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 ユファがエンジェルになれると知った日、彼女の母親は泣いた。号泣というわけではなく、こらえきれない涙があふれるといった感じで。言葉はなく、ただひたすら涙をこぼす。

 今後、この母娘が出会うことは、二度とない。

 母親を前にして、ユファは表情を変えずに言った。

「今まで育ててくれてありがとう。あたし、母さんのこと忘れないから。さよなら」

 ユファの腕の中で、飼い猫のマリィが小さく鳴いた。

 マリィは人間ではなく猫だったが、うす汚れたごみ箱の中から拾い上げた日から、ユファにとってはこの世で唯一の理解者だった。ユファは、マリィとならばどこへでも行けるのだ。どこでだって生きてゆける自信があった。たとえそこが「呪われた土地」でも。


 事のはじまりは規則どおりの、ありきたりなスクールの健康診断だった。

 本来なら18歳までかかる義務教育の課程をスキップして14歳で終えてしまったユファは、その上のレベルの教育を無料で受けようと、寄宿制スクールの奨学生に申し込んだ。

 ユファは学ぶことが好きだったが血のつながっていない両親に金銭的な迷惑をかけるのが嫌だったのだ。加えて、生まれ育ったスラム地区から抜け出したいという気持ちがなかったと言えば、嘘になる。

 奨学生になるには不健康ではいけない。ユファが受けた健康診断は、それを調べるものだった。しかし、返ってきた結果はちがった。

 本来なら学究コロニー<グラウクス>から来るはずのその結果は、医療施設集中コロニー<コローネー>から来た。奨学生試験受験者として問題がないことを告げるはずの診断書は、ユファが「ドナー」であるというデータで埋めつくされていた。

 ユファは、家族が最も多くの給金を汎衛星都市連盟当局から支給される道を選んだ。それが「エンジェル」になることだった。

 エンジェルとは残りの人生をエンジェル・フィールドで過ごすことを選んだドナーのことである。エンジェル・フィールドは人類の母星である地球の一地域のことだ。50年ほど前なら日本と呼ばれただろうその場所は今は封地とされ、ウイルス汚染地区、もっと一般的には「呪われた土地」と呼ばれている。

 そこにはユファたちコロニー市民のルーツがある。


 隕石の災厄<メテオリック・カラミティ>についてスクールが教えることからは、汎衛星都市連盟に都合の悪いことは省かれている。が、それがコロニー市民の標準の知識であるのも確かだ。

 「災厄」は地球の日本とオーストラリアという二つの島国に落ちた、いくつかの隕石から始まった。この隕石には、未知の凶悪ウイルスが付着していた。結果、それらの国で暮らしていた98%の人間がウイルスに感染して死亡した。

 これが隕石の災厄<メテオリック・カラミティ>だ。このウイルスはMCウイルスと命名された。MCはメテオリック・カラミティの略である。

 生き残ったのはMCウイルスと共存できるようにDNAを変化──あるいは進化させることができた者、MC保因者だった。

 発病は免れたが、彼らの体内にウイルスが棲みついている事実に変わりはない。そして、地球に住む多くの人々はウイルスへの抵抗力を持たない。

 MC保因者たちは非保因者たちの提案を受け入れ、衛星都市(宇宙コロニー)に移住した。彼らが宇宙コロニー市民の第一世代ということになる。

 コロニーは最初、そこそこ平和だった。日本を祖国とするエイジャン(東洋人)と、オーストラリアを祖国とするオセアニアン(太洋州人)の『摩擦』ぐらいはあったとは言え。

 コロニーが運営されてから5年ほど経って、市民の中に原因不明の神経障害を起こして死亡する者が現れた。研究によって、原因はウイルス適応の奇跡を起こしたDNAの歪み構造にあることが突きとめられた。同時に特効薬も発見されたが、それは保因者の中でも特殊なDNAを持つ人間の血液からしか合成できなかった。

 この特効薬になる血液を持つ者をドナー(提供者)、薬なしでは生存が不可能な者をレシピエント(被提供者)と呼ぶようになる。

 初め、レシピエントに対してドナーの数はごくわずかで、ドナーと判明した者は汎衛星都市連盟当局に一生を縛られたという。それは効率良く薬を製造するためであり、ドナーを保護するためでもあった。一方、レシピエントはヴァンプ(吸血鬼)などというありがたくない名前で、しばしば呼ばれた。

 そのレシピエントの中に超能力者──正しくは、ギフト(賜物)と名づけられた超感覚(E.S.P.)──を持つ者が出現したため、事態はよりややこしくなっていく。

 双方の人権、実際はもっと切実に、生存権が連盟議会で話し合われた。その妥協点がエンジェル・フィールド計画だ。

 最初は極秘計画だった。なぜならその狙いがドナーを増やすことにあったからだ。その計画は具体的にはドナーを一か所にまとめて住まわせるというもので、その場所には当時、封地になっていた地球のウイルス汚染地域の一つ、日本が選ばれた。

 父母が共にドナーの場合、その子がドナーである確率は8割を越えることが判明していた。ドナーを増やすためにはドナー同士の『組み合わせ』を増やせば良い。社会心理学的見地から、それにはドナーを集めて生活させるのが最上の策である、とされた。エンジェル・フィールドとはつまり、ドナー牧場だった。

 反対は無論あったが、エンジェル・フィールド計画が表立って動き出してから8年たった今では、計画はほぼ成功と言えるところまで来ていたので、反対の声はほとんど聞かれなくなった。

 10年ほど前ならば、それこそドナーと判明したならば一生血を採られるだけの生活が待っていた。それに比べれば、今のドナーは恵まれている。数そのものが増えたうえ、エンジェル・フィールドでは生活が保障されていた。

 働かなくていいのだ。趣味、勉強、したいことがしたいだけできる。望めば働くこともできる。天国と言えるかもしれない。

 だから、ユファはエンジェルになることを受け入れた。親の手をわずらわせずにしたいだけ勉強ができ、マリィもつれていける。

 だから、ユファはエンジェルになると決めて不幸せではなかった。


 男が振り向きざま質問した。

「お嬢ちゃん、いくつ?」

 場所が場所ならそれだけでスタンガンを押し当てるところだったが、ユファは安全装置を外していつでも取り出せるように隠し持つだけにした。

 ここはユファが生まれ育ったスラム地区ではなく、地球行きの小型シャトルの中だったし、乗客はパイロット席の後ろのユファとマリィしかいない。

 話しかけてきた彼は薬中毒ではなく、きっと笑うことになれていないのだろう、ぎこちないながら笑顔を浮かべたパイロットだった。

 ユファは身構えてしまうのは警戒のしすぎかもしれないとちょっと思う。場面に応じて頭を切りかえるのはユファが得意なことだ。

 無意識に体に走った緊張をとくと、ユファは質問に応じた。

「14歳です」

 相手の気分を害さない程度だが、素っ気ない答えになってしまう。

 気分をほぐそうとしてくれているのだという相手の気持ちは判る。ユファの義母がよくこういうしゃべり方をしていた。

 でも、ユファは他人からこんな感じに話しかけられるのは嫌いだった。

 なぜなら、ユファが本当のことを言うかどうかは相手には関係ないからだ。気持ちよく相づちの打てる答えを相手は望んでいる、ユファはそれを知っていた。本当の気持ちを理解するつもりがなかったら、そっとしておいて欲しい。

 だが、そんな本音だけではうまくやっていけないということもそろそろ判り始めていた。相手の気持ちに添うのは面白くなかったが、ユファはさしさわりのない答えを選んだ。そんなことにいちいち力を入れていたら、息をするのにも疲れてしまう。

 パイロットはもちろん、ユファのこんな心の中のつぶやきに気づくわけもない。

 自動操縦シークエンスに移行してしまい、やることがなくなったパイロットはユファに平凡な質問を続けた。

「これから知らない人の中で暮らすんだろ、えらいな」

 知らない人の中で暮らすことがどうしてえらいことなのか、ユファには判らない。でも、相手の言うことに素直に受け答えをする。そのほうが楽だから。

「はい。自分で決めたことですから。でも少しは、さびしいかもしれません」

 知らない人の中で、というのは嘘だ。マリィがいる。それに知っている人がいないと淋しいというのはユファに当てはまらない。知り合いがいない方がずっと気楽だ。しかしそんな考えは普通はしないから、パイロットには判ってもらえないだろう。

 普通でないことを判ってもらうには時間が必要だ。このパイロットとはそんな時間はないにちがいない。だから本当のことは言わない。

「俺はプライア・マクガイア。お嬢ちゃんは?」

 名前を教えられたなら、自分も名乗るのが礼儀というものだ。

 堅くなる表情に気づかれないように、口の端を引き上げてユファは答える。 

「ユファ・リーといいます」

 ユファが無理をして笑い顔を作らなければならないのは、自分の名前が嫌いだからだ。

 思ったとおりパイロットは一瞬、顔を強張らせ、ユファの髪や瞳や顔の作りをさっと見直すと、あわてて表情を和らげる。

 これがユファが自分の名前が嫌いになった理由だった。

 ユファが名乗ると、たいていの人がこういう反応をする。強張った表情を和らげる時、間違いなく相手はユファをあわれんでいる。露骨に聞かれるよりはまだこの方がいいが、決して気分がいいものではない。

 ユファの唇がわずかに歪んで、パイロットの欲しいと思っているだろう情報を与えた。

「あたしの名前、ちょっと聞くと英語に聞こえるかもしれないけど、英語じゃなくて中国語という言葉なんです。中国もアジアの国だから、あたし見かけどおりエイジャン(東洋人)なんですよ」

 今まで何度もあったことだ。その度にユファは自分の名前が嫌いになっていった。

 ストレートの黒髪、ひとえの黒い瞳、黄色い肌。そんなエイジャンらしい外見は好きだった。自分がエイジャンであることを、ユファは誇らしくさえ思っていた。

 エイジャンはMCウイルスに打ち克って宇宙に新しい住処を作った。50年にも満たないコロニーの歴史をひもとけば、科学、政治、文化、あらゆる方面に彼らの名が出てくる。

 ユファが嫌うのは外見とはちがう、エイジャンでありながらオセアニアンを思わせてしまう英語風の名前。混血であれば両方の姓がつく。ユファは生粋のエイジャンなので、英語の響きを持つ姓しか持たない。見かけはすっかりエイジャンで、混血でもないのに英語風の姓を持っているというのは、かなり珍しい。

 他人が自分のフルネームを口にするたび、その響きにこめられたものにコロニー市民の中でマイノリティ(少数派)であることを、ユファは思い知らされてきた。

 宇宙という厳しい環境の中で生きのびるために、人は力を合わせる。その時に互いの心を結びつけた絆は、同じMCウイルスに冒されたという身の上であり、もう少し狭く見れば同じ国で生まれ育ったということだった。

 しかし絆は、条件があてはまらない者を遠ざけるという暗い面もまた、あわせもつ。

 ユファは絆の闇の部分の犠牲者だった。幼いユファには口さがない人が投げつける、ちょっとした一言がこたえた。それがユファが、どこかねじれた考え方をしてしまうようになった原因の一つだ。

 ユファにとっては実りのない会話は、シャトルが大気圏に接近してパイロットがマニュアル操縦シークエンスに戻るまで続けられた。親切なパイロットからやっと解放された時、ユファはため息をつきながら、スタンガンを最後まで使わずに済んだことをよかったと思った。

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