therapy-9
ユファもいよいよドナーとして皮膚端子をつける日が来た。
その日、ユファは初めて採血センターと呼ばれるところに行った。ユファは病院のようなものを想像していたが、どちらかというと、ちょっとしたホテルのような雰囲気の場所だった。これで各部屋の中に採血のための医療器具が置いていなければ、ホテルとして十分通じるだろう。
皮膚端子をつけるのは思ったより痛みもなく、簡単だった。いくつかのアレルギー検査、血液検査の後、ぶよぶよした膜を左腕の肩口に載せ、特殊な光を当ててくっつけるのだ。それを3回繰り返して厚みを出す。
色のない絆創膏を貼っているような感じだった。これが高機能性を具えた高分子膜などというたいそうなものだとはとても思えなかった。
その夜、屋根裏部屋でユファはつけたばかりの皮膚端子をソウに見せた。
「ほらソウ、見て。あたし今日、皮膚端子をつけたの」
皮膚端子という語感から生々しいものを想像したのか、最初こそソウはひたいにシワを寄せながらおそるおそるといったようだったが、実物を目にするとシワをゆるませた。
「痛かった?」
「ううん、そうでもなかったけど……どっちかと言うと面倒くさかった。でも仕方がないじゃない、このおかげであたしはここで暮らせるんだから。ドナーだからなのよね、こんなふうな良い暮らしができるのは。あたしの価値なんてそんなものよ」
ユファは冗談めかして言ったつもりだったが、ソウの受け取り方はちがったようだ。妙に真剣味を帯びたきつい口調で言う。
「俺、そういう言い方って好きじゃない。人間に価値のちがいなんてないよ。価値のちがいがあるって思いこんでいる人がいるだけだ」
胸の苦しさがユファを襲う。また自分がソウを怒らせてしまった。そう思うと、ユファの口から謝りの言葉がするりと出た。
「……ごめん、冗談だから。あたしも本心はソウと一緒だよ」
こんな反応をするなんて、もしかしてこれはソウのふれてはいけない部分なのかもしれない。ユファにはそんなことを考えつく余裕があった。最近、ソウに謝ってばかりだなとも思う。
「こっちこそごめん。強く言い過ぎた」
ソウは、やっとユファに他意がないことが判ったらしい。穏やかな口調で続ける。
「提供してもらう側のレシピエントには、提供するドナーの想いなんて本当は関係ないのかもしれない。けど投げやりよりは、もっとちがうなにか、前向きな気持ちの方がいいんじゃないかな。そういうことも考えてみてほしいな」
ソウの目は淋しそうだったが、ユファにはその理由を読みとることができない。
ユファの胸の苦しさは、消えることはなかった。
サンドラは採血事前検査の第2週を迎え、先週と同じくユファは店番を頼まれた。ユファはもう立派にサンドラの右腕なのだ。
お客が来なくて暇を持て余すのも何なので、カップを磨こうと布を捜している時だった。ユファは一冊のノートをみつけた。いまどき珍しい紙のノートにつけられたタイトルは「保護観察」となっていた。
最初のページには、会話による軽度人格障害の矯正、及び環境適応の促進──チャット・セラピー理論の実践、とあった。次のページにはユファがサンドラや磯崎、ソウと話したことが分析とともに事細かに書き記されていた。ソウについても同様でユファが知らない、ソウと、サンドラや磯崎との会話の内容が書かれていた。
「……だから、親切にしてくれていたのね」
ユファは、自分が呟いていたその言葉に泣きそうになった。ノートは元ある場所にそっとしまって、見なかったことにした。それから、サンドラに対する自分の態度がぎこちなくなるだろうと思った。それはどうしようもないことだろうとも思う。
夕食の時、やはりサンドラはユファの態度がいつもと比べてよそよそしいのに気づいたようだった。しかし、理由を聞かなかったので、ユファはほっとした。
その晩、ユファが部屋でため息を吐きながら天井を眺めていると、ソウがユファの部屋のドアをノックした。
「ユファ、お月見しよう」
ソウから誘うのはこの一ヶ月で初めてだった。
いつもなら、珍しいじゃない、とかなんとか茶化しもしただろうが、今のユファにそんな元気はなかった。
「気分がのらないの、そっとしておいて」
するとソウは何気なく言う。
「マリィは、月を見たがっているみたいだよ」
まるで、ソウにはマリィの気持ちが判っているようだ。ソウの言うとおりだった。マリィは窓辺から熱心に月を見上げていた。碧の毛がきらきら光る。
ユファは笑みをこぼした。ユファの負けだ。
ソウの後に、マリィを抱いたユファが続いて屋根裏部屋へ向かう。
「あたしたち、サンドラにとっては実験対象だったのよ」
唐突なユファのしぼり出すような告白に、ソウはおだやかにうなずいて言った。
「フォウス・リーフの名前の由来、知ってる?」
ユファが首を横にふると、ソウは続けて言った。
「四ツ葉のクローバーは知ってるよね」
今度はユファもうなずいた。
「フォウス・リーフはクローバーの4枚目の葉っていう意味なんだ。普通なら3枚しかないクローバーを幸福のお守りに変える、4枚目の葉っぱなんだって」
そして、ソウはさらっと言った。
「俺は保護観察のことも知ってたよ。
ユファ、もう少しサンドラのことを信じてみよう。彼女が義務とか、そんなことだけでここまでよくしてくれているとは俺には思えない」
ユファはすり寄ってくるマリィののどを掻いてやった。
「よくそんなこと知ってたね」
次のソウの答えはユファの思いもよらないものだった。
「サンドラはここではちょっとした有名人なんだ。俺、ずっとエンジェル・フィールドにいたから、彼女の話はいろいろ聞いてる」
「え、あたし、てっきり、ソウもコロニーから来たんだと……」
また胸が締めつけられるのをユファは感じていた。ユファはそれ以上言葉を続けることができなかった。
「俺はユファと逆。これからコロニーで暮らすんだ。ドナーじゃないから、ここにいられなくなったんだ。ここに来たのは両親と離れるための、練習みたいなもので」
「……そうだったんだ」
それ以上二人は何もしゃべれなくなって、どちらともなく部屋へ帰っていった。
ユファとマリィが一緒にいる姿を見たのは、それが最後だった。
翌朝、ユファは横で寝ていたはずのマリィがいなくなっているのに気づき、それとなく一日中マリィを捜した。
夕食時にマリィがいないことに気づいたサンドラが訊くと、ユファはこう答えた。
「マリィ、年だったから、たぶん死に場所を探しに行ったんだと思う。猫って死ぬところ、人に見せないって言うし。いつかそういう日が来るって思ってた」
そうは言いながらも、ユファの表情には力がなかった。
二、三日たってもマリィの姿は見えなかった。ユファは悲しげな様子を見せなかったが、時々ぼうっとして窓の外を眺めていることがあった。
そうしているうちに、今日、ソウがコロニーへ旅立つという日が来てしまっていた。