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第5話「谷底へ」

体が、岩に当たった。


腰。肩。頭。


跳ねて、転がって、止まった。


意識が、消えた。


最初に感じたのは、においだった。


湿った土。苔。血。


次に音。水が流れている。近い。


それから、痛み。


全身が一斉に悲鳴を上げた。


動こうとした。


動けなかった。


体の何かが、壊れていた。


右目だけ開けた。左目は腫れているのか、それとも別の何かか、開かなかった。


右目で見えたのは、空だった。


空ではなかった。


両側に切り立った岩壁がそびえていて、その隙間から細い青だけが見えた。


谷底だ、と分かった。


声を出そうとした。


出なかった。


空気を吸うたびに肺が痛んだ。肋骨にひびが入っているかもしれない。


腰は感覚がおかしかった。痛いのに、力が入らない。足の指を動かしてみた。動いた。骨折ではないかもしれない。でも腰に体重をかけることは、今は無理だ。


頭を動かした。


少しだけ、首を横に向けた。


そこに、それがあった。


岩の割れ目だった。


転がり落ちた俺の頭から、三十センチほどの距離。


そこに、小さなものがあった。


親指の先ほどの蕾。


青みがかった緑色。表面に細かい産毛。茎は針のように細い。


俺はしばらくそれを見た。


図書室で読んだ本の記述が、頭の中に浮かんだ。


蒼刃草。


谷底の岩影に生える極めて稀な植物。強力な再生促進と体力回復の効果を持つ。ただし蕾から成熟まで自然では数週間かかる。成熟後は一日で枯れる。


俺の目の前に、その蕾がある。


動けない体で。食料もなく。一人で。


ここに落ちて最初に目に入ったのが、この蕾だった。


奇跡か、と思った。


奇跡だとしたら、悪趣味な奇跡だと思った。


使えなければ意味がない。咲くまで数週間、俺が生きていられるか分からない。


でも、目の前にある。


図書室の男の声が、頭に蘇った。


「植物の成長を早める使い方ができたという記録があった」


「使うたびに目から血が出た。激しい充血と痛みを伴った」


俺はその蕾を見た。


左目が、微かに熱を持っていた。


動けない状態で、魔眼を使うことにした。


体を動かすより先に、これをやらなければならない気がした。


何かに急かされているような感覚があった。


体が動かないなら、目だけで何かをする。


俺は左目を開こうとした。


腫れていた。でも、完全には塞がっていなかった。


細い隙間から、蕾が見えた。


焦点を合わせた。


魔眼を、ただ見るのではなく、働きかけるように使った。


成長しろ、と念じた。


痛みが来た。


今までの充血の痛みとは、次元が違った。


眼球の奥から頭の芯まで、焼き鏝を押し込まれるような熱と痛みが貫いた。


「——っ!」


声が漏れた。


体が反射で動こうとした。動けなかった。体が動けないのに、痛みだけがある。


視界が白くなった。何も見えない。


左目から、何かが伝う感覚があった。


頰を伝う温かいもの。


血だ、と分かった。


左目から血が出ている。動けないまま、血が流れている。


痛みで思考が吹き飛びそうになった。


でも、止めなかった。


なぜか。


分からなかった。


ただ、止めたくなかった。


痛みの中に、何かが浮かんだ。


黒崎の顔だった。


「奴隷だ、お前は」


あの声。あの表情。


次に、自分の顔が浮かんだ。


黒崎に助けられたと思って、一瞬でも安堵した、あの自分の顔。


次に、もっと前。


会社で怒鳴られても「すみません」と言い続けた自分。


銅貨五枚を受け取って「まあいい」で済ませた自分。


奴隷と呼ばれても、言い返せなかった自分。


全部が、目の前に並んだ。


左目の痛みと、それが重なった。


重なった瞬間、何かが爆発した。


腹の底から、黒い想いが込み上げてきた。


怒りとも、憎しみとも、嫌悪とも違う。


全部が混ざり合った、もっと根っこの部分にある何か。


「なんで——」


声が出た。


「なんで俺は、ずっと、あんな扱いを受け続けて——」


涙ではなかった。


左目から流れているのは血だ。


それでも体が震えていた。


「——なんで異世界に来てまで、奴隷なんだ」


誰に言っているのか分からなかった。


神様か。この世界か。それとも自分か。


「なんで俺は、それを当たり前だと思い続けてたんだ」


声が割れた。


喉が痛かった。


でも止まらなかった。


腹の底の黒いものが、全部出ようとしていた。


「生きてるだけでいい、って——それは諦めじゃないのか!!」


叫んだ。


谷底に、声が響いた。


誰も聞いていない。誰も答えない。岩壁に反響して、消えた。


それでも叫んだ。


「ふざけんな。ふざけんな、ふざけんな、ふざけんなッ——」


体が動けないまま、叫び続けた。


左目の痛みが、さらに増した。


視界が真っ白になった。


血が頰を伝って、顎から土に落ちた。


それでも、目を開け続けた。


その黒い想いを、全部左目に流し込む気持ちで、開け続けた。


震えた。


蕾が、震えた。


俺は息を詰めた。


蕾の茎が、わずかに伸びた。蕾がゆっくりと膨らみ始めた。


「——動いてる」


声が震えた。


止まるな、と思った。


痛みの中で、左目を蕾に向け続けた。


頭が割れそうだった。血が流れ続けた。吐き気がした。体が動けないまま、意識だけが蕾に向いていた。


茎が伸びた。


葉が開き始めた。


青みがかった、刃のような形の葉が、一枚、二枚、三枚。


成熟していく。


その光景を見ながら、俺は左目を押さえた。


痛みが、頂点に達した。


そして、視界が——消えた。


気づいたとき、また意識が飛んでいた。


どれくらい経ったか分からない。


右目を開けると、空の色が少し変わっていた。昼を過ぎたかもしれない。


体を動かそうとした。


腰が、動いた。


さっきより、少しだけ動いた。


左目を確認した。乾いた血が頬に貼りついていた。目の周りが腫れている。でも、光は感じた。完全に潰れてはいない。


蕾があった場所を見た。


そこに、成熟した植物が立っていた。


青い刃のような葉が、三枚。


蒼刃草だ。


俺は腕を伸ばした。


腕が震えた。腰が悲鳴を上げた。それでも伸ばした。


指先が茎に届いた。


引っこ抜いた。


根ごと、土ごと、口に入れた。


苦かった。


土の味がした。


産毛が口の中に引っかかった。


飲み込んだ。


三十秒後、体の中を何かが走った。


熱ではなく、温かさ。


腰の感覚が戻ってきた。肋骨の鋭い痛みが、鈍くなった。左目の腫れが、少し引く感覚があった。


本物だった。


効いた。


俺は地面に倒れたまま、天を見た。


泣いていなかった。


叫んだ後の、からっぽな静けさがあった。


でも腹の底には、まだあった。


黒いものが、まだそこにあった。


冷えて、固まって、なくなっていなかった。


体が動くようになるまで、半日かかった。


まず水だった。


川の音は近かった。這いながら近づいて、顔を水につけた。


冷たかった。


泥が少し混じった水を、がぶがぶ飲んだ。


うまくはなかった。


でも飲んだ。


これが今の俺の現実だ。


きれいな話なんか、一つもない。


食料がなかった。


背嚢はどこかに飛んだ。落ちる途中で岩に当たって、弾き飛ばされたのだろう。


探したが、見つからなかった。


俺は谷底を歩きながら、食べられるものを探した。


図書室で読んだ植物の本を、頭の中で引っ張り出した。


山地の谷底で採取できる食用植物。


岩の隙間に生えている苔のような草——毒はない、ただし栄養もほぼない。


川べりの水草——一部は食用になる。


根が太い低木——皮の内側は食べられる種類がある。


俺は片っ端から試した。


苔草をひとつまみ、口に入れた。


草の苦みと土の味がした。食感は泥だった。


飲み込んだ。


水草を一掴み、川から引き上げた。


ぬめぬめしていた。川魚の臭いがした。


飲み込んだ。


低木の皮を剥がして、内側の白い部分を削って口に入れた。


繊維だらけで、噛んでも噛んでも飲み込めなかった。


それでも飲み込んだ。


腹が減っていた。


腹が減りすぎて、何も考えられなかった。


ただ食べた。


うまいとかまずいとか、そういう話じゃなかった。


生きるために食べた。


それだけだ。


二日が過ぎた。


体の感覚が少しずつ戻ってきた。腰は歩けるくらいには動く。肋骨の痛みは鈍くなった。左腕の傷は、蒼刃草の効果か、思ったより悪化していなかった。


魔眼を繰り返し使った。


谷を歩くたびに、足元の先を見た。崖を探すたびに、数秒先を見た。


使うたびに、左目が熱くなった。


血が出た。


頰を伝う感覚に、もう慣れた。


痛みが来るたびに、腹の底のあれが揺れた。


黒いものが、ぐるりと動いた。


それが燃料になった。


痛い。腹が立つ。だから使い続ける。


痛みに負けたら、それが俺の限界だ。


俺の限界は、俺が決める。


黒崎が決めるものじゃない。


三日目の朝。


左目に映像が来た。


十秒後の俺が、岩に躓く場面。


俺は立ち止まった。


十秒先。


今まで最長でも四、五秒だった。


一気に倍になっていた。


左目が、じんと熱を持った。


これは——上がった。


スキルの底が、一段広がったような感覚。


魔眼が、また変わった。


痛みと血と、腹の底の黒いものが、魔眼を動かした。


俺はその感覚を確認してから、また歩き出した。


特に感動はなかった。


ただ、使えるものが増えた。それだけだ。


使えるものは、全部使う。


それが今の俺の方針だった。


四日目。


谷底をある程度歩き、地形を把握した。


上流方向は土砂崩れで塞がれている。下流方向は岩が積み重なって、人が通れる隙間がない。


では上か。


俺は崖を見上げた。


落ちてきた場所が分かった。土が崩れた跡がある。あそこから落ちた。


登れるか?


左目で崖を見た。


映像が来た。十秒後、俺が崖に取り付いて、三手後に落ちる。


今の状態では無理だ。


でも——登った先に何がある?


城がある。


黒崎がいる。


銅貨五枚がある。


「奴隷」という立場がある。


「田中、飯を用意しろ」という声がある。


「死んだら損だから生かしておく」という視線がある。


俺は崖から目を離した。


長い時間、動かなかった。


川の水を飲みながら、考えた。


四日間、食料もなく、動けない体で、目から血を流しながら生き延びた。


その先に、奴隷生活がある。


「笑えない」


声に出た。


本当に笑えなかった。


俺は何のために、ここまでして生きている?


城に戻って、また黒崎の荷物を運ぶためか。


また「俺のパシリがいなくなると面倒だから」生かしてもらうためか。


また銅貨五枚を受け取って、「まあいい、生きてる」と言い続けるためか。


違う。


絶対に、違う。


俺がここで泥を啜って、目から血を出して、苔草を噛んで、水草をすすって——それは、そんな場所に戻るためじゃない。


じゃあ、なんのためだ。


黒崎を見返すまで、死ねない。


それがある。


でもそれだけじゃない。


ずっと流されてきた。


会社でも、この世界でも。


誰かの都合で動いて、誰かの言葉で萎縮して、誰かの机の下でパンを食べるようなことをしてきた。


それが俺の人生だった。


それを「平和」と呼んで、「哲学」と呼んで、誤魔化し続けた。


谷底で目から血を流しながら叫んだとき、その偽物が全部剥がれた。


俺に残ったのは——


腹の底の、黒い想いだけだった。


消えていない。


冷えて、固まって、なくならない。


これが、本当の俺だったのかもしれない。


ずっと蓋をしていた。


ようやく、出てきた。


城には戻らない。


決めた。


黒崎のいる城に、自分の足で帰ることはしない。


ヴェルのことは申し訳なかった。でも、ヴェルに会うために城に帰るわけにはいかない。


土砂崩れの斜面を登る。


急斜面だが、岩場よりはホールドがある。体が動く今なら、行ける。


左目で先を見た。


十秒後の映像。足をかける場所が分かった。


俺は立ち上がった。


最後にもう一度、川の水を飲んだ。


土の味がした。


飲み込んだ。


これが現実だ。


誰かに用意してもらったスープでも、銀の食器でも、朝食に文句をつける権利でもない。


川の、泥水だ。


それでいい。


これが俺の出発点だ。


斜面に取り付いた。


泥が崩れた。手が沈んだ。


左目で先を読みながら、一手ずつ確認して登った。


使うたびに左目が熱くなった。血が出た。頬を伝った。


腰が痛んだ。肋骨が悲鳴を上げた。


止まらなかった。


腹の底の黒いものが、じんわりと全身に広がっていく感覚があった。


冷たくて、静かな、何か。


怒りというより、もっと温度が低いもの。


ただそこにある、揺るがないもの。


斜面の頂点に手がかかった。


体を引き上げた。


向こう側に、別の谷が続いていた。


まだ先がある。


俺は一度だけ後ろを振り返った。


落ちてきた崖。四日間いた谷底。泥と血と苔草と水草だけで生き延びた場所。


もう見ない。


前を向いた。


今後、俺は自分の道を歩く。


誰かに決められた道ではない。


流されて辿り着く場所でもない。


俺が、俺で決めた道だ。


まだ弱い。まだ何も持っていない。


でも、今のこの足で、前に進む。


死んでたまるか。


見返すまでは、絶対に、死んでたまるか。


左目が熱くなった。


血が、また頬を伝った。


その痛みを踏み台にして、俺は歩き出した。



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