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第6話「一人旅と、三人の変わり者」

谷を出てから、三日が経った。


まともな食事はしていない。


木の実を見つけたら食べた。川魚を素手で捕まえようとして、二時間かけて一匹も捕れなかった。野草を見分けながら食べられるものだけ口に入れた。


腹は減ったままだ。


それでも歩いた。


方角は東。城とは逆の方向だ。


目的地はない。


ただ、城から遠ざかることだけが今の基準だった。


魔眼を使いながら歩いた。


山道に見えない罠がないか。崖の縁が安全か。藪の中に何かいないか。十秒先を確認しながら一歩ずつ進んだ。


使うたびに左目が熱くなった。血が出た。頬を伝った。


もう拭わなかった。


拭う手間が惜しかった。


体が疲れている。でも止まらない。止まったら、惰性で城の方向に足が向きそうな気がした。


それだけは、したくなかった。


二日目、魔獣に出くわした。


ゴブリンだった。三体。川べりで何かを漁っていた。


左目で十秒先を確認した。このまま進めば向こうが俺に気づく。距離は十五メートル。逃げ切れるか微妙なところだ。


俺は音を立てずに迂回した。


木の陰から陰へ、息を殺しながら移動した。


ゴブリンたちは気づかなかった。


通り過ぎてから、少しだけ肩の力が抜けた。


感情はなかった。


ただ、処理した。脅威を確認して、回避した。それだけだ。


以前の俺なら、心臓が跳ねていただろう。


今は心臓の音も聞こえなかった。


腹の底の黒いものが、静かにそこにあった。


三日目の夕方、煙が見えた。


東の木立の向こう、白い煙が細く立ち昇っている。


人がいる。


俺は立ち止まった。


誰かは分からない。敵か味方かも分からない。


左目で先を見た。


映像が来た。十秒後の俺。木陰からその煙の方向を見ている。人の声が聞こえる。三人分。


三人。


武装しているかどうかは映像からは分からない。


避けるか、近づくか。


腹が鳴った。


三日分の空腹が、判断に割り込んできた。


俺は少しだけ近づくことにした。確認だけする。危険なら離れる。


木を盾にしながら近づいた。


炎が見えた。


人が三人、焚き火を囲んでいた。


その瞬間、足元がぬかるんで、俺の体が傾いた。


枝を踏んだ。


乾いた音が鳴った。


三人が一斉にこちらを向いた。


「……人だ」


女の声だった。


俺はナイフに手をかけた。


「待って、敵じゃない」


女がゆっくりと立ち上がった。両手を見せながら近づいてくる。


二十代前半くらいか。薄い茶色の髪。動きやすい格好。腰に短剣があるが、抜いていない。


「怪我してる? 左目、血が出てる」


「……関係ない」


「関係あるかどうかはこっちが判断する」


俺はその女を見た。


目が合った。


臆していなかった。


俺のナイフを見ても、表情が変わらなかった。


後ろの二人を確認した。


一人は大柄な男だった。三十代前後。首に大きな剣を担いでいる。腕が太い。立ち上がっているが、突進する構えではない。


もう一人は細い若い男だった。十代の終わりか。眼鏡のような道具を目に当てて、俺をじっと見ていた。眼鏡ではない。何かの道具だ。


俺はその三人を五秒で分析した。


即座に攻撃する意図は今のところない。女が前に出ていること、大柄の男が武器を抜いていないこと、若い男が俺から目を離さないが手が空であること。


すぐには動かない、と判断した。


その瞬間、左目に映像が来た。


十秒後——俺が倒れている。


判断が遅れた。体が先に動いていた。


膝が折れた。


地面が迫ってきた。


目が覚めると、焚き火の近くにいた。


背中に毛布がかかっていた。


俺はすぐに起き上がろうとした。


「動かないで」


女の声がした。


「傷の手当てが終わってない」


俺は状況を確認した。


左腕の古傷——魔狼の爪傷——に新しい布が巻かれていた。左目の周りに何かが塗ってあった。


ナイフは腰にあった。取られていない。


荷物も手元にある。


俺は女を見た。女は俺の腕を丁寧に縛り直していた。


「俺の物を漁ったか」


「荷物には触れてない。体だけ」


「その判断は俺がする」


「じゃあ次から自分で手当てして」


言い返せなかった。


俺は黙った。


女が顔を上げた。


「リリアという。治癒師の見習い、ということになってる」


「……ということになってる?」


「厳密に言うと、ハズレスキル持ちの流浪人。詳しくは聞かないでほしい」


俺は女——リリアを見た。


愛想笑いをしていなかった。事実だけ言っている顔だった。


大柄な男が焚き火の向こうから言った。


「俺はガレス。元王国騎士。今は無職」


短い自己紹介だった。


「なぜ元なんだ」


「命令に従わなかったから追い出された」


「どんな命令だ」


「民間人を斬れという命令だ。無実の農民を。俺はそれを拒否した。その日から無職になった」


俺は黙った。


ガレスは特に感情を込めずに言った。淡々としていた。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもなく、ただ事実として言った。


「お前は?」と聞いてきた。


「田中蓮。今のところ無職」


「どこから来た」


「遠いところ」


ガレスはそれ以上聞かなかった。


眼鏡の道具を下ろした若い男が、俺の方にじりじりと近づいてきた。


「エルヴィン。俺の名前」


高い声だった。


「鑑定屋の見習い。スキルを見る仕事をしてた。今は諸事情あって旅中」


「諸事情というのは」


「色々あって。お金なくなって。仕事クビになって。師匠に逃げられて」


一度に三つ出てきた。


「それは諸事情が多すぎる」


「まあ」エルヴィンは頭を掻いた。「人生って感じで」


俺はエルヴィンを見た。


さっき俺の方に向けていた道具——鑑定眼鏡のようなもの——が気になった。


「さっき、あれで俺を見ていたな」


エルヴィンの動きが、一瞬止まった。


「……鑑定眼鏡。スキルと大まかなレベルを読み取れる道具だ。職業病でつい」


「何が見えた」


エルヴィンは少し間を置いてから、言った。


「魔眼、Lv2」


静かになった。


「それだけか」


「それだけ」


俺はエルヴィンを見た。


目が合った。エルヴィンは逸らさなかった。


「ハズレスキルだって聞いたことがある」とエルヴィンが言った。「でも、俺が今まで読んだ魔眼の記録と、今見たのは少し違う気がした」


「何が違う」


「レベルが上がってる。魔眼でLv2というのを俺は見たことがない」


俺は黙った。


「追及はしない」とエルヴィンが言った。「ただ、一つだけ聞いていいか」


「何だ」


「目から血が出るのは、毎回か」


俺は何も言わなかった。


「……そうか」とエルヴィンが呟いた。それだけ言って、鑑定眼鏡をしまった。


三人の話を、俺は頭の中で整理した。


リリア。治癒スキルのハズレ持ち。戦闘力は低いが、医療の知識がある。俺の傷を無言で手当てした。利用価値:負傷時の対応。


ガレス。元騎士。命令拒否で追放。戦闘力は高い。今は方向性を失っている。人を無闇に傷つけるタイプではなさそうだ。利用価値:戦闘時の壁。


エルヴィン。鑑定眼鏡を持つ、スキル分析ができる若者。俺の魔眼のレベルを正確に読んだ。話が多い。しかし情報収集能力がある。利用価値:情報と分析。


三人とも、城の外で生きているはみ出し者だ。


黒崎の「王国」に属していない。


それだけで、多少の信頼の基準にはなった。


多少だ。完全には信用しない。


リリアが焚き火に木を足しながら言った。


「どこへ向かってるの」


「東」


「目的は」


「ない」


リリアは少し俺を見た。何かを言いかけて、やめた。


「私たちも東に向かってる。次の町まで三日ほどかかる」


「そうか」


「……一緒に来る?」


俺はリリアを見た。


「なぜ俺を誘う」


「助けたから」


「それは理由にならない」


「そうかもしれない」リリアは肩をすくめた。「でも、一人で東に向かうのは危険だと思う。あなたの体の状態で」


俺はしばらく考えた。


一人での移動は、効率が悪かった。食料の確保に時間がかかる。魔眼を使いすぎて左目の消耗が激しい。三日に一度は体力の限界が来そうだった。


感情の話をするなら、一緒に行く理由はない。


でも感情の話ではない。


「方向が合う間だけだ」


俺は言った。


「何かを期待するな。助ける義理もない」


「分かった」


「世話になった分は返す。それだけだ」


「充分だよ」とリリアが言った。


ガレスが「俺は別に何も期待してないからな」と言った。


エルヴィンが「俺はちょっと期待してるけど」と言った。俺がそちらを見ると「何でもない」と言った。


翌朝、四人で東に向かって歩き始めた。


ガレスが先頭に立った。道を知っているらしかった。


リリアが中間。エルヴィンがその隣。


俺は後尾を歩いた。


誰の背中も、全員見える位置だ。


ガレスが振り返らずに言った。


「田中、というんだったな」


「そうだ」


「呼び方は?」


「どちらでもいい」


「じゃあ蓮で」


「好きにしろ」


ガレスはそれで満足したらしく、また前を向いた。


単純な男だ、と思った。


悪い意味ではない。余計なことを考えていない。それだけだ。


昼頃、川を渡る場面があった。


石を渡って対岸に行く。石が滑りやすい場所だった。


左目で先を読んだ。


十秒後——エルヴィンが三番目の石で滑る。落ちる。水は浅いが岩がある。


俺は無言でエルヴィンの袖を引っ張った。


「……え?」


「三番目の石を踏むな。二番目から直接四番目に跳べ」


エルヴィンが不思議そうな顔をした。でも従った。


四番目の石に着地した。


三番目の石が、ぐらりと揺れた。


エルヴィンが息を飲む音がした。


「……どうして分かったんだ」


俺は答えなかった。


川を渡り終えて、先に歩き出した。


後ろでエルヴィンとリリアが小声で何か言い合っているのが聞こえたが、聞かなかったことにした。


夕方、野営の準備をした。


ガレスが火を起こした。リリアが食材を確認した。


俺は周囲の安全を確認してから、木の根元に座った。


「食事、一緒に食べる?」とリリアが聞いてきた。


「……もらう」


四人分のスープができた。


俺が自分の分を受け取ったとき、温かい食事を5日ぶりに食べた。


うまかった。


うまいと思ったことを、顔に出さなかった。


ガレスが「うまいか」と聞いてきた。


「普通だ」


「嘘つくな、顔に出てるぞ」


「出ていない」


「出てる」とエルヴィンが言った。「左目だけじゃなく右目も笑ってる」


俺は二人を見た。


二人は笑っていた。


俺は視線を皿に戻した。


笑わなかった。


笑う理由が、なかった。


でも、腹の底の黒いものが、少しだけ静かになった気がした。


気のせいだ、と思った。


打算だ。感情じゃない。


腹が満ちれば、体が落ち着く。それだけのことだ。


夜。


三人が眠りについた後、俺は一人で起きていた。


眠れないわけではなかった。


眠りたくなかった。


見知らぬ三人と一緒にいる。背中を向けて眠る気にはなれなかった。


焚き火の残り火を見ながら、考えた。


なぜ一緒に行くことにしたのか。


体力の問題。食料の問題。魔眼の消耗の問題。一人では限界がある。それが理由だ。


感情の問題ではない。


三人が信用できるかどうかは、まだ分からない。


でも今のところ、俺に害をなす気配はない。


利用できる間は、させてもらう。


それだけだ。


エルヴィンの言葉が頭に残っていた。


「魔眼でLv2というのを、俺は見たことがない」


図書室の男も言っていた。百年前の記録。植物を成長させた魔眼持ちのこと。


あの時はハズレスキルの話として聞いた。


今は違う。


俺は谷底で実際に使った。植物を成長させた。目から血が出た。それでも使い続けた。


スキルはまだ変わっていくのかもしれない。


どこまで行くのか、分からない。


ただ、行き先を知りたいと思った。


弱いまま終わる気はない。


黒崎を見返すまでは、死ぬわけにも弱いままでいるわけにも、いかない。


夜中に一度、物音がした。


俺はすぐにナイフを手にした。


左目で先を読んだ。


十秒後——小動物が茂みを通り抜ける映像。魔獣ではない。


ナイフを下げた。


ガレスが目を開けた。


「何かいたか」


「小動物だ。問題ない」


「……お前、ずっと起きてんのか」


「当番制にする気はない」


「俺も起きる」


「いらない」


ガレスは少し俺を見てから、また目を閉じた。


数秒後、寝息が聞こえた。


単純な男だ。


そう思った


悪い意味では、ない。


夜明け前、リリアがそっと起き上がった。


俺が起きているのを見て、少し驚いた顔をした。


「眠れなかった?」


「眠らなかった」


「……それは体に悪い」


「分かってる」


リリアは少し考えてから、俺の隣に座った。


何も言わなかった。焚き火の残り火を見ていた。


俺も何も言わなかった。


しばらく沈黙が続いた。


「左目のこと、聞いていい?」


「聞くな」


「分かった」


リリアは引いた。


俺は少し、意外だと思った。


普通は「なぜ」と聞くか、「心配してるだけ」と続けるか、どちらかだ。


リリアはそれをしなかった。


分かった、と言ってやめた。


それだけだった。


俺はリリアを少し見てから、また火を見た。


「大した話じゃない」と俺は言った。「使うたびに痛い。それだけだ」


「そう」


「慣れた」


「慣れていい痛みと、慣れていけない痛みがある」


俺は答えなかった。


リリアも続けなかった。


夜明けの光が、少しずつ木の間から差し込んできた。


遠くで鳥が鳴いた。


この三人が、いつまで同じ方向に歩くかは分からない。


利害が合う間だけ、一緒にいる。


それだけの関係だ。


それでいい。


それ以上は、今の俺には必要ない。


朝、四人でまた東に向かって歩き始めた。


ガレスが先頭。リリアとエルヴィンが続く。俺が後尾。


昨日と同じ並びだ。


ガレスが歌いながら歩き始めた。


うまくない歌だった。


エルヴィンが「音痴だ」と言った。


ガレスが「黙れ」と言った。


リリアが笑った。


俺は何も言わなかった。


ただ、左目で前の道を読みながら、後ろから歩いた。


変わり者が三人。


俺を含めれば四人か。


まあ、悪くない旅だとは思わなかった。


思わなかったが——


腹の底の黒いものが、昨夜よりも少しだけ温度を持っていた気がした。


気のせいだ。


気のせい、だと思った。



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