therapy-4
フォウス・リーフに二人が着くと、イーゼルの札は裏返されて「CLOSED」になっていた。中に入るとテーブルのひとつに料理の盛られた皿が4人分、所狭しと並べられていた。それらの料理はぱっと見ただけでも手の込んだものばかりで、ごちそうと呼ぶのに相応しいものだった。
テーブルを囲んだのは、ユファとソウ、サンドラと彼女の夫である磯崎氏の4人だった。お互いに簡単な自己紹介をしながら、食事は進んでいく。
会話の中でユファがサンドラのことを「ミセス」と呼ぶと、磯崎が笑った。
サンドラも笑いながら言う。
「ミセスはお店の時だけでいいから。お店の時とそうでない時と区別したいの」
言われてみれば、今のサンドラの耳にはピアスは1個ずつしかついていない。昼間、店では2個つけていたはずだ。これも彼女なりの区別の一つなのかもしれない。
「お店以外ではサンドラって呼んで」
「「呼び捨てでいいんですか?」」
ユファとソウの声がきれいに重なる。無理もない。東洋人の二人にとって、今日出会ったばかりの年上の人を呼び捨てするのには、抵抗があった。
サンドラは二人にうなずいて見せ、はにかんだような笑みを絶やさずに言う。
「だって私たちは一緒に暮らすんだから。対等な立場なの。そういう間柄では、太洋州人はふつうファーストネームを呼ぶ。オーケー?」
磯崎が続けて、自分は呼ばれ方にこだわりはないから君たちが好きなように呼んでくれればいいよ、と言った。
夕食はそんな具合になごやかに過ぎていった。デザートの果物の皿が空いた時には、ユファは、エンジェル・フィールドは思ったよりいい所かもしれないと感じていた。
エンジェル・フィールドすべてにこのことをあてはめるのは、間違いなくお気楽すぎる。が、少なくともここは大丈夫だろう……そう思うことができた。
最初の日からこう思えたことは、あとあとユファにとって幸せな記憶になっていくにちがいない。そんな予感がする夕食の時間だった。
夕食の後、ユファは自分が一か月の間、暮らすことになる部屋に案内された。マリィを抱きかかえ、階段を3階まで昇った所にその部屋はあった。
コインで決めたとおり大きな東向きの窓がついている、うすいクリーム色の壁のこの部屋を、ユファはすぐに気に入った。
マリィも同じらしい。ユファが腕をほどくと迷うことなく出窓に歩いていって、うずくまった。それが、ずっと前から寝起きしている場所に向かうような確かな足取りだったので、ユファはほっとした。
正直、ユファはマリィとはなればなれになることを覚悟していたのだ。
猫は場所になつき、犬は人になつくという。自分の意志とは関係なく地球につれて来られたら、猫であるマリィはどこか自分の居心地のいい場所を探しに行ってしまうかもしれない。そう思っていた。その心配が消えて、ユファはほっとする。
部屋の雰囲気を一言で表すのなら、暖かいという言葉がいちばんしっくりくる。ベッド、クローゼットなど備えつけの家具は木製で、かすかにハーブのいい匂いがした。カーテンは素朴な感じの明るい茶色の地に、小さな花のプリントがされた布でつくられている。縫い目は整っていたが、売り物を買ってきたのではなく手作りであることが判る。
ともすると少女趣味が鼻につく部屋の作り方だが、この部屋の場合は上品さと清潔感が、少女趣味から救っていた。
まるで夢かおはなしだ。こういう部屋に住めたら、とユファも小さい頃、叶わないだろうと思いながら何度か想像したことがあった。が、いざそれが手に入ると、どこか落ちつかないと思うのも事実だった。悪い部屋ではないのだが。
とりあえずカーテンをひいてみた。自分の手を入れれば部屋にもなじめる。そう思ったからだった。疲れていたので、細かい荷ほどきは明日にまわし、寝る用意をはじめる。
洗いたての糊のきいたシーツをベッドの上に敷いてタオルケットをかけ、ベッドメイキングを終える。さっそくベッドにもぐりこんだ。なかなか寝つけなかった。体は疲れているのだが、心が鎮まらず目が冴えてくる。
これも暑さのせいだろうと決めつけて起き上がり、窓辺に向かう。マリィにいちどよけてもらって、窓を開けた。それだけでは風が充分に入ってこないので、ドアも開けて風の通り道をつくってやる。風に揺れるカーテンが邪魔なのか、マリィは出窓のすぐ下の床へと寝床を変えた。
ユファは再びベッドに横になったが、やっぱり眠れなかった。何度か寝返りを打った後、ふと思いついて、持ってきた鞄を開け、そこから一枚のモルシートケースを取り出した。そのモルシートにはユファが好きな3Dイラストレーターの作品集データが入っていた。が、今のユファに必要なのはそれではなく、ケースの内側に折れないように挟んでおいた紙切れの方だ。
ベッドの頭の方になる壁にコルクボードが貼ってあるのをみつける。気の利いたことに、ピンも添えてあった。ユファは取り出した紙切れをそこに留めた。
紙切れはペーパー雑誌の切り抜きで、イラストが描かれていた。有名なものではない。描き手は名も知らないイラストレーターの卵だ。
モルシート雑誌が中心の今では、紙が使われるのは高級か、その逆かのどちらかだった。このイラストは道に捨てられていた上品でないペーパー雑誌の方でみつけた。時の有名人たちのスキャンダルや、ピンボケのスクープ写真で埋められた誌面の中で、ユファにはこのページが輝いて見えた。
「Alchemy」、錬金術というタイトルのイラストの中央には、両手を組んだ少女の横顔が描かれている。錬金術は大昔の技術で、鉄や鉛から金を作り出すことが目的だったらしい。もちろんその試みは失敗した。現在の核融合技術でも不可能なことだ。
イラストに添えられた文章はもう何度も目を通したものだったが、今夜のユファはなぜだかもう一度目を通す気になった。
“Lead to Gold,
Heart to Courge,
and she wish...”
錬金術はつまり、物質を自在に操る技術である。絵の中の少女はその錬金術が使えるのだろうか。だとしたら、そのうえ彼女は何を望むのだろう。
彼女の顔立ちは優しいが、瞳には強い意志がこめられている。表情はどこか険しい。無邪気に望みや願いをかけているようには思えない。
──もしかして彼女は祈っているのかもしれない。
ユファの頭に今までは思いつきもしなかった、そんな考えがよぎった。
wish。望み・願い、そして祈り。彼女は望んでいるのではなく、祈っているのだろう。おそらくは自分ではない誰かのために。
その時、ユファは耳ざわりが良いとは言えない音を聞いた。音のする方を見ると、ドアが少しずつ閉まっていくところだった。
「誰?」
ユファは薄闇に呼びかけた。ドアがすっと開く。
「ごめん、開いてたから」
ドアの影から顔を出したのはソウだった。
「起きてたんだ。驚かせちゃったよね」
ソウは寝ていたのだろう。しめつけの少ない、だぼっとした服を着ている。ソウがよかれと思ってドアを閉めようとしてくれたのが判ったので、ユファは自然に浮かんだ微笑みを消さずにそのまま応える。
「ううん、大丈夫。驚いてなんかいないから。ドアは開けたままにしておいてて。暑かったから開けておいたの。風を通そうと思って」
ユファはカーテンの揺れる窓辺を指した。しかし、ソウの視線はユファの指先は追わず、別の所でとまっていた。ソウが目をとめたのはさっきユファが貼った「Alchemy」のイラストだった。
「それ、いい絵だね」
大切にしてきたものをほめられたことが、ユファの心をほんのりと暖める。
「うん、気に入ってるの」
「俺も好きだな、そういう絵」
二人の視線がつかのま、同じ一枚のイラストに注がれた。ユファの心に、先程の疑問がまた浮かんでくる。
──どうして人のために祈れるんだろう。……あたしなんか自分のことだけでせいいっぱいなのに。
「そんなことないよ」
ふいに聞こえた声に、ユファはあわててふりかえる。そこには、いつのまにかソウの姿はなかった。
声は確かにソウのものだったと思う。自分の考えていることが判ったのだろうか、そう思いかけてユファは笑い出しそうなった。
ソウは「おやすみ」とかそんなことを言ったのだ。今、聞こえたのは、たぶん自分が聞きたかった言葉、誰かに言ってもらいたかったこと。……そんなとりとめのないことを考えていると急に眠気がさしてきた。ユファはそのまま目を閉じた。