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第9話「蓮の剣と、血と、魔眼」

朝の霧がまだ残っていた。


ガレスとの素振りが終わり、蓮は水を一口飲んで剣を構え直した。


「今日は打ち合いをする」ガレスが言った。「本気でかかってこい。俺も本気で受ける」


「折れた柄しかない」


「それでいい。重さと速さを見る」


蓮は無言で頷いた。


最初の打ち合いは三秒で終わった。


ガレスが踏み込んだ瞬間、蓮の左目が熱を持った。魔眼が反応する。十秒先が見える。ガレスの右腕が上がり、剣が斜めに落ちてくる軌道が先に見えた。


蓮は横にずれた。


しかしガレスの剣は軌道を変えた。


「――っ」


読んでいたはずの一撃が肩を掠めた。木製の練習剣でも、ガレスが本気で当てれば痛い。


「どうした」ガレスは笑わなかった。「見えていたはずだろう」


「見えていた。動きが変わった」


「そうだ。俺は十秒先まで同じ動きをする義理はない」


蓮は肩を押さえながら、それを飲み込んだ。


(予知は出発点だ。そこから先は体が追いつかないといけない)


二回目。三回目。


ガレスは毎回、軌道を変えた。見えていても反応できない。見えていても体が追いつかない。魔眼に頼りすぎると、逆に体の感覚が鈍くなる。


七回目で蓮は完全に転倒した。


石畳に膝をついた瞬間、左目の奥で鈍い熱が広がった。使いすぎのサインだ。視界の端が少し滲む。


「立てるか」


「立てる」


蓮は立ち上がった。膝に血が滲んでいた。拭わなかった。


八回目。九回目。


体が覚え始めている感覚があった。魔眼で未来を見て、体が反応する。その二つの間にある時間差が、少しずつ縮まっている気がした。


十回目の打ち合いで、蓮はガレスの剣を初めて受けた。


腕に電流が走るような衝撃。骨まで響いた。それでも剣を落とさなかった。


「いい」ガレスが言った。「受けられた」


「次は返したい」


「やってみろ」


十一回目。蓮は受けた瞬間に左目を一度だけ使った。ガレスの次の動きが見える。一瞬の隙。右脇が開く。


蓮は柄を突き込んだ。


ガレスの脇腹に当たった。


静寂が一秒あった。


「……当たったな」ガレスがゆっくりと言った。口元に笑みが浮かんでいた。「ちゃんと当たった」


蓮は何も言わなかった。ただ左目を手で拭った。指先に血が付いた。


(使いすぎだ。でも、届いた)


午前の訓練が終わり、四人で宿の食堂に戻った。


エルヴィンが地図を広げて何かを計算していた。リリアが薬草の袋を整理している。


ガレスが椅子に座りながら「田中の剣、少し形になってきた」と言った。


「まだ弱い」蓮は言った。


「分かってる。でも三週間前とは別人だ」


蓮は返事をしなかった。椅子に座り、左目を少し押さえた。鈍い熱がある。使いすぎの感覚は分かるようになってきた。あと二、三回使ったら今日は終わりにする方がいい。


「あの」エルヴィンが顔を上げた。「少し気になる情報があります」


「何だ」


「掲示板に、北東方面への討伐依頼が複数出ています。それ自体は珍しくないんですが……」エルヴィンは地図の一点を指した。「この辺りの村からの報告が途絶えている。三つの村、全部二週間以内です」


「魔獣の影響か」


「……それだけじゃないかもしれません。使者の話では、ある一行が通過するたびに問題が起きているらしいです」


蓮はその一点を黙って見た。


(北東部)


地理書で読んだ場所だ。魔獣が多く、城の支援が届きにくい辺境。そこで何が起きているのか。


蓮は何も言わなかった。ただその座標を頭に刻んだ。


昼過ぎ、問題が起きた。


宿の前の路地で、ガレスが三人の男に囲まれていた。


蓮が戻ってきたとき、状況はすでに不穏だった。男たちは剣を抜いていないが、手が柄にかかっている。ガレスは両手を広げて落ち着かせようとしていた。


「おい」


蓮は路地の入り口から声をかけた。


三人が振り返った。朝、ギルドで笑っていた大柄な男と、その連れ二人だった。


「なんだ、外れスキルか」大柄の男が言った。「関係ないだろ、引っ込んでろ」


「ガレスに何の用だ」


「俺たちの縄張りで勝手に依頼を取ったんだよ。辺境新入りが調子乗るな」


蓮は男たちの位置を確認した。三人。大柄が中央、残り二人が左右。剣はまだ抜いていない。ガレスは怪我なし。エルヴィンとリリアは後方にいる。


(三人か)


「依頼を取るのはギルドのルールで自由だ」蓮は言った。「縄張りはギルド規約にない」


「うるせえ、理屈こねてんじゃねえ」


大柄の男が蓮に向かって踏み込んだ。


左目が熱を持った。


男の右腕が上がる軌道が先に見えた。


蓮は体を左に半歩ずらした。拳が空を切る。


蓮は男の手首を掴んだ。そのまま体重を乗せて押し倒そうとした。男は大柄で重い。完全には倒れなかったが、体勢が崩れた。


右側の男が動いた。


左目がもう一度反応する。しかしこの連続使用は代償がある。左目の奥で何かが焼ける感覚がした。視界の左端が白く滲んだ。


それでも続けた。


右の男の蹴りをかわし、肘で脇腹を打った。男が「ぐっ」と声を出して後退する。


左の男が剣を抜きかけた。


「やめろ」


ガレスの声だった。ガレスが素早く男の腕を掴み、剣を制した。「ここで抜いたら傷害だ。お前らも分かってるはずだろ」


大柄の男が立ち上がりかけて、蓮と目が合った。


蓮は何も言わなかった。ただ男を見ていた。感情のない目で。


男は何かを読み取ったのか、剣を抜かなかった。


「……覚えてろ」


捨て台詞を残して三人は路地を出た。


「大丈夫か」ガレスが蓮の顔を見た。「左目、血が出てるぞ」


蓮は目を拭った。指に赤がついた。


「問題ない」


「問題あるだろ」


「次はないように動く」


ガレスは何か言おうとして、代わりに深く息を吐いた。「……ありがとうな、助かった」


「合理的な判断だ」蓮は言った。「お前が怪我したら移動速度が落ちる」


「そういうことにしといてやる」


ガレスは笑った。蓮は笑わなかった。しかし否定もしなかった。


夕方、エルヴィンが蓮を呼んだ。


「さっきの三人を鑑定しました」エルヴィンは記録帳を開いた。「大柄の人がBランク相当の潜在値。残り二人はCランクです」


「つまり今後、強くなる可能性がある」


「はい。今は粗野ですが、成長すれば相当な戦力になります」


蓮は少し考えた。「あの三人が本当に敵になったとき、今の俺では勝てない場合がある」


「……正直に言えば、厳しいと思います」


「分かった」蓮は立ち上がった。「なら強くなるしかない。情報ありがとう」


エルヴィンは「どういたしまして」と言ったが、少し戸惑った顔をしていた。感謝の言葉が返ってきたのが意外だったのかもしれない。


蓮は気にしなかった。事実を把握して、次の行動を決める。それだけだ。


夜、リリアが蓮の左目を処置した。


昨夜と同じ位置、同じ椅子。リリアの手が左目の上に翳される。淡い緑の光。熱が引く。しかし今日は昨日より深くまで炎症が入っていた。回復に時間がかかった。


「今日は三回ですね」リリアが静かに言った。「朝と昼、それから路地で」


「記録しているのか」


「……してしまいます」


蓮は少し間を置いた。「なぜだ」


「分かりません」リリアは正直に言った。「ただ、気になるので」


蓮はそれ以上聞かなかった。リリアの手を払いのけることもしなかった。


治癒が終わって、短い沈黙が続いた。


「痛いですか」リリアが言った。


「使うたびにな」


「そうですか」


それだけだった。リリアはそれ以上踏み込まなかった。蓮も説明しなかった。


リリアが立ち上がって部屋を出る前に、蓮は短く言った。


「ありがとう」


リリアは振り返らなかった。しかし少しだけ歩みが止まった。それから静かに扉を閉めた。


深夜。


蓮は一人、窓の外を見ていた。


ミレヴァの夜は静かだ。遠くで犬の鳴き声がする。月が中天にある。


今日の出来事を整理した。


ガレスの打ち合いで初めて一撃を返せた。路地で三人を制した。エルヴィンから潜在敵の情報を得た。リリアが使用回数を記録している。そして北東部の村で何かが起きている。


(今すぐ動くか?)


蓮は自問した。


答えはすぐに出た。


(無理だ)


感情ではなく、計算の結果だ。今の自分の実力を冷静に見れば、それが結論になる。ガレスとの打ち合いで一撃を返せるようになった。路地で三人を制した。それは事実だ。だが同時に、魔眼を三回使っただけで左目が出血し、視界が滲んだことも事実だ。


黒崎は【剣聖】だ。


この世界で最高峰の剣技スキルを持つ者という意味だ。それに【神速】と【魔力覚醒】が加わる。今の蓮が挑めば、一合も持たないだろう。魔眼で十秒先が見えても、それを上回る速さで斬られる。


(死にに行くだけだ。それは違う)


蓮は拳を軽く握った。


復讐は感情で動くものじゃない。少なくとも今の蓮にとっては違う。谷底で死にかけて、泥水を飲んで、蒼刃草の痛みで叫んで、ようやく掴んだ命だ。それを無駄に使う気はない。


(強くなる。もっと上へ。それからだ)


北東部の情報は頭に刻んだ。何が起きているのか、誰が関わっているのか、まだ確証はない。だが記憶した。


いつか必ず、その答えを取りに行く。


今は違う。


(やられたらやり返す。だが、返せる力がなければ話にならない)


それが蓮の結論だった。


窓の外に目をやった。月明かりの下、ミレヴァの石畳は静かだ。


(もっと強くなれ。もっと深くまで落ちろ。魔眼よ、まだ先があるはずだ)


左目が微かに熱を持った。


まるで答えるように。


翌朝、誰よりも早く起きた。


霧の中で素振りを始めると、しばらくしてガレスが来た。昨日と同じように隣に立って剣を抜く。


「昨日の一撃、もう一度できるか」ガレスが言った。


「やってみる」


「やってみるじゃなく、やれ」


蓮は少し間を置いた。


「やる」


ガレスが笑った。霧の中で二人の剣が動き始めた。


蓮の左目が、静かに熱を帯びた。



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