或る晴れた日に吟遊詩人が見える
改行、表現その他、読みやすく直しました。(2016.7.10)
赤煉瓦の壁は、ぐにゃりと歪む。
不安定な足場で、ケインとマリスは必死に体勢を立て直していた。
「ふははははは! お前達がここに来ることなど、ワシの占いによって、先刻承知だわい! 連れの魔道士どもが『ここ』へ着く前に、お前達を別々の空間へ飛ばしてやるわ!」
老魔道士は、両手を掲げる。
赤い部屋の中で、まるで、魔道士の身体全体を青い炎が包んでいるような、そこだけが青く、ゆらゆらと鈍い光を放っていた。
とっさに、マリスが、ぎゅっと、ケインの手を握る。
(そうか、離れ離れにならないようにだな……!)
と、思っていると、突然マリスが走り出した! ケインも、慌ててそれに習う。
マリスの振り上げたロング・ブレードを、魔道士が空中から取り出した杖で、受け止めた。
次々と、突き出す彼女の剣を、魔道士が簡単に防ぐ。
マリスが彼を斬りつけるというよりは、呪文を唱えさせまいと邪魔しているのだと、ケインにはわかった。
「さすが、噂通りの剣の達人ですな、マリス・アル・ティアナ嬢」
老魔道士が薄笑いを浮かべる。
マリスの目が光った。
「そうそう、あなたのことも、存じておりますよ。バスター・ブレードとマスター・ソードを合わせ持つ、ケイン・ランドール」
二人は、改めて老魔道士をじっと見つめた。
「なんで、俺のことまで……!」
「あなた、何者!?」
質問には応えず、老魔道士は彼を見たまま、再び口を開いた。
「バスター・ブレードはどうしたのじゃ? ああ、あの若造魔道士がどこかへ隠したのだな。つくづく油断のならない奴じゃ! まあ、よい。人質交換という手もある」
ケインの老魔道士を見る目が、驚きに一瞬変わる。
(こいつは、バスター・ブレードの姿形を知っている!?)
それは、彼の師匠から受け継いだ、二年前の出来事を思い起こさせた。
(まさか、こいつ……!)
記憶を辿り、それが何かと結びついた時、マリスが言い放った。
「もしかして、あんた、……ゴールダヌスと敵対する大魔道士じゃ?」
彼女は、老魔道士に、にやっと笑った。
「『蒼い大魔道士』ビシャム・アジズ。初めてお目にかかりますわ」
マリスが剣を持った右手を大きく振り、腰を屈め、深々と騎士の礼をしてみせる。
「『蒼い大魔道士』……! これが、あの噂に聞く!?」
ケインですら、その存在は知っていた。
魔道士たちの更に上を行く大魔道士の存在は、魔道士はおろか、それ以外の者たちにとっても、脅威である。
一介の剣士などは太刀打ち出来るはずもない。
世の中に数人はいると言われている大魔道士たちは、ほとんどが己の研究に没頭していたり、世捨て人のようにひっそりと暮らし、表には滅多に現れることはない。
ゴールダヌスもその一人であったが、アジズだけは、時折ふとどこかに出現していたため、その姿を目にした者は少なくはなかった。
老魔道士は、かかかと笑った。
「これはこれは、ご丁寧なご挨拶じゃな。さすがは、ベアトリクス王国近衛兵を勤められていただけある、美しい礼じゃ。どうじゃの? 主君王太子殿下のご機嫌はいかがですかな?」
実に嫌味らしく、その声は響く。
マリスの手が、わなわなと震えているのが、ケインの手にも直に伝わる。
「あなたたち、まさか、あの人に――セルフィスに、何かしたんじゃないでしょうね!?」
(セルフィス? この間、マリスが寝言で呟いてた奴のことか?)
そのことで、ちらっと彼女をからかったら、ただ事ではなさそうであったのを、ケインは思い出した。
そして、やはり、それは、ただ事ではなかったのだろう。
マリスは、今にも魔道士に襲いかかりそうになるのを、かろうじて抑えているように、ケインには見えたのだった。
「ご安心くだされ、マリス姫。我々が、どうしてあのお方に、何か出来るとお思いなのです? 出来るわけなど、ありませぬよ。あのお方は、大国ベアトリクス唯一の王太子殿下なのですから。お側付きの宮廷魔道士も、なかなか優秀な者のようですし、あの方ご自身も、結構な魔力をお持ちですからな。だいいち、ワシはまだベアトリクスに接触もしておらんのでな」
老魔道士は、かかかと再び笑う。
「それは、そのうち、接触するつもりでいるってこと?」
「それが、希望ではあるがの」
「そんなこと、させない!」
マリスの鼓動が速くなるのが、まるでケインにまで伝わってくるようだった。
「マリス!」
ケインは、静かに、だが強く、マリスの手を引っ張った。
マリスは、はっとしたように彼を見ると、紫の瞳は、説明がつかないように、まだかすかに動揺していた。
ケインは、黙っていろ、というように、首を横に振ってから、老魔道士を睨み据えた。
「二年ほど前に、俺のマスター・ソードを奪おうとした魔道士がいた。そいつをよこしたのは、お前か? 一体、何を企んでいる!?」
今度は、マリスが驚いたようにケインの横顔を見つめた。
「ケイン、あなたも、こいつのことを知って……?」
マリスの方は見ずに、ケインが頷く。
老魔道士は、笑うのをやめ、視線をケインに移した。
「貴公は、魔力もない傭兵の分際で、今まで『魔の世界』に関わってき過ぎたのじゃよ。しかも、厄介な武器を二つも手に入れた。普通の人間の身で、同時期にあの二つを揃えるなど、有り得ぬと我々は思っておった。だが、そうでないのがわかった以上、放っておくわけには行かぬのだ。知っておろう? 『伝説の剣は、魔道士の野望を打ち砕く』と――!」
蒼い大魔道士ビシャム・アジズの目が鋭く光ると同時に、彼らの周りが揺れ始めた。
「別々の空間になんか、飛ばされてたまるか!」
ケインは、マリスを庇うようにしっかりと抱きしめた。マリスも、ケインの背に回した腕をきつく締める。
その時――!
ぽんっ! と、現れたのは、なんとミュミュだった!
「……!?」
「……!?」
ケインも、マリスも点になった目で、ミュミュを見つめた。
「なんじゃ、このニンフは! 一体、どこから入ってきおったのじゃ!?」
アジズの間の抜けた声が、その場に響いた。
ミュミュが、マリスの腕を両手で引っ張ると、ケインが今まで抱いていた感触がなくなると同時に、マリスの身体が消え、瞬く間に現れた時には、宙に浮かんでいた。
「えっ……!?」
マリスが、困惑した顔でケインを見下ろす。
「ごめ~ん、ケイン。ひとりずつしか運べないって、知ってるでしょ?」
ミュミュが、ベッと舌を出してみせた。
「そんな! ……ケイン!」
心配するマリスに向い、ケインは頷いてみせた。
「マリス、安全なところへ!」
「ダメよ! あなただけここに残るなんて! あいつは、じいちゃんの能力と匹敵するほどの能力を持ってるのよ!」
「ミュミュ! マリスを連れて行け! 急ぐんだ!」
マリスがケインを掴もうと手を伸ばすと同時に、その姿は消えた。
「なんということじゃ! あんなニンフがいようとは……! どういうわけか、妖精には、魔道士の結界なぞは関係ないのじゃあ!」
大魔道士が頭を抱えて、悔しがった。
(ミュミュは、結界の中も関係なく行き来は出来る。途中で迷わなければ……)
となると、自分のすべきことは、時間稼ぎであった。
ケインは、マスター・ソードを抜いて構える。
大魔道士は、気を持ち直し、薄笑いを浮かべ始めた。
「ほう、このワシに刃向かおうというのか? ワシが何者かわかっていての行動とは。その心意気は、たいしたものじゃ。だがな、貴様の剣、そのままでは、ワシは倒せぬぞ」
「やっぱり、マスター・ソードのことは、ちゃんと知っていたか」
「なにしろ、その剣を手に入れろと、貴様も知っている魔道士に命じたのは、このワシなのだからな。ワシの野望に邪魔なものは、排除しなくてはのう。それには、不完全な今が――二年前と違い、その能力を失ってしまった今が、最も好機!」
アジズが掌を向けた。
蒼い稲光が発せられる!
ケインは、マスター・ソードで遮った。
びりびりと、衝撃が剣を伝って走る!
「くっ……! なんて威力だ!」
大魔道士にとっては、ほんの小手調べなのだろう。
薄笑いを浮かべたまま、向けられた、もう片方の掌からも、稲妻が発射された。
剣を通して、全身に受けているしびれが、ケインを苦しめる中で、剣に力を込める。
『剣に棲まいしダーク・ドラゴンよ!
今こそ目覚め、偉大なるその力を、
貸し与えよ!』
マスター・ソードは、黒い影に覆われた。
黒い影は剣全体を包み、巨大化していくと、黒い炎さながら吹き荒れていた。
「ほほう、見事な黒き竜じゃ! 来るか! ワシと対決してみるか! 黒魔法の王者黒竜『ダーク・ドラゴン』よ!」
蒼い稲妻は放電しながら、対象をケインから西洋竜の姿をした黒い炎に変えた。
黒い炎の竜と、蒼い雷は、お互いを喰らおうとするかのように噛み付き、絡み合い、衝突するたびに、地響きと、強い光を発する。
だが、雷は太く勢いを増し、竜の全身を駆け抜ける。
爆発と爆風が起こり、やがて、竜の姿は煙と化し、消えていった。
がくっと、ケインが、不安定な空間に、片膝を着いた。
蒼い稲光が、バチバチッと、彼の身体に巻き付き、蝕んでいく。
剣は、元通りのロング・ソードの形状に戻り、左手にあった。
「やっぱ……、こ、これが、限界か……」
乱れた呼吸を整えながら、途切れ途切れに、ケインは呟いていた。
相手が加減していたとわかっていても、受けたダメージは相当に大きい。
鍛えられていた彼の身体でも、立ち上がれそうにない。しびれが全身に残り、思うように動かない。
「不完全とはいえ、そこまでの威力があったとは……。だが、今ので、貴様は、自分の持つ精神力と、剣の魔力を使い果たしてしまったであろう? 無謀にも、このワシと勝負しようとしただけ、褒めてやろう」
不気味な笑いを浮かべながら、老魔道士がゆっくりと近付く。
ケインは、荒く、肩で息をしながら、剣を鞘に収めた。
「ほほう、どうやら、貴様もワシの言った意味がわかり、抵抗しても無駄だと悟ったか。ならば、遠慮なく、貴様と共に、その剣を……!」
魔道士の、皺だらけの手が、ケインのすぐ近くまで伸びていく。
「そうじゃない……! お前は、もうひとつの、剣……のことを、……忘れている!」
片目をやっと開き、苦しそうに、だが、ケインは笑ってみせた。
「なんじゃと?」
動揺した老魔道士は、何かを感じて、後退った。
ケインと大魔道士の間の空間が、僅かに歪む。
そして、彼の言った『もうひとつの剣』は、そこから産み落とされるようにして、ケインの頭上から、徐々に降りて来たのだった!
「なんということじゃ! あの若造魔道士め! ついに、ワシの結界にまで……!」
老魔道士の言葉を最後まで聞くこともなく、ケインは、『声』に導かれるままに、その空間を切り裂いた!
奇妙な感覚に、ケインは包まれていた。
自由はきかず、どんなにもがいても、まるで、水の中にでもいるような、緩慢な動きにしかならず、彼を素通りしていく空気は、暖かいのか冷たいのかもわからない。
目は閉じられている。
彼が、ただ最後に見たものは――
ヴァルドリューズから受け取ったバスター・ブレードで空間を裂くと、ヴァルドリューズが彼を引き上げた。
ケインの足の先までが完全に裂け目の中に入ると、空間は塞がり、既に、例の部屋の赤煉瓦は見えなくなっていた。
「ここまで来れば、もう大丈夫だろう」
ヴァルドリューズの声が、近くで聞こえる。だが、まだ『止まる』気配はない。
「マリスは?」
自分は横になっているらしいと感じながら、ケインは、一番の気がかりであったことを、目を閉じたままで、尋ねた。
「ミュミュが、ダミアス殿のところへ連れていった。皆には、しばらくアストーレに戻っていてもらった」
ミュミュが、あのような危険な結界に、ひとりで入るわけはないと思っていたケインは、ヴァルドリューズが近くにいると踏んでいた。
「それなら、良かった……! それだけ、あの魔道士は、……危険だからな」
うっ! と、身体を屈め、あちこちが痛むのを抑える。
「あの場では、条件が不利だ」
ヴァルドリューズは相変わらず表情のない声で返す。
「あの魔道士、マリスが、『ゴールダヌスと敵対してる蒼い大魔道士』とか、なんとか言っていたけど……」
「ビシャム・アジズ――『黒の大魔道士ゴールダヌス』殿に匹敵する力を持つと言われている」
「だよな。ゴールダヌス自体が、とんでもない魔道士なんだろ? そんなもんに匹敵するって言ったら……!」
「あくまでも、『自称』だ。気にするな」
「……気にするなって、……大魔道士つかまえて、ヴァルも結構言うよな」
ケインは、痛む身体を庇いながら、苦笑いをした。
「ここだ」
唐突に強い風圧が起こった後は、ケインの背が地面に着いた。
「……!?」
うっすらと、目を開けてみると、そこは、緑の木々に囲まれた、ある森の中のようであった。
知らない植物、草花、空の青さまでが、どこか違う。気候は、暖かだ。
どことなく、彼が今まで見て来た国とは違うような、少々現実離れしているようなところに思える。
黒いフード付きマントに身を包んだヴァルドリューズが屈み、ケインの身体に手を近付け、回復魔法をかけた。
ケインは、ヴァルドリューズの顔を見て初めて、ホッとした。
身体の痛みも、徐々に薄れて行く。
「ここは……? アストーレじゃないのか?」
「キシール国だ」
ケインの耳にしたことのない国名であった。
「キシールの民の国。我々の住む人間界の、裏側だ」
「裏側……?」
ケインには、マスター・ソードを手に入れた時のことを、彷彿とさせる。人間界ではない、別の世界の存在を――!
ヴァルドリューズが『治療』を終えると、ケインは、身体を起こした。
「サンキュー、ヴァル。助かったぜ!」
どこにも痛みはなかった。
腕をぐるぐる回してみてから、ヴァルドリューズの碧い瞳を見る。
彼には、ヴァルドリューズの真意は、全く見えて来なかった。
そして、またしても、予想外の言葉が、ヴァルドリューズの口から発せられた。
「『或る晴れた日に吟遊詩人が見える』」
「?」
「マリスの暗号を使ったのは、まんざらウソではない」
「ああ、何かの手掛かりを見つけたっていう、あの暗号のことか」
「ここに、『黒の魔石――ダーク・メテオ』がある」
「なんだって!」
ケインは、しばらく彼をまじまじと見つめていた。それから、左手で、マスター・ソードの柄を触る。
「……そうだよな。あの大魔道士だって知ってたんだもんな。ヴァルも知ってたのか、マスター・ソードの秘密を」
ヴァルドリューズは、ゆっくりと頷いた。
「マスター・ソード――お前の持つドラゴン・マスター・ソードは、伝説の剣のうちのひとつと言われてるが、具体的にどのような能力を持つのかは、知られていない。その剣を手にした者にしか伝えられないからだ。剣を手にする者は、純粋に正義を貫き、悪を倒すことを目的とする以外は認められない――私が知り得るのは、そのくらいだ。おそらく、他の魔道士たちも」
ケインは、立ち上がった。
「確かに、そう聞くよな。だから、この剣を手に入れた時、俺は本当に正義の使者なんだと、さすがに誇らしかった。だけど、今は、このままでは、あまりに魔力の高いものには通用しない……」
ケインは、ふと思い起こしていた。
マスター・ソードを手に入れた時、彼には、せつない想い出もまつわるため、普段はバスター・ブレードを使い、マスター・ソードは予備として持ち歩くようになっていた。
今は、アストーレで護衛の仕事を引き受け、城の中では、背に背負うほどの大剣では物騒に見られるため、バスター・ブレードはヴァルドリューズに預け、マスター・ソードを主に使うようになっていた。
なので、マスター・ソードのみで戦ったのは、二年振りであった。
「それにしても、剣の本当の力を引き出す三つの魔石のうちのひとつ、黒の魔石『ダーク・メテオ』が、こんなところに? もしかして、あの暗号を使って、ヴァルが呼び寄せたかったのは、マリスというよりも、むしろ、俺の方だったのか? 俺のために……?」
ヴァルドリューズは、それには応えず、すっと、前に進み出た。
「こちらだ」
その肩に、ぽっとミュミュが現れ、後ろ向きに座り、ケインと目が合った。
「ミュミュ! 無事だったんだな!」
ほっとした笑顔のケインに、ミュミュも笑ってみせた。
「マリスも無事だよ。ミュミュがダミアスのおじちゃんのところへ連れてって、アストーレで避難してるようにって、お兄ちゃんからの伝言伝えといたから」
ミュミュは、にっこり笑った。
「それにしても、マスター・ソードと魔石が合わさるところを見られるなんて、ミュミュ、ツイてる~! ミュミュがケインと出会った時は、ケインが力を使い切っちゃってからだったんだもん」
「あーっ、ミュミュだろ? 魔石のことヴァルに教えたの」
ミュミュは、ぱたたっと飛んで、ヴァルドリューズの反対側の肩に移った。
「いーじゃん! ヴァルのお兄ちゃんはいい人なんだから!」
「なんだよ、それ?」
「心配するな。私は他言しない。例え、マリスにも」
ケインは、意外な顔で、ヴァルドリューズの背を見つめた。
「マリスにも……?」
「むしろ、魔石の存在は、マリスに知られてはいけない――というより、マリスの守護神には」
またしても、意外に思ったケインは、聞かずにはいられなかった。
「なんで、あの獣神に……?」
「奴だけではない。他の誰にも存在を知られてはいけないのだろう? 知っているのは、自然界の生き物と、それと渡り合える妖精……くらいであろう」
ケインは、黙って、ヴァルドリューズの顔を見つめた。
彼のことは、黒魔法の使い手にしては、どうも他の魔道士とは違う波動のようなものを感じる。そのことに、今気が付いた。
(ミュミュが、これだけ懐いているのも珍しい。黒魔法は、怖がってあまり近付かないのに……)
魔道士との戦闘で見せた冷酷な面とは打って変わり、もしかすると、自然の中にいてこそ、本来の彼の素の部分が現れるのではないかと、ケインは、そんな気がしてならなかった。