therapy-8
夕食を終えて、ユファは自分の部屋に戻っていた。あの不愉快な客たちがいつ帰ったかとか、夕食のメニューさえ、ろくに覚えていない。
自分はサンドラたちにとって負担でしかないのか。
そればかりずっと考えていた。
ふと頭の中にソウのウィンドチャイムの音が響いた。廊下に出てみると、屋根裏部屋への階段が下がっている。ユファはそっと上に昇った。
屋根裏部屋ではソウが本を読んでいた。
初めてソウを見た時のことを、ユファはふいに思い出した。
あの時も透明だった。
周りの風景にとけこんですっかり太陽に染まっていたソウ。今はもうじき満月を迎える、優しい月の光に染まっている。
あの時は個性がないと思ったが、これがソウの個性かもしれないと今なら思える。
ユファは日だまりの匂いを嗅いだ。この部屋はいつ来ても安心する。この匂いが心をなごませてくれるのだ。
ウィンドチャイムが風に揺られて音を立てる。ユファは我に返り、ソウに話しかけた。
「何してるの?」
ソウはちらりと目を上げてユファの姿を認めると、言った。
「本、読んでる」
「ふーん」
興味がなさそうにしながら、ユファはしっかりとタイトルを見ていた。「妖精の祈り」。あの本だ。
ソウが本に視線を落としたまま、口を開いた。
「夕飯、少ししか食べなかったね。サンドラが気をきかせて用意してくれてるよ。下にあるから、食べたかったらどうぞ、って」
しかしユファの唇からもれたのは、ため息だった。
「あたし、考えていたの。サンドラのことなんだけど、どうしてそんなにあたしにかまうんだろう、私と血がつながっているわけでもないのに……って。
そう言えば私の義理の母親って人もそうだった。何か得でもするのかしらね」
(今まで育ててくれてありがとう。あたし、母さんのこと忘れないから。さよなら)
ユファが母親との別れの時に口にしたその言葉にいつわりはない。ユファが母さん、と呼んだあの女性は、ユファが8歳の時に亡くした実の母親に代わって4年間、ユファが、自分が愛した男の娘であるということだけで育ててくれた。
彼女はその愛した男──ユファの父親と夫婦でいられたのはほんの3か月だけだったのに。
ユファは10歳の時に実の父親をも亡くしていた。血もつながっていない娘を3年近く一人で育てた女性は、つい半年ほど前にやっと新しい伴侶を得た。
「あの人は必死になってあたしに愛情をそそいでくれた。そんな人と別れるっていう時、エンジェル・フィールドに来る時に、あたしは涙が出なかった。
あの時、あたし判ったの。あたしはそれまで彼女に気を遣ってきた。そんなことはもうしなくていいんだって安心したから、涙が出なかったんだなって」
ちらりとユファがソウの顔を見ると彼は黙って、でも何か言いたげなのをこらえるような、泣きそうな顔をしていた。ユファはその理由が判らないまま、話を続ける。
「あたしは、父さんが愛したという理由だけではあの人を母さんだとは思えなかった。相性もそんなによくなかったし。お互いがやること全部、どうして? って言いたくなるような感じ。
でも一生懸命に自分の母親になろうとしてくれている彼女に冷たくできなかった。それが逆につらかった」
言っていてユファは不思議に思った。つらいと感じていたなんて、自分自身でも気づかなかった。口にすると、今まで抱えてきた重いものが、すっと溶けていくような気がした。
ユファには理解できなかったのだ。人のために何かできるということが。だから、逆に辛かったのだろう。
ソウは今にも泣き出しそうになっていたが、ユファは気づかない。ユファは自分の中に突然わいてきた考えに気を取られていた。
「そう言えば、あたし、いつもこんなことも思っていた気もする。どうしてこの人はあたしの母親になりたがるんだろうって。あの人が好きだったのは、あたしじゃなくて父さんだったのに」
(あたしもあの人に好きだって言って欲しかったんだろうか?)
そう心の中で呟く。しかしユファはその呟きを声にしない。あまりにも突拍子もないその場の思いつきに思えたので。
いつの間に階段を上がってきたのか、足許にいたマリィをユファは抱き上げた。
「あたしは、最初はサンドラと磯崎さんを他人だとか、そんなふうに感じなかった。でも今日の昼間、ある人たちに言われて、よくよく考えればあたしとサンドラと磯崎さんの間には何もないっていうことに気がついたの。
それにね、サンドラと磯崎さんにはあたしたちの面倒を見る義務があったのよ」
突然、マリィがユファの腕をすり抜けた。そのとき初めて、ユファはソウが怒っているんだと思った。それは正しかった。
ソウはいつもとちがう低い声で吐き捨てるように言う。
「そんな言い方はないよ。少なくともサンドラと磯崎さんは本物の親として以上に頑張ろうとしてくれている。でも、そんなこと、ちっともこっちに押しつけない。それがユファのご両親とちがうところなんじゃないの」
ソウははっとした。ソウの目の前でユファの表情が、怒りへ変わっていく。
言ってから気づいた。ソウはユファのふれてはいけないところにふれてしまったのだ。
「そんな決めつけるような言い方して、あんたに何が判るのよ。あたしの親に会ったこともないくせに。いっつもどこかに出かけてフォウス・リーフに来るお客さんとも話したことないくせに」
しまった! と心の中にいるもう一人のユファが叫ぶ。このことは、ソウに言ってはいけないとユファが決めていたことなのだ。
でも、ともう一人の自分に向かったユファは言う。
ソウだってひどいことを言ったんだから、このぐらいでちょうどいい。
やり過ぎなのはすぐに判った。ソウの声がいつもの穏やかな調子に戻ったからだ。
「確かに俺は何も判らない。けど、サンドラが美味しい食事を作ってくれているのは事実だから。
サンドラはたぶん、本当に人のために何かができるんだよ。人を思う気持ちがなかったら、あんなに美味しい料理は作れないと思う」
本当はまだユファに対しての怒りは消えていないだろう。ソウはそれを抑えていつもどおりに話そうと努力してくれているのだ。
ユファは突然、感じた胸の苦しさに戸惑った。こんなソウを見ているのは耐えられない。でも、ここまで追い込んでしまったのは自分なのだ。
お互いが泣きそうな顔をしていた。だんだん気まずくなってきて、二人は何もしゃべれずにただ黙って相手が何か言うのを待っていた。
と、急に下から明りが射しこんできた。ユファとソウはあわてて明かりの方を見る。
「よぉ」
階段から姿を現したのは、磯崎だった。手にはランプを持っている。
「暗いんじゃないかと思ってね。でも、必要なかったようだ」
ソウのランプを見て、磯崎は残念そうに言う。かといって持ってきたものを持ち帰りはせず、ソウのランプの隣に持ってきたランプを置いた。
さっきのユファとソウの激しいやり取りは聞こえていただろう。しかし、追求することはしない。
「親代わりとしては夜更かしはほめられないけど、今日ぐらいはいいだろう。ただ、サンディがぐっすり寝てるから、静かにしてやっててくれると助かるよ」
磯崎の言葉の中には妻への優しい気遣いがあった。彼がドナーであろうとなかろうと関係ない。彼は妻を大切に思っている。
人が一緒に暮らすと決めるのに、愛情以外の理由は入りこんでほしくない、とまだ少女と呼ばれる年齢であるユファは思っている。が、ユファは現実の厳しさもそれなりに知っていた。
だからこそ、サンドラと磯崎にはいつまでも一緒にいてほしいと思う。
ユファは自分のこの気持ちが、もしかしたら祈りといえるものかもしれないことに気づいた。あたしにも、あの絵の少女のように、他人を思える気持ちがある?
二人に「早く寝るんだぞ」と声をかけて磯崎は下へ降りていった。足音が遠くなったのを確認して、ユファはソウにささやいた。
「磯崎さんってサンドラのこと、サンディって呼ぶんだね」
「うん、初めて聞いた」
ユファとソウから、自然と笑みがこぼれる。
「さっきはごめんね」
笑みがユファから謝る気持ちを引き出してくれた。ソウも同じだったらしい。
「俺こそ、ごめん。ただね、ユファはユファなんだから、自分の気持ちを大切にすればいいんだよ、きっと。人に何か言われたからって自分の気持ちを変にしなくていいんだ」
言ってソウは目を伏せた。
「……ごめん、俺、またえらそうなこと言ってる」
ソウの言葉に自分を気遣ってくれる気持ちが透けて見えたので、ユファが気持ちを高ぶらせることはなかった。
「いいの。それよりその本、借りていい?」
その本とはもちろん「妖精の祈り」のことだった。
「どうぞ。一回読んだから」
そのソウの言葉が本当かどうかは判らないが、ユファはその本をソウの手から受け取っていた。部屋に戻るとユファは1ページ目から夢中になって読んだ。
「妖精の祈り」は短い話だった。森を救おうと必死に走る妖精の叫びが胸に突き刺さる。妖精たちが住む森が失われたのは人間の身勝手からだったが、あきらめかけた妖精を助けたのも人間だった。それが救いだった。
その晩、夢の中でユファは妖精になって森の中を駆けていた。