therapy final
その日、ソウはまだ暗いうちに目覚めた。
目を向けると本を並べていたはずのベッド脇の棚には、時計がひとつだけしか置かれていなかった。
ああ、とソウはぼんやりと思う。今日はコロニーに旅立つ日だったのだ。ほとんどの荷物は昨日のうちにまとめてある。時計だけは使うだろうと思って、まとめていなかったのだ。
棚にぽつんと置かれた時計の針は、かなり明け方に近い時間を差していた。
フォウス・リーフにいられる最後の時間を、自分がいちばん好きな場所である屋根裏部屋で、本を読んですごそうと思いついて、ソウは窓辺のウィンドチャイムを静かに外すと音が鳴らないようにそっと歩いて廊下へ出た。
階段は既に下がっていて屋根裏部屋から明りがもれていた。階段を上がったソウは、屋根裏部屋にユファの姿を見た。ユファは床に寝転がって天窓から見えるまだ暗い空をながめているようだった。
ソウは窓辺にウィンドチャイムをつるした。ユファにはソウの姿が見えているはずだったが、ユファはソウに何も言わなかった。そのまま自分から行動を起こさないのがいつものソウだった。が、今はちがった。
ソウは自分の胸をしめつけるものがあることに気づいていた。彼女に会えなくなるという気持ち――それがソウの背中を押した。
「どうしたの?」
ソウの問いにユファは顔を空に向けたまま応える。
「月、見てた」
「……大丈夫?」
なぜそんな言葉が唐突に口から出てきたのか、ソウ自身も判らなかった。が、ユファの顔を自分に向けさせるのには成功した。
「何が? あたしは、最初からなんでもないわよ」
視線を宙に漂わせているユファからはいつもの強さは感じられない。何かが抜けてしまった、ぼんやりした様子だった。
「……うん」
ソウにはうなずくことしかできなかったが、それがかえってユファが話しやすい雰囲気を作った。
ユファは、ソウが自分に気を遣ってくれているのだと感じていた。そう感じるのと同時に申し訳なさに胸が苦しくなってくる。
「あたしね、勝手だった。勝手にマリィはあたしがいないと駄目だって思っていたの。でも本当に駄目なのは、もしかするとあたしの方だったかもしれない……なんてね」
冗談めかしてユファは言ったが、気持ちは本当だった。
瞬間、ユファの頭に思いついたことがあった。今、言わなければならない。そんなせっぱつまった思いにユファは、それを素直に口にしていた。
「ずっと一緒にいられると思ってたの。ずっとね。そんなことなんて、ありえないのに」
「ごめん」
ソウがユファに謝った。そこで初めてユファは自分の心の奥底にあった気持ちを知った。
その言葉はマリィにだけではなく、ソウにも言いたかったことなのだ、と。
「裏切られたとは思わない。結局、あたしの身勝手、わがままだったの。でもずっと一緒にいられると思っていたから」
マリィのことを言っているつもりでいたのに、だんだんソウのことを言っているような気がしてきて、はずかしさを感じたユファは打ち消すために、はっきりと言った。
「マリィはあたしなんかの傍にいて幸せだったのかな。それだけが気がかりなんだ」
ソウは応える。
「猫は自由だもの。気に入った人の傍にしかいないよ」
その言葉がユファの気に障った。ソウは知りようもないことを確信めいて言うことがある。それが心をのぞいて見たように図星だったり、聞きたいと望んでいることだったりするので、ユファの機嫌は悪くなってしまう。
ユファは起き上がり、きつい視線をソウにぶつける。
「気休めはよしてよ。何もわからないくせに」
悲しげに目線を落としたソウは、ユファの気持ちを逆なでしてしまったことを後悔しているのかもしれない。
ソウは黙ったまま自分が着ていた上着を脱ぐと、ユファの肩にかけた。その上着が、自分のために持ってきてくれたもののようにユファには感じられた。ソウはそのまま何も言わずに部屋へ帰っていく。
天窓から降りそそぐ月の光の中で、ユファはいっそう強く日だまりの匂いを嗅いだ。自分の心を落ちつけてくれる安心する匂いだ。ユファは腕を交差させて、ソウがかけてくれた上着の肩の部分をにぎりしめた。そのまま、さらにきつく自分に上着を引き寄せる。
ふと、匂いがソウの上着からしていることに、ユファは気がついた。
ソウの足音は階下へ遠ざかっていく。
「待って」
ユファは階段から身を乗り出し、ソウを呼びとめた。ソウは自分の部屋のドアに手をかけたところだった。
なぜ呼びとめたかユファは判らなかったが、口からはこんな言葉が出てきていた。
「あそこのウィンドチャイムと、あたしが持っている絵を交換しようよ。前、気に入ったって言っていたじゃない」
「覚えていてくれたんだ」
ソウの顔がゆっくりと笑顔を形作っていく。
「いいよ」
ソウはゆっくりと屋根裏部屋に戻ってきた。ウィンドチャイムを窓辺から外す後ろ姿が、さびしそうにユファには見えた。
今日、ソウがコロニーへ行ってしまうのだと、ユファはいまさらのように思っていた。それはもう変えられない予定だということは、前もって分かっていたはずなのに、事実の重みに気づいたのは、たった今、なのだ。
「もうお別れだね。そうしたら、あたしたち、もう会えないんだね」
胸がいっそうしめつけられた。ずっと一緒だったマリィが遠くに行ってしまったことよりも、一ヶ月ぐらいしか一緒にいなかったソウと離れてしまうことの方が、つらく感じられていた。
その気持ちをソウに伝えようとユファが開いた口から出てきたのは、感謝だった。
「ありがとう、ソウ。ソウはいつもあたしの心の底の、本当の気持ちに気づかせてくれていたんだと思う」
さっきまでつらいだけだった自分の気持ちが、どんどん他のものに変わっていくのにユファは驚いていた。ほんのりと温かみを持った、なめらかで、やわらかで、まるいもの。
今のユファには判っていた。この一言を伝えたくて、ユファはソウを呼びとめたのだ。
「そういうことを気づかせてくれたソウのこと、あたし、好きよ」
ソウはゆっくりとユファをふりかえった。その顔には驚きと嬉しさが少しずつ現れている。
「ユファにそんなこと言ってもらえるなんて嬉しいよ。でも、俺、ユファに黙っていることがたくさんある。けど、ユファには全部聞いてもらいたいから言うよ」
ソウは一度、唇に力を入れてきっと結ぶと、言った。
「……俺、レシピエントなんだ」
ソウが、ドナーである自分とはまったく逆の立場であるレシピエントだなんて、思ってもいないことだった。今までのユファだったら、こんな大事なことを黙っていたソウに、怒ってしまったかもしれなかった。でも、今はちがう。言えなかったのには理由があったのにちがいない。
「だから?」
問いつめるのではなく、ユファは優しく先をうながしていた。
ソウはユファの気持ちをくみとっていた。
「それにギフト(ESP能力)を持っている。俺のギフトはエンパシー(情緒感応能力)なんだ。ユファが思っていること、感情の動きが判ったのはギフトのおかげで、思いやりとか優しさとか、そういうものじゃない」
ソウはユファを拒むように背中を向けた。
「俺、ユファが思ってくれているような立派な人間じゃない。自分の力を持てあまして、心のバランスをくずしたんだ。それでエンジェル・フィールドに良い精神療法士がいるって聞いて、治療に来ていた。ただそれだけなんだよ。でも結局、ユファに言われたとおり人と向かい合うこともできなくて、毎日、人が来ない博物館で恐竜の骨をながめたり、プラネタリウムを見てたりしていた。
俺、ユファみたいには強くなれない。俺にはギフトでユファの心が見えていたから判るよ。ユファはいろいろつらい目にあってるのに、逃げたりしない。とにかく立ち向かう。俺、ユファがうらやましくて」
ユファは、苦しそうに吐き出し続けようとするソウの言葉をさえぎった。
「そんなことない。あたしだってちっとも立派じゃないし、ギフトとか関係ないよ。ソウはあたしといっぱい色々なことを話したじゃない。けんかみたいになったこともあったし」
ソウは相変わらずユファに背中を向けていた。ユファはソウが振り向いてくれるように祈りを込めて、胸のところで左手をぎゅっと握った。
「あたし、今の話を聞いてもこれからもソウとずっと一緒にいたいって思うもん。それくらいソウのことが好きなの。この気持ちは簡単には変わらない」
……ユファの祈りは、届いた。
ソウが振り返った。目を見開いてユファをみつめる。
エンパシーのギフトで人の心が透けて見えるソウに嘘がつけないのは、判っている。それなら、ソウへの思いを伝えた方がユファにとって楽なことだった。今まで感じてきた胸の苦しさは解けるように消えていた。
「本当にそう言ってくれてるんだね、嬉しいよ」
ソウは唇が震えながら開く。
「……俺も、ユファのことが好きだ」
ユファの胸がひときわ大きく鼓動を打った。暖かいものが胸からじわじわと染み出してきて、体のすみを目指してゆっくりと広がっていく。
「あたし、離れたくないって思えた人、ソウが初めてだ」
「俺も。……でもユファ、きっとまた、こういうふうに思える人に会えるんだよ。いつかそんな人に出会えると思うと、明日が来るのが楽しみになるよね」
ソウが手に持ったウィンドチャイムが音を立てた。
ユファは、ウィンドチャイムが、ソウの言葉にうなずいているみたいだと思った。
「あのね、あたし、エンパシーとかって、どう使うか決めるのは、その人の心だと思う。だからギフトもひっくるめて、全部でソウなんだよ」
ソウは、胸に手を当てると目をつぶった。ソウの手のひらは、自分の心臓の鼓動を感じていた。そうやってソウは自分の存在を、確かめていた。
ユファはそんなソウに微笑みかけた。
「エンパシーか……ソウは全部判っていたんだよね。何も判らないなんて言ってごめんね。判らないのは私だったのに」
閉じたソウのまぶたから頬に光る筋が一本流れた。涙だった。
元気づけたい一心で、ユファは口を開く。
「あたしは、さみしくなんかないよ」
ソウには判ってしまっただろう。さみしくないと言ったのは嘘だということ。本当はさみしくてたまらない。
でも、そのさみしさは、これからそれぞれ別々にどうにかすることだから。一緒にはいられないのだから。そんなふうにユファが考えていることも伝わってくる。
「……俺も、さみしくないよ」
ソウと別れたら、本当にさみしいにちがいない、とユファは思う。しばらく食事もしたくならないだろう。それでも今のユファの口は「さみしくない」と繰り返す。ソウだけではなく、自分にも言いきかせるように。
日が昇り、朝が来て、いつものように素敵な朝食がテーブルを飾る。いつもとちがったのは、朝食の後にソウがフォウス・リーフを出て行ったということだ。
ソウが出て行く時、ユファは 「ピンのあとがついちゃったけど」と言いながら、「Alchemy」のイラストを手わたした。
その時に自分の手がソウの手とちょっとだけ触れ合えたことが、ユファにはたまらなく嬉しかった。
「見送りには行けないと思う。あたし、初めての検査をその時間に受けることになっちゃったから」
そう言うユファに、ソウは小さく笑って見せてくれた。その時のソウの表情はユファの胸にずっと刻まれることになる。
そのユファも、3日後にフォウス・リーフを出て行くことが決まっていた。
ソウが出て行った後、フォウス・リーフのカウンターでユファとサンドラは話した。紅茶と、クッキーの焼ける匂い。そんな幸せな匂いに包まれながら。
「あたし、チャット・セラピーの患者としてじゃなく、住みこみのアルバイトみたいにして、フォウス・リーフで暮らしてみたいな」
サンドラは、ユファがチャット・セラピーを知っていたことに驚いただろう。しかし、そんな様子はまったく見せず、謝ることもどうしてそれを知ったのかと問いつめるようなこともしない。
「そう言ってもらえて嬉しいんだけど、ごめんなさいね。残念ながらそれはできないの。次に来る子が決まっているし。それにディレクター……チャット・セラピーでの精神療法士のことなんだけど、その立場から言わせてもらうと、今のユファには一人で生きていくことが大切なの」
それはユファにもなんとなく予想がついていたことだった。それでもサンドラはあくまでも優しく諭してくれた。
「あたし、サンドラに感謝してる。でもどうしてあたしをここに呼んでくれたの? あたし、本当はちがう施設へ行く予定だったんでしょ」
あれからユファも少しは調べていた。そして、直前で自分がここに来ることになったということを知った。
「母にあなたを紹介されたの。母とあなたは宇宙港で会ってると思うけど。周東というネームプレートをしていたはずよ」
ユファには確かに覚えがあった。人当たりの良さそうな人だった。そう言えば、雰囲気がサンドラと似ているような気がする。
「いちばんの理由は、ユファが昔の私に似ていると思ったからかな。私も事情があって育ての両親がいるの。だから、ユファの気持ち、人より少しは判るんじゃないかと思って。
チャット・セラピーはね、生みの両親が発表したものなの。その方法で、ユファに接してみたかった。どんな精神療法よりもこのチャット・セラピーこそが、あの時のユファには必要だと直感したから。でも、チャット・セラピーが終わってからも、お客さまとしてくるのは自由よ。いつでも歓迎するわ」
ユファは大きくうなずく。
「その時はよろしくね、ミセス」
「はい」
サンドラが輝くような笑みで応じた。
「そろそろ時間よ」
サンドラの声を合図に、ユファは外へ飛び出す。
水平線から力強くわき上がる雲の形は夏を、青く高く澄み切った空は秋を思わせる。
その空を甲高い音を立てて横切るものがあった。ソウが乗っているシャトルだった。ユファは一瞬横切ったその物体に熱い視線を送る。シャトルに乗っているソウから自分の姿は見えなくても、気持ちは伝わっただろう。
ユファはそのまま採血センターに向かった。
それはドナーとしての義務だったが、自分が望んだことでもある。ソウたちレシピエントの命を救うこと、それだけを思うと重たい使命感に目がくらみそうになる。けれど、そうなってしまわないように。自分の心の中だけで、ひそかな誇りにする。そのぐらいがちょうどいいと、ユファは思う。
こんな気持ちになれたのは、ソウと出会えたからだ。そんな彼ともう二度と会えないとしてもさみしくない。自分が生きて、自分の義務を果していれば、それがソウの命につながっていく。そんな二人の絆は生きている間、ずっと続いていくのだから。
ユファはコロニーの義母の顔を思い浮かべていた。自分は独りで生きてきたわけではなかった。そのことが今、突然に判った。
きっとこれからも色々な人と出会って、自分は少しずつ変わっていくのだろう。できれば良い方だと自分が思える方向に変わりたいと願う。
そしていつか、少し大人になった自分の姿をソウに見せられたら。そんな日が来るかもしれないと心のどこかで思っていけるから、これから何があってもずっと笑って生きていける。
見上げれば、真昼の白い月がユファを見下ろしている。
ソウと初めて会った時のことを思い出し、ユファの胸はしめつけられた。この一ヶ月の間、毎日見ていたあの顔は、もう見られない。これからも何度も胸がしめつけられるような思いになることはあるだろう。
だけど、ユファ自身がエンジェルになることを、ここで生きていくことを選んだのだ。つらいとしても後悔はない。
揺れる早咲きコスモスの中を、ユファは少し胸をそらせて歩いていった。
――Fin Farewell