第7話「森の中の戦闘訓練」
ガレスが言ったのは、四人で旅を始めて二日目の朝だった。
「蓮、剣の練習するか」
俺は木の実を口に入れながら答えた。
「必要か」
「必要だろ。ナイフしか持ってないだろうが」
「腰のナイフで足りる」
「足りない。お前が今戦ったら五秒で死ぬ」
俺はガレスを見た。
嘘ではないと思った。
三日前、ゴブリン三体を魔眼で回避した。でもあれは相手が気づいていなかった。正面から来られたら、今の俺に対処する技術がない。
「使える剣はあるか」
「ある。昨日の野営地で拾った折れ剣。刃はないが練習用には使える」
ガレスが一本の短い剣を取り出した。刃先が折れた、片手用の古い剣だった。
「やる」と俺は言った。
「そうこなくちゃ」
ガレスは特に喜んだ顔もしなかった。ただ、立ち上がって剣を抜いた。
木立の中の小さな空き地。
ガレスが向かいに立った。木剣を構えている。俺は折れ剣を持った。
「まず構えを見せろ。好きなように構えてみろ」
俺は剣を前に出した。
ガレスが少し俺を見て、溜息をついた。
「お前、剣を持ったことがあるか」
「城で少し訓練を受けた。一週間ほど」
「一週間か。なるほど」
ガレスが俺の周りを一周した。足元を見て、手の位置を見て、重心を見た。
「足が開きすぎだ。肩幅より少し広い程度にしろ」
「こうか」
「そう。重心はもう少し低く。膝を曲げろ、そこまで深くない。もう少し……そこだ」
ガレスの指導は具体的だった。「こうしろ」ではなく「ここをこの角度に」という話し方をした。
騎士として鍛えられた人間の言葉だ、と思った。
「では打ちかかる」
ガレスが来た。
上段から真っ直ぐ。
左目が熱くなった。
十秒先の映像が来た。ガレスの剣が俺の右肩に当たる場面。
俺は右に一歩、踏み出した。
ガレスの剣が空を切った。
「……」
ガレスが止まった。
「今の、どこで俺の動きを読んだ」
「読んだ、というほどでもない」
「いや、確実に読んでた。お前は俺が打つより先に動いた」
俺は答えなかった。
ガレスは少し考えてから、また構えた。
「もう一回」
十回、打ちかかられた。
十回、全部俺は回避した。
ガレスは途中から本気になった。角度を変え、速度を変え、フェイントを混ぜた。
魔眼は全部見えた。
十秒先に何が来るかが分かる。だからどこに動けばいいかも分かる。
全部避けた。
でも十一回目に、ガレスが止まった。
「お前、なぜ逃げてるだけなんだ」
「避けている」
「逃げてると言ってる。見てみろ、十回全部避けた後、お前はどこにいた」
俺は振り返った。
最初の位置より三メートル後退していた。
「追い詰められていたぞ。あと一回打たれていたら、木に追い込まれていた」
俺は気づいていた。でも、それ以上どうすればいいか分からなかった。
「避けるだけでは足りないということか」
「足りない。攻撃の後には必ず隙がある。お前が避けた直後は、俺の体勢が崩れているはずだ。その瞬間に何もしないから、俺はすぐ次を打てる」
ガレスが俺の位置に来て、実演した。
「俺が打つ。お前が避ける。その瞬間、俺の右側が空いている。そこに入れ」
「体が追いつかない」
「だからそれを練習する。見えているのに動けないなら、体を見えるものに追いつかせるしかない」
俺はその言葉を頭に入れた。
見えている。でも動けない。
頭と体の乖離。
それが今の俺の問題だった。
昼まで練習した。
何十回も打たれた。避けた後の反撃を試みた。タイミングが合わなかった。何度やっても一テンポ遅れた。
左目が熱を帯びた。血が頬を伝った。
ガレスが「目が」と言いかけた。
「問題ない」と俺は言った。
「血が出てるぞ」
「問題ない」
ガレスは少し俺を見た。何か言いたそうだったが、言わなかった。
「続けるか」
「続ける」
また打ちかかられた。
今度は避けた後、一歩前に出た。
ガレスの右側に体を入れた。
遅かった。ガレスはすでに体勢を戻していた。
「惜しい」とガレスが言った。「もう少し早く踏み込めば届いた」
「タイミングが分からない」
「分かるまでやるしかない」
俺はまた構えた。
夕方の野営で、リリアが俺の左目に薬草を塗ってくれた。
今日の訓練で相当酷使した。左目の周りが腫れて、充血が広がっていた。
「少し休ませた方がいい」とリリアが言った。
「痛みは大したことない」
「痛みの話じゃない。消耗の話だ」
俺はリリアを見た。
「どういう意味だ」
「スキルは内側から消費する。体力じゃなくて、もっと根っこの部分を。使いすぎると回復しにくくなる」
「専門家なのか」
「専門家じゃない。でも魔法理論は少し知ってる」
リリアが薬草の布を丁寧に巻きながら、話し始めた。
「スキルっていうのはね、自分の中にある何かが外に出たものだと言われてる」
「何か、というのは」
「その人の一番強い部分。欲とか、願いとか、諦めとか。人によって違う」
俺は黙って聞いた。
「私の治癒スキルは、他人の痛みを感じる力から来てる。相手の痛みが分かるから、どこを治せばいいかが分かる。でもその分、私も痛くなる。それが代償」
「効率が悪い」
「そうね。でも私には他に何もないから」
リリアは手を止めずに続けた。
「あなたの魔眼も、何かから来てるはず。最初は何もなかったのに、今はLv2になってる。それはあなたの中の何かが強くなったってことだと思う」
俺は少し考えた。
「スキルは、使う人間の内側によって強くなるということか」
「正確には、変わるということ。内側の強度が変わると、スキルの質も変わる。限界が変わる」
「なぜスキルを使うと代償が発生する」
「それはね——」リリアが一度手を止めた。「内側から何かを引き出しているから。引き出しすぎると、根っこが傷む」
俺は左目を触った。
「根っこ、か」
「うん」
谷底で叫んだとき、俺は何かを引き出した。
腹の底の黒いものを。
それが魔眼を動かした。
そしてスキルが上がった。
リリアの言う理論と、整合していた。
焚き火を挟んで、エルヴィンが手帳を広げていた。
「蓮、一つ聞いていいか」
「何だ」
「魔眼がLv1からLv2になったの、いつだ」
「……なぜ聞く」
「成長型スキルの研究をずっとしてたから。師匠の元で。俺が今まで記録した成長型スキルは三件しかない。魔眼は四件目になる」
研究熱心な男だ、とは思っていた。
「成長型スキルというのは」
「普通のスキルはレベルが固定されてる。鑑定で最初に読んだ値から変わらない。でも一部のスキルは成長する。状況によってレベルが上がる」
「条件は何だ」
「それが分からない。三件の記録を見ると、共通しているのは一つだけ」
「何だ」
「スキル保持者が、根本的に変わった瞬間だ」
エルヴィンは手帳のページをめくった。
「一件目は、ある農民の男。火事で家族を失った夜にスキルが上がった。二件目は、騎士の女。仲間全員が死んで自分だけ生き残った日に上がった。三件目は——これは俺の師匠の記録だが——商人の子供が、親に売られたその日に上がった」
俺は黙って聞いた。
「全員、戻れない日があった。それが境界線になってる。お前はどうだ」
俺は答えなかった。
エルヴィンは答えを求めなかった。
「まあ、聞かなくても大体分かる」エルヴィンが手帳を閉じた。「あの谷底で何かがあったんだろ。一人で生き延びて、一人で出てきた。体中に傷を持って」
俺は何も言わなかった。
「次にLv3になるとしたら」とエルヴィンが言った。「またそういう日が来るかもしれない。覚悟しとくといい」
「分かった」
「怖くないのか」
「怖いかどうかは、関係ない」
エルヴィンは少しの間俺を見た。
「……そうか」それだけ言って、手帳をしまった。
二日目の朝。
ガレスの訓練を再開した。
昨日の反省点を頭の中で整理していた。
問題は二つだ。
一つ、魔眼を使いすぎている。十秒先を常時確認しようとするから、左目への負荷が高く、すぐに消耗する。
二つ、回避後の反撃のタイミングが読めない。映像で「相手の隙」は見えるが、その瞬間に体が動いていない。
解決策を考えた。
魔眼は、本当に必要な瞬間だけ使う。常時確認するのをやめる。ガレスの攻撃の全てを見なくていい。致命的な一撃だけを読めばいい。
回避後の反撃は、体で覚えるしかない。繰り返すしかない。
「準備できたか」とガレスが言った。
「ああ」
「今日は少し本気で打つ。昨日より速い」
「構わない」
ガレスが来た。
今回、俺は魔眼を使わなかった。
ガレスの体の動きだけを見た。肩の動き。腰の回転。足の踏み込み。
来る、と思った瞬間——左目を開いた。
一瞬だけ。
映像が来た。三秒後、右から斬り上げが来る。
左目を閉じた。
右足を引いた。体を左に回した。
ガレスの剣が右側を通り過ぎた。
その瞬間、俺は一歩踏み込んだ。
ガレスの右側。剣先が俺から遠い。
折れ剣の刃の部分でガレスの脇腹を突いた。
「……っ!」
ガレスが止まった。
俺も止まった。
沈黙があった。
「当たった」とガレスが言った。
「ああ」
「今日は魔眼を使うタイミングを変えたな」
「常時使うのをやめた。ここぞという瞬間だけにした」
「……」ガレスが少し考えた。「なるほど。目の消耗を抑えながら、決定的な一手だけを読む」
「その方が効率がいい」
「そうだな」ガレスが剣を構え直した。「もう一回やるか」
「ああ」
午後、道を歩いていたとき、藪が揺れた。
俺は即座に左目を開いた。
十秒後の映像。
ゴブリン四体。二手に分かれて来る。右から二体、左から二体。
左目を閉じた。
「二手から来る。右に二体、左に二体」
ガレスが即座に剣を抜いた。
「左を持つ。蓮は右のを頼む」
「俺が二体相手は」
「リリアが後ろで支援に入る。エルヴィンは後退して待機」
ガレスが左の藪に向かった。
俺は右を向いた。
ゴブリンが二体、藪から出てきた。
体は小さい。でも数が多い。俺に戦闘経験はほとんどない。
左目を開いた。
三秒後——右のゴブリンが低く突っ込んでくる。左のゴブリンは高く飛んでくる。
俺は左目を閉じた。
右に体を寄せて、低く来るゴブリンを右に流した。その勢いを使って体を回転させ、飛んでくるゴブリンの顎に肘を当てた。
どちらも崩れた。
倒れた瞬間、ナイフで急所を突いた。
終わった。
二秒かかっていない。
左目が熱くなった。血が頬を伝った。
ガレスの方を見ると、こちらも終わっていた。
「……早かったな」とガレスが言った。
「二体だった」
「初めての実戦だろ」
「そうだ」
「……」ガレスは少し俺を見た。「それで顔色が変わらないのは、お前の特技か」
俺は答えなかった。
リリアが走ってきた。
「怪我ない?」
「ない」
「目は」
「問題ない」
リリアが俺の左目を見た。血が出ているのが分かったはずだ。でも今回は何も言わなかった。
代わりに、小さな薬草の布を差し出した。
俺は受け取った。
エルヴィンが遠くから「全員無事か」と叫んだ。
「無事だ」とガレスが返した。
夜。
三人が眠った後、俺は一人で訓練の整理をした。
今日分かったことを、頭の中で並べた。
魔眼を「常時使う」のは無駄だ。消耗が早く、左目への負荷が高い。
「決定的な瞬間だけ使う」方が効率がいい。回避すべき一手、反撃すべき一瞬。そこだけに絞れば、使用回数を減らしながら効果を最大化できる。
体の問題は、まだある。
反撃のタイミングが遅い。回避後の踏み込みが弱い。それは繰り返しでしか解決しない。体に覚えさせるしかない。
今日の実戦は、まだ相手が弱すぎた。
魔王軍の本格的な戦力相手には通用しない。
黒崎相手には、更に通用しない。
黒崎の持つスキルは【剣聖】【神速】。俺が今相手にしたゴブリンとは、比べものにならない。
でも、方向は見えた。
魔眼の使い方。体の使い方。その二つを磨けば、俺は強くなる。
まだ弱い。でも、どう強くなればいいかは分かった。
それだけで十分だ。
今は。
焚き火が小さくなっていた。
俺は薪を一本足した。
横でリリアが動く気配があった。
目を開けると、リリアが体を起こして俺を見ていた。
「また眠れないの?」
「当番制にする気はない」
「そうじゃなくて」
リリアが少し考えてから言った。
「眠れないんじゃなくて、眠りたくないんでしょ」
俺は答えなかった。
「信用してないから」
「……そうだ」
「正直ね」
「嘘をつく理由もない」
リリアは少しの間焚き火を見ていた。
「いつか信用してもらえる?」
「分からない」
「正直」
「今の俺には、信用する余裕がない。それだけだ。個人の問題じゃない」
リリアはしばらく黙った。
「分かった」と言った。
また横になった。
それ以上は何も言わなかった。
押し付けてこない。これだからリリアは話しやすい。
話しやすい、か。
俺はそう思ったことに気づいて、一度止まった。
打算だ、と思い直した。
話しやすい人間は、情報が取りやすい。それだけの話だ。
感情の問題ではない。
そう言い聞かせた。
三日目の朝。
ガレスが「今日は少し違う練習をする」と言った。
「どう違う」
「目を閉じてやる」
俺は少し考えた。
「目を閉じて剣の練習をするのか」
「ああ。目で見るのをやめて、音と気配で動く。お前は目に頼りすぎてる」
「目が俺の武器だ」
「そうだな。だからこそ、目が使えないときのために体を慣らしておく必要がある。いつも目が使えるとは限らない」
俺はガレスの言葉を考えた。
左目が使えなくなるとき——消耗しきった後。血が出て、視界が白くなった後。
そのときに何もできないのでは、武器がなくなると同じだ。
「やる」と俺は言った。
目を閉じた。
ガレスが動く気配がした。
足音。空気の動き。
来る、と思った瞬間、体が右に動いた。
空気が左を通り過ぎた。
「ほう」とガレスの声がした。「目を閉じても動けるか」
「一回だけだ。続けると分からなくなる」
「それで十分だ。体が覚えてる」
また来た。
今度は分からなかった。
肩に当たった。
「痛い」
「そうだろ。また来るぞ」
午後まで練習した。
目を閉じた状態で動く訓練は、想像以上に消耗した。
でも確かに、体が反応するようになっていった。
音、気配、微かな空気の流れ。
それらを使えば、ゼロではない。
魔眼が使えないとき、それが俺の最後の手段になる。
使えるものは全部使う。
それが今の俺の方針だ。
感情的な理由ではない。
生き延びるためだ。
黒崎のいる場所まで辿り着くために。
まだ先は長い。
まだ弱い。
でも、確かに、一歩ずつ近づいている。
その感覚が、腹の底の黒いものを、静かに燃やし続けていた。




