
緊張した面持ちで礼をのべる紫子の肩などをべたべた触るのが、ひとく癇に障る。
「成篤兄上、ご自重ください」
「そうですよ。成篤叔父上、兄さんの顔がすごく怖いです」
「将臣が怖くて紫子さんの横に座れるか!!なぁ紫子さん!!」
きょとんとした顔を成篤に向ける紫子は、全く分かっていないらしい。
その間にも続々と親族などが現れ、当主である将臣に挨拶していく。ちらりと紫子に眼を向け、ひそひそと言い合う声も少なくなかったが、分家当主の成篤が紫子を可愛がる様子や、無言のうちに篤康が認めているのを見てとれば、大っぴらに非難することもできないようだ。
そのうちに膳が運ばれてくる。次々と女中たちが運んでくるのはおせち料理の数々。
煮しめやたつくり、昆布巻きや赤いちょろぎ。黒豆に数の子。どれも料理人が数日かかりで仕込んだ品々が、箱膳に綺麗に盛り付けられている。
乾杯の音頭とともに朱塗りの杯が干される。
新春の宴が始まった。
「兄さん」
伊織にそっと呼ばれ、将臣は驚いた。ちょうど話し込んでいた親族に詫びを入れ、伊織は小声で耳打ちする。
「紫子さん、お屠蘇で酔っちゃったみたいなんだけどどうしよう」
思わず眼を向ければ、紫子は赤い顔をしどこかぼんやりしていた。慌てて立ち上がりかけたのを、伊織が制す。
「兄さんが言ったのじゃ目立ちすぎるから、僕が行くよ。兄さんは廊下で待っていて」
そういって己の席へと戻り、紫子を立ち上がらせる。
幸いにも周りの客人たちも酔っていて、さほど人目を惹かずに済んでいるようだ。
「弥生さん、少し席を外します」
弥生の返答を待たずに立ち上がる。急いで廊下へ出れば、伊織の腕にすがるようにして紫子が立っていた。
「紫子さん」
「ごめんね、兄さん。気を付けてはいたんだけど・・・・・・成篤叔父上が、ちょっと日本酒も勧めちゃったみたいで」
殺気がわいたが今はどうでもいい。抱き上げようとしたが、紫子は身をよじった。
「大丈夫です、歩け、ます。ですからアロ、東郷さまはお戻りに」
アロイスと言いかけて慌てて言い換える。
その間もふわふわするのか視線が定まらない。いつかの夜会の時よりひどいようだ。
「こんなあなたを放り出して戻ることなどできません。弥生さんにまかせてきたので大丈夫ですよ」
きっぱり言い切ると、少女の体を支える。力が入らないのかその身はくたりと腕に収まる。口で言うほど、大丈夫ではないのは明らかだ。抱き上げようとも思ったが、今この屋敷には多くの客人がつめかけている。他人のために外聞を気にする紫子が承知するとは思えず、おぼつかない足取りの少女を支えゆっくりと歩き出した。
紫子を少女の自室へと連れて行き、とりあえず座布団に座らせる。
「着替えて、横になりますか?」
正装用の丸帯を華やかにふくら雀に締めているのは、綺麗だがいつもの何倍も窮屈そうだ。
しかし、ふるふると首をふられてしまう。どこか、子どものようなその様子にとまどう。
「えっと、では酔い覚ましに水をもらってきますね」
こくりと頷かれたので、台所に向かう。宴席にいるはずの当主が突然現れたのに台所にいた者たちは仰天したようだが、紫子の様子をきくと急いで檸檬水をつくってくれた。酔い覚ましにはこちらのほうがいいらしい。
急いで戻り、ひと声かけて襖へ手を掛けたまま、将臣は硬直した。
紫子は、ほとほとと涙をこぼしていたからだ。
我に返ると慌てて部屋へ入り、傍らに座る。
「紫子さん、どうしたのですか?」
それにもまた子どものように首をふるだけだ。
「とりあえず、水を飲んでください。ゆっくりでいいですから」
取り落としそうなので手を添えて水を飲ませてやる。
その際に、白い喉がこくりこくりと動くのを注視してしまった。それが、なんとも艶めかしい。
水を飲み終えた後も、紫子の涙は止まらない。次々と玉を結んで、火照った林檎のような頬を滑り落ちていく。
「なぜ、そんなに泣いているんですか」
「・・・・・・だって、みんな。わたしを、おいていくから」
ぼんやり呟かれた言葉に困惑する。
「藤乃の母上も、尼さまも、きっと明代の母上も、わたしをおいていく。わたしのせいで、みんな」
あなたも、そう縋るような飴色の眼が。
「あなたは少しも、己を大事にしてくれないから・・・・・・守、らないから。きっとわたしをおいていく。なぜ、ですか」
ひどく煽情的だった。
「ひとりは、もういやなのに。さみしいのもかなしいもの、もうたくさんあったからいやなのに。やっぱりわたしが、人を不幸にする忌み子だか、ら?」
縋りつくように、胸元に身を寄せられると。椿のような甘い匂いがした。
あとがき
紫子がお屠蘇で酔っぱらってますが、お屠蘇は日本酒で作る場合もあったそうで。たぶんこっちが出たのかと。みりんで酔っぱらってはいないはずです。
そして将臣さんの理性を駆逐し隊(二回目)




