therapy-2
エンジェル・フィールドは海に面したひとつの街だった。人口は1000人ほどで、そのうち90%がドナーである。残りの10%はMCウイルスの研究者だ。
エンジェル・フィールドに着いたユファは、まず、海というものを初めて肉眼で見、感じた。
コロニーに海はなかったがスクールのヴァーチャル学習で体験済みだったので、それほど大きな感動はない。それでも潮の香と頬をなでる潮風は新鮮に感じた。
海をたっぷりと味わったユファは、紹介された、自分が生活する場所を捜した。
ここでは15歳未満は未成年であり、一人暮らしを許されていなかった。15歳未満の一人暮らしは情緒の発達、特に愛情に関する領域に障害を及ぼす確率が高いとされており、将来、ドナーの子供を遺さなければならないエンジェルにとっては致命的な欠陥である。
ユファはあと1か月ほどで15回目の誕生日を迎えるのだが、規則は規則ということで、喫茶店を営む子供のいない夫婦の下で暮らすことになっていた。
地図を片手にそのフォウス・リーフという名の喫茶店を捜すユファのひたいに汗がにじむ。地球に着いてまずユファが驚いたのは、我慢できないほどの暑さだった。
エンジェル・フィールドに入る手続きをしてくれた「周東」(すとう)というネームプレートを下げた、感じのよい年配の女性に夏は始まったばかりだと聞かされ、真夏の暑さを思うあまりユファはめまいさえ感じたぐらいだ。
コロニーにも夏と呼ばれる季節はあった。コロニーの天気はコンピュータが制御している。いつか地球に戻る日が来ることを考えて、コロニーの気候は市民の大部分の故郷、日本に合わせて造られているはずだった。しかし、ここの夏はコロニーの夏に比べて湿度がずっと高い。エンジェル・フィールドが海辺だというせいもあるだろうが。
こんなふうに地球とコロニーは似ているのにどこかちがうことがたくさんあった。
たとえば、物の名前。コロニーでは地球へのシャトル(連絡船)が出る場所を簡単に「港」と言っていたが、地球ではちがう。「宇宙港」と言わなければ通じない。港というのはもともと地球の海を行き来する船が着く所のことだ。海のないコロニーではそれでもいいのだが、地球では宇宙港と言わなければならない。
コロニー生れのユファとしては、コロニーと地球の間しか飛ばない『船』の着く場所を宇宙港などというたいそうな名前で呼んでしまう方こそ、変な感じがした。ユファにとっての宇宙とは、コロニーの外に広がる世界すべてのことなのだから。
バスケットの中で眠っていたはずのマリィが、居心地悪そうにもそもそと動くのがユファの腕に伝わってくる。暑いのはマリィも同じらしい。
「もうちょっと我慢してて、地図だとこの辺だから。あと少しで出してあげられるから」
バスケットに向かって話しかけたユファが白い壁の3階建ての建物をみつけたのは、それからちょうどマリィが3回目の身じろぎをした時だった。
青空を背景に初夏の眩しい太陽に照らされたその白い建物は、一人の画家に描かれた一枚の絵のようにどこか整った印象がある。それでいて作られたものにありがちな、わざとらしさは漂うことなく周りの風景になじんでいた。
正面のドアは開かれていて、傍らに置かれたイーゼルに「fourth-leaf/OPEN」という札がかかっている。
ユファの目的の場所にまちがいなかった。
ユファはマリィを入れたバスケットを持ちなおすと、ひとときの涼を求めて立ち寄るように、何気なく店の中に足を踏み入れた。
空間をゆったりと使って窓辺に2つ、奥の方に3つの4人がけテーブルが置かれ、カウンターには椅子が6つ並べられていた。テーブルには優しい乳白色の生成りのクロスがかけられている。無用心なことに、人はいないようだ。
店内を見回すユファの目が、壁にかけられた絵に吸い寄せられた。初めユファは、それを窓から見える風景だと思った。絵は一辺がユファの肩幅ほどの長さの正方形だったし、額は遠目に窓縁に見えなくもない。
描かれているのは夕焼けの風景、だろうか。それにしては紫の色合いが強いような気がユファはした。が、絵全体に漂うどこか物悲しい雰囲気はまちがいなく夕焼けの風景のものだった。
絵の手前はコスモス畑でピンク、赤紫、白のコスモスが咲き乱れ、その中に一人の少女の後ろ姿が描かれていた。右隅にはたぶん描き手のサインだろう、SAKURA.Jの文字がある。
よく見ると、額縁の下に紙片がピンで留められていた。そこにはタイプライターで打ったようなかすれた字体で「VIOLET DUSK」と綴られていた。
これが絵のタイトルだとすると、ユファが感じとったのは描き手のこめた想いに近いということになる。
「いい絵でしょう」
「はい」
応えてからユファは、はっとして振り向く。いつのまにかカウンターに微笑む女性の姿があった。
肩で切りそろえられた天然のゆるいウェーブがかかった金髪に、碧眼といったオセアニアンの特徴を具えた彼女の年齢は、ひとめでは判らない。
遠慮がちに笑みをたたえる表情の作り方は彼女を十代の少女のようにも思わせたが、まとう雰囲気は人生において何度か進む道の選択、しかもどちらともつかない辛い選択をしてきたような強さを感じさせる。
耳にはピアスが2個ずつ光っていた。エプロンを身につけていることから、この店は彼女のものだろう。
「こっちに来て座って。お茶を淹れましょう」
女主人に言われるままにユファはカウンターに座る。荷物を隣の椅子に置き、バスケットだけを膝の上に載せた。
「あの……」
女主人の背中に言いかけて口をつぐみ、考えてから再びユファは口を開く。
「……マダム?」
おそるおそるの呼びかけに、女主人はふりかえらずティスプーンで量りとった紅茶の葉をポットに入れた。
「あなた、この店を気に入ってくれました? もしそうで、今日以外もこの店に来たいと思うなら、私のことはミセスと呼んでくれると嬉しいのだけど」
押しつけがましくない柔らかな物腰だったので、ユファは女主人の望むようにした。
「ミセス」
声がわずかに硬くなってしまう。続けて話そうとする内容を口にするかどうか、ためらいはじめる。
「はい?」
応えた女主人の声は、先程より優しい声だった。緊張がとけたユファは続きを口にすることができた。
「マリィを……私の猫をバスケットから出してもいいですか」
「どうぞ。ところで、マリィはどんなものを飲むの?」
女主人が操るガラスのマドラーが、グラスの縁に当たって鈴のような音を出す。それはなぜだか、陽気なドアベルのイメージを浮かべさせた。励まされたように、ユファは思いついたことをそのまま口にする。
「彼女は猫ですから。熱いものは苦手なんです」
ふりかえる女主人とユファの目が合う。二人の唇は微笑みの形になっていた。ユファは続ける。
「マリィはおかまいなく。バスケットの外の空気だけで充分だと思います」
女主人がマリィのことにちゃんと気を配ってくれたのが、ユファには嬉しかった。
ユファの前にグラスが置かれる。つがれているのは、うすいが香り高いアイスティーだった。グラスに口をつけた時の感触から、グラスそのものが冷やされていたことが判る。こんな暑い日に外からやってきた客には最高の心くばりだ。
アイスティーをひとくち味わうとユファはバスケットの留め金を、ぱちんと音を立ててはずした。バスケットの中に明りが射しこみ、マリィがはい出してくる。猫として充分な年を重ねた彼女は、動作のひとつひとつに時間がかかった。
「あら」
マリィを見た女主人は驚きの声を上げる。その前をマリィは我関せずとばかりに、深い海のような『碧色の』毛を揺らしながら横切り、カウンターの端で丸くなった。
女主人はカウンターに頬杖をつき、しげしげとマリィを眺める。
「綺麗な色……猫としては珍しい色だけど」
「気に入ってるんです、彼女が。お風呂は嫌がって逃げるのに、毛を染める時は逃げないんだから。本当は白い毛なんですけど」
時々毛づくろいのために体を揺らすマリィに、ユファが視線をそそいでいると、女主人が思いついたように口を開いた。
「私は、この喫茶店フォウス・リーフの主人、磯崎サンドラ・フィオルよ。良ければあなたの名前もお聞かせ願えないかしら」
「ユファ・リーです」
あれ? とユファは思った。なぜだろう、パイロットに答えた時とちがって、この女主人には力を抜いて名前が言えた。
頬杖から首を上げ、女主人サンドラはユファに向き直った。
「あなたが……。ごめんなさい、気づけなくて。てっきり新しいお客さんだとばかり……私の想像より、ずっとすてきなお嬢さんだったから」
ユファの容姿と名前のギャップについて言っていることは判った。
当然、前もって連絡があったのだ。サンドラはユファ・リーという名の少女が来ることを知っていたようだ。
「あ、いいんです。なれてますから」
ユファはそんな自分の反応を不思議に思った。本当ならこれは自分のいちばんのコンプレックスのはずだ。
サンドラの受け答えはユファにそんなことを意識させないほど、さりげなかった。ユファは感じ入っていたが、サンドラにはそれに気がつく余裕はなかった。今までのゆったりとした雰囲気をはらうように突然、両手を合わせてぱちんと鳴らす。
「あなたの名前がユファ・リーだとすると、のんびりしている時間はないのよ。あなたと同じく今日からここで暮らす男の子がいるんだけど……彼、さっきあなたを捜しに出て行っちゃったの。迎えに行ってくれないかしら。こんなに暑い中、いつまでも歩かせるのも悪いから」
確かに落ちついている場合ではなさそうだ。ユファは、すっと椅子から立ち上がる。
「わかりました。マリィをお願いします」
入ってきたドアに向かって小走りしていく。そのユファにサンドラがついでのように声をかける。
「そうそう、あなたのことはなんて呼んだらいいかしら?」
「ユファでいいです。漢字だと玉の花って書くんですけど、似たような音で『羽が生える』って意味の言葉があるんで、そっちを思い浮かべながら呼んでもらえると嬉しいです」
普段のユファならそんなことは言わない。こんなことを人に言って判ってもらえるはずがないから。今は突然、聞かれたので不意をつかれたようになって、思っていることがそのまま口から出たのだ。
サンドラは考えてやったのだろうか。しかし、サンドラの静かなほほえみからはそんな計算は読み取れない。
「判った、『羽が生えている』ユファね。オーケー、そうさせてもらいましょう」
「いってきます」
小気味良い足音を残してユファは外へと駆け出していく。目の届く範囲からユファの姿が消えると、サンドラはマリィに向かって話しかけた。
「あなたのご主人さま、えらいわね。漢字なんてスクールじゃそんなに深く教えてないのに……勉強の楽しみを知っているんだわ、きっと」
マリィはうなずく代わりだろうか、にゃあと面倒くさそうに鳴いた。
笑みをこぼし、サンドラはアイスティーを淹れるのに使った道具を洗い始める。彼女の胸の中では独り言がつぶやかれていた。
──賢さも気難しさも資料どおり。特に気難しいところなんて昔のあたしを思い出すじゃない。
「あっ……」
サンドラは手をとめ、思わず声を上げた。ユファに言い忘れたことがあったのに気づいたからだ。が、心配ないだろうと再び手を動かし始める。
──ソウのこと何も話してないけど……大丈夫ね。彼の方で気づくだろうし。