therapy-5
次の日、ユファは寝坊をしてしまった。
家中で朝日が最初に差し込む東向きの部屋にも関わらず、ユファが目を覚ました時には、部屋の中は暗いままだった。不思議に思って時計の文字盤に目を走らせる。アンティークなアナログの時計の針が指していたのは、太陽がとっくに昇っているはずの時刻。
ユファが体を起こしカーテンを開けると、朝日というのには強すぎる太陽の光が部屋の中に飛び込んできた。
慌ててユファは階下に降りていく。その後をマリィがのそのそと追っていく。ちょうど、サンドラの「いってらっしゃい」の声がした。磯崎が家を出ていくところだった。
「おはようサンドラ」
ばつが悪かったが、ともかくユファは朝のあいさつを口にした。
サンドラは笑顔で応える。
「おはようユファ。カーテンを閉めて寝ちゃったのね。あれ、優秀な遮光カーテンだから、疲れていると、朝が来たことを判らないで寝過ごしちゃうのよ」
サンドラの手でユファだけのために、遅めの朝食がテーブルに並べられる。目の覚めるようなブルーのナプキンが敷かれたカゴに入ったロールパンは、触れるとまだ温かった。
「焼きたての、届きたてなの」
とサンドラは言ったが、それだけではないことがユファには判った。ナプキンの下にはブレッド・ウォーマーとして暖められた陶器のプレートが忍ばされていたのだ。
パンには、さくらんぼのジャムが添えられている。皿には柔らかめのスクランブルエッグとカリカリのベーコン、レタスの緑とコーンの黄色、にんじんの赤が鮮やかなサラダがたっぷり盛られていた。コップには牛乳が、テーブルの奥に置かれた小さな皿には飾り切りをしたオレンジが載っている。
一日を過ごす元気がわいてくるような朝食だった。
サンドラが言うには、ソウは一足先にサンドラたちと一緒に朝食を終え、外に出かけたらしい。
ユファが食べるのに熱心になっていると、まだOPENの札もかけられていないドアが開かれた。
「こんにちは」
言いながら入ってきたのは、何やら大きな本のようなものを持った、30代ぐらいの男性だった。彼はフォウス・リーフの常連らしかった。開店前のプライベートな時間に店の中に入ってきた彼を、サンドラが嫌な顔ひとつせずに応じたのだから。
「あら、今日は木曜日だったのね。ごぶさたでした、佐倉さん。先週はどうしていたの?」
「先週は採血だったんですよ。今、センターの帰りで」
そう言ってサンドラが佐倉と呼んだ男は、半袖のシャツの左袖を少しめくった。そこには採血のための皮膚端子がついているはずなのだが、ちょっと見ただけでは判らない。
佐倉は採血と言ったが、実際には血液は採らない。血液中の血漿から或る成分だけを抽出し、それ以外は体に戻す。その時に回収される成分が「メディスン」と呼ばれる薬になり、被提供者に処方される。
エンジェル・フィールドに住む提供者はみな、それぞれ12週、つまり3か月の採血サイクルを持っている。
最初、3週の間、1週に1度、採血事前検査を受ける。その後、1週かけて採血と呼ばれるメディスン有効成分回収プログラムを受け、それから4週の間、1週に1度、採血事後検査を受ける。事後の検査の後、4週間は通常の生活をする。
こう何度も注射すると血管がぼろぼろになってしまう。数年前までは血管に入れる管、カテーテルが使われていたが、今ではより違和感の少ない皮膚端子が用いられている。
たいてい左の上腕部に取り付けられる皮膚端子は、通常は目立つことはない。目に見える吸い口がついているわけではないのだ。
皮膚端子とは生体癒着性の良い高分子浸透膜、ミクロの網で、採血の際にはその部分に電流・磁場などを調節してかけ、ほぼ有効成分のみを吸い出す。
エンジェル・フィールドの提供者にはすべて皮膚端子がつけられていた。
佐倉はまくり上げた袖を戻すと、サンドラに言った。
「いい匂いだね。新メニューかな。ミセス、ぼくにもあの子が食べているのと同じ物を」
あの子というのはユファのことだ。サンドラは佐倉に向けて軽く頭を下げる。
「ごめんなさい、これはお店では出さないの。この子はユファ。昨日から1か月間、ここで暮らすことになったのよ」
そこで初めてユファと佐倉の目が合った。
「なるほど」
そう言って佐倉は納得したようにうなずき、続ける。
「はじめまして、ユファ。ぼくは佐倉。しがない絵描きだよ」
証拠に、と佐倉はユファに持っていた本を広げて見せてくれた。本だと思ったのはスケッチブックだった。中には、景色や、小物や、植物や色々なものが繊細な鉛筆の線で描かれていた。
サンドラを描いたものもあったが、そういうところになると佐倉は決まって心持ち早めにページをめくってしまうのだった。
「ミセス磯崎とは、彼女がミスだった頃からのつきあいでね……」
スケッチブックの中には繰り返しモチーフにされているものがあった。サンドラもそうだったが、植物のコスモスも何度も描かれている。
ユファははたと思いついた。確かあのサインは……。ユファは思い切って佐倉に聞いてみることにした。
「あの絵は佐倉さんが描いたんですか?」
ユファは紫の夕日の絵を指す。勘は当たっていた。
「そう、ぼくの作品。気に入ってもらえたかな」
ユファは昨日、絵を初めて見た時に思ったことを素直に口にした。
「コスモスとかは、あたしも好きなんです。ただ、夕日にしては紫の色が強すぎるんじゃないかって……」
佐倉はちょっと意外そうな顔をし、穏やかな声でユファに問う。
「ユファはコロニーの出身だよね?」
なぜ判ったのだろうと思いながらユファがうなずくと、佐倉は少しの間あごを指先でつまむ考える仕草を見せた。
「近頃ははやらないのかもな。昔はよくあったんだ。コロニーができた当時は天蓋投影技術がまだ発達していなくて、夕日がこんなふうに紫色になっていたそうだよ。
ぼくが若い頃は、まだそれを懐かしがる人がいて、そんな人たちのために気象局が時々わざとこんな紫色の夕日を天蓋に映したりしたんだ」
「へえ」
できてから50年たらずのコロニーにも歴史があるのだ。ユファは妙に感心した。
「ぼくがコロニーを発った日は、ちょうどこんな夕日だった」
それ以上話が続かなかったのでユファは、そっと佐倉を盗み見た。佐倉の目は遠くを見ていた。遠くといっても実際に見えるところではなさそうだ。
それから1時間ほどして佐倉は帰っていった。今のところ他に客はいない。
サンドラは立ち上がるとモルシートプレイヤーから今までかけていたモルシートを取り出した。今までかかっていたのは、誰でも耳慣れているだろう、息の長い活動を続けているポップスグループ<フィギュア>の曲だった。今度は何をかけるのだろうとユファは耳をすましていた。
スピーカーから聞こえてきた、リズムのはっきりした激しい曲には聞き覚えはなかった。
「お客さんがいないから、自分の趣味の曲をかけたんだけど」
「そうなんですか」
サンドラに答えながらユファは記憶を探る。
透き通った声には聞きおぼえがあった。それでいて無表情ではなく、詞にこめられている思いが心に染みてくるような歌い方。記憶の中にそういう声と歌い方をする女性シンガーの名前が一つあった。でも、こんなに激しい曲調だっただろうか。
他に思いつかなかったので、ユファは思い切ってその名前を口にして見る。
「シンガーソングライターのカレリア・クレセント、だと思うんだけど……」
「でも雰囲気がちがう、でしょ?」
サンドラはユファが感じていたことを言い当てる。
「もっと、穏やかなメロディだったと思うんです」
サンドラはユファにモルシートアルバムのケースを見せた。そこにはサインがあった。
つづられている文字は「カレリア・ウェイド」と読める。
ユファが不思議そうにそのサインを見ているとサンドラが言った。
「これは、カレリア・クレセントのインディーズアルバム、要するにデビュー前の曲なのよ」
「よくそんなもの持っていましたね」
するとサンドラはなぜか、どこかうつろな淋しそうな笑みを浮かべた。
「ちょっとね。カレリアは私の古い友人の知り合いだから。カレリア・クレセントは芸名で、このサインは当時の本名ね。今は結婚して、枚方カレリア・ウェイドになっているはずだけど」
その東洋人風の姓には、ユファにも聞き覚えがあった。いや、半年ほど前にだいぶ騒がれたから、知らない人を探す方が難しい。
「枚方って、MCウィルスの研究で有名になった枚方博士と同じ姓ですね。親戚なんですか?」
「親戚じゃなくて、その枚方ハルジ博士の奥さまがカレリア・クレセントなのよ」
その時のサンドラの目が、佐倉のあの目に似ているようにユファには思えた。遠くを、もしかすると、もう失われてしまった時の彼方の景色をみつめるような目。
きっとサンドラの言う「古い友人」とは枚方博士のことなのだろう、とユファはぼんやりと思った。そうでなければ、博士のフルネームがさらりと出てくるはずがない。その場でサンドラのことを聞くのは気が引けたので、ユファは別のことを訊いてみる。
「佐倉さん、コロニーにやり残したことでもあるのかな」
サンドラは皿を洗う手をとめて答える。
「ここにはね、コロニーに何かを残した人がくるの」
「サンドラもそうなの?」
するとサンドラははにかむような、ひかえめの笑顔を見せた。
「どうかしらね……ユファはどうなの? コロニーに残してきたものってある?」
ユファは言葉につまってしまった。今までそんなことは考えたこともなかったが、どう答えても嘘になるような気がした。
はっきり言ってコロニーにはろくな思い出はない。ユファに必要なのは自分自身とマリィだけだったし、マリィもいっしょにエンジェル・フィールドに来たのだから、残してきたものなんてないはずなのだ。
でも、例えばカレリアの歌を聞いていると、コロニーのことを少なからず思い出す。
カレリア・クレセントのあの歌が流れている街を歩いていた時、自分の隣には父親なり母親なり、友達がいたはずだ。その瞬間はもう二度と訪れることはない。ユファ自身がそれを選んだ。あの時の自分は楽しくなかったと言いきれるだろうか。
自分に必要なのはマリィだけ、ずっとそう思ってきた。でも、本当にそれだけなのだろうか……。