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第8話「最初の町」

挿絵(By みてみん)

町が見えた。


木立の切れ間から、石造りの建物が密集する輪郭が現れた瞬間、ガレスが「ミレヴァだ」と言った。


蓮は立ち止まり、その景色を眺めた。


城を出て十一日。谷底から這い上がり、森で三人に拾われ、訓練と移動を繰り返した。足の裏に豆ができ、左目は今日も朝から鈍く熱を持っている。魔眼の使い過ぎだ。それでも歩き続けた。


(町か)


初めて、少しだけ肩の力が抜けた気がした。


ミレヴァは辺境の交易拠点だった。


地理書で読んだ記憶がある。ラエルダ王国の東端に位置し、草原と山脈の境目にある小さな町。人口はおよそ二千人。冒険者ギルドと小さな市場がある。城下とは比べものにならないが、食料と宿があることは確かだ。


「まず宿を取ろう」ガレスが言った。「金はあるか?」


「銀貨一枚と銅貨三枚」と蓮は答えた。「それとこれ」


背負い袋から魔狼の毛皮と束ねた薬草を取り出した。谷底で手に入れた蒼刃草と、道中で採った薬草が数種類。重かったが、捨てなかった。金になると踏んでいた。


エルヴィンが眼鏡を押し上げて「市場で売れると思いますよ」と言った。「魔狼の毛皮は需要があります。蒼刃草は……珍しい、かなり値が付くはずです」


「売り交渉はガレスに頼む」蓮は言った。「俺は顔が利かない」


ガレスは「任せろ」と胸を叩いた。


リリアが「私も一緒に行きます」と小さく手を挙げた。蓮は短く「ありがとう」と言った。


リリアが少しだけ目を丸くした。少し前までなら「問題ない」で終わらせる場面だった。自分でも分かっている。ただ、一言くらい言っても損はないと思うようになっただけだ。


市場は昼前の活気に満ちていた。


野菜、干し肉、布、鉄製品、薬草の束。屋台が石畳に沿って並び、商人たちの呼び声が交差する。蓮は人の流れを観察しながら歩いた。魔眼は使わない。ここでは節約する。


毛皮と薬草を売る店を三軒見て、ガレスが交渉に入った。


最初の店は「外から来たばかりの顔」と見て値を低く言ってきた。ガレスは笑いながら「冗談は昼に聞く」と返し、二軒目へ。二軒目は魔狼の毛皮の状態を褒めたが蒼刃草に首をかしげた。三軒目の老婆が目を細めて蒼刃草を手に取り、「これはどこで?」と聞いた。


「北東の谷だ」ガレスが答えた。


老婆は少し考えて、銀貨三枚と銅貨二枚を出した。


蓮の手に乗ったその重さは、五週間分の城での給金を超えていた。


(自分で稼いだ金だ)


内心でそれだけ思った。銅貨五枚と何が違うのかと問われれば、全部違う。誰かに与えられたものじゃない。自分の体と、左目の血で手に入れたものだ。


冒険者ギルドに寄ったのはガレスの提案だった。


「登録しておいた方がいい。依頼を受ければ収入になる。身分証にもなる」


蓮は反論しなかった。合理的だ。


ギルドの中は煙草と汗のにおいがした。木の長テーブルに粗野な男たちが座り、酒を飲んでいる者もいる。正午前だというのに。蓮は受付カウンターへ向かい、手続きを始めた。


受付の女性は事務的に書類を取り出した。


「スキルの申告をお願いします」


「【魔眼 Lv2】のみです」


女性がペンを止めた。「……それだけですか?」


「はい」


後ろで椅子を引く音がした。振り返ると、三十代前後の冒険者二人が笑っていた。大柄な方が口を開いた。


「スキルひとつで冒険者やろうってか。しかも魔眼? 外れじゃねえか」


もう一人が「死ぬなよ」と付け加えて笑った。


蓮は振り返らなかった。書類の記入を続けた。


(覚えた)


それだけだ。笑い返す理由も怒鳴る理由もない。顔と体格と笑い方を、ただ記憶した。


エルヴィンが小声で「あの二人……鑑定すると相当な潜在値ですね」と囁いた。「どちらもBランク以上の素質があります」


蓮は「そうか」と短く答えた。「なら敵に回さない方がいい場面が来るかもしれない」


それは感情のない計算だった。


宿は「木熊亭」という名の二階建てだった。


一泊銅貨三枚。四人分で銅貨十二枚。清潔とは言えないが、地下室よりはるかにましだった。壁に窓がある。それだけで十分だ。


荷物を置き、蓮は宿の主人に頼んで厨房を少しだけ借りた。


「何をするんですか?」リリアが後ろからついてきた。


「飯を作る」


「……作れるんですか?」


「会社員やってたんで」


意味が伝わったかは分からない。ただリリアは「手伝います」と言って、厨房の隅で薪に火をつけ始めた。


蓮は宿の食材棚にあった腸詰めと雑穀、それから市場で少し買い足した根菜を使ってスープを作った。特別なものではない。会社帰りに深夜、一人で作っていた類のものだ。出汁を取り、塩と乾燥香草で味を整える。腸詰めを薄切りにして最後に加える。


ガレスが匂いを嗅いで厨房に入ってきた。


「何だこれは、うまそうだぞ」


「飯だ」


「分かってる、だから言ってるんだ」


エルヴィンも引き寄せられてきた。四人分の椀にスープをよそい、テーブルに並べた。


「食え」


蓮はリリアに椀を渡した。


リリアは両手で受け取って、一瞬だけ蓮の顔を見た。何かを言おうとして、言わなかった。代わりにスープに口をつけて、「……おいしい」と小さく言った。


ガレスが爆笑した。


「おい、田中、お前こんなことできたのか! 剣より才能があるんじゃないか?」


「うるさい」


しかし蓮はそれを否定しなかった。ガレスの笑い声が煩わしくはなかった。


(悪くない)


それだけ思った。


夜、リリアが「見せてください」と言った。


蓮が左目を拭った布に血の滲みがあった。魔眼を使うたびに起きることだ。今日も市場で一度、ギルドへ向かう路地で一度、使った。合計二回。それだけで目が重くなる。


「問題ない」


「問題あります」リリアははっきり言った。彼女がそういう声を出すのは珍しかった。「毎日出血しています。治癒魔法で完全には治せませんけど、炎症は抑えられます。座ってください」


蓮は少し間を置いてから、椅子に座った。


リリアの手が蓮の左目の上に翳された。淡い緑の光が広がり、熱が引いていく感覚がある。完全には消えない。骨の奥に残る鈍痛はそのままだ。それでも表面の炎症が収まるのは分かった。


「……ありがとう」


蓮は短く言った。


リリアは何も言わなかった。ただ手を降ろして、蓮の左目を少しだけ見つめた。心配、というより、何か疑問を持っているような目だった。


「魔眼は……痛いんですか?」


「使うたびにな」


「それでも使いますか」


「必要なら」


リリアはまた何か言おうとして、やめた。「分かりました」とだけ言って立ち上がった。


蓮はその背中を一瞬眺めた。それから視線を戻した。


深夜、宿の全員が眠った後、蓮は一人で起きていた。


窓から外を見ると、ミレヴァの石畳に月明かりが落ちていた。人の姿はない。静かだ。


蓮は銀貨と銅貨を数えた。


今の手持ち:銀貨四枚、銅貨七枚。一週間は生きられる計算だ。


黒崎の現在位置は不明だ。ギルドの掲示板で勇者一行の情報を探したが、直接の記録はなかった。ただ酒飲みの冒険者が「勇者様が北方討伐に出るらしい」と話していた。


(北方か)


北東部には辺境の村が点在している。地理書で読んだ。魔獣が多く、城の支援が届きにくい地域だ。そこに黒崎が向かっているとしたら。


(村に何をする気だ)


具体的な答えはまだない。ただ嫌な予感がある。黒崎は権力をそのまま使う。日本でもそうだった。強い立場を持てば、それを使い切ることしか考えない男だ。


蓮は左目に触れた。今夜は出血が止まっている。リリアの治癒のおかげだ。


(強くなる必要がある)


黒崎は【剣聖】【神速】【魔力覚醒】を持っている。現状の蓮では話にならない。Lv2の魔眼で十秒先が見えても、圧倒的な力の差は覆せない。


では何が必要か。


強さ。速さ。そして魔眼のさらなる覚醒。


(やられたらやり返す。それだけだ)


それが変わらない一点だった。


蓮は窓から離れ、寝台に横になった。目を閉じると左目の奥がまだ少しだけ熱を持っていた。


眠れないなら、それはそれでいい。


翌朝、誰よりも早く起きて剣の素振りをするだけだ。


夜明け前、宿の裏の空き地に出ると、霧がかかっていた。


蓮は折れた剣の柄を手に持ち、素振りを繰り返した。百回、二百回。腕が重くなり、肩が痛み始めた頃、後ろで足音がした。


「やっぱりいたか」


ガレスだった。あくびをしながら自分の剣を持って隣に立った。


「眠れなかったのか?」


「考えることがあった」


「そうか」ガレスは素振りを始めながら言った。「俺も若い頃はそうだった。考えると眠れなくなる。答えが出ないうちは特にな」


蓮は答えなかった。しかし素振りのペースを落とさなかった。


ガレスも落とさなかった。


霧の中で、二人の剣が風を切る音だけが続いた。



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