第4話「初任務」
出発は夜明け前だった。
朝四時。城の北門の前で、俺は荷物を背負って立っていた。
背嚢の重さは、自分の体重の半分くらいある。三日分の食料、水筒三本、野営道具、黒崎の予備の装備、それから簡単な医療用品。全部俺の担当だ。
懐には銅貨五枚があった。
昨日、城の会計係から渡された今週の給料だ。五枚。パン五個分。一週間、朝から晩まで働いた対価がそれだった。
まあ、いい。
衣食住は城が出している。使い道もない。
それでも、財布の代わりに使っている麻の小袋の中で、五枚の硬貨がかちゃかちゃと鳴るのを聞くたびに、何か言葉にならないものが喉の奥に引っかかる気がした。
それが何かは、まだ分からなかった。
ヴェルが先に来ていた。
門の脇で装備を確認している。革鎧、腰の剣、背中の短槍。無駄がない格好だ。
「田中、荷物は全部揃ってるか」
「はい」
「水は十分か」
「三人分、三日分」
「よし」
ヴェルはそれ以上何も言わなかった。
しばらくして、西棟の方から足音が聞こえた。
黒崎だった。
金の外套を纏い、腰に剣を帯びている。顔は眠そうだったが、体は起きていた。全身から微かに金色の魔力が漏れている。【魔力覚醒】のスキルのせいだ。暗い中でも、その体は少し光っているように見えた。
「遅くなった。行くぞ」
黒崎はそれだけ言って門をくぐった。
俺とヴェルがその後に続いた。
城の外に出るのは、異世界に来てから初めてだった。
北東の山脈を目指す、三日間の初任務が始まった。
山道は最初の二時間で俺の体力を半分削った。
石畳の街道が終わると、道は細くなり、足元が岩と砂利に変わった。傾斜が続く。荷物が肩に食い込む。息が切れる。
黒崎は一定のペースで歩き続けた。速い。あの体にはスキル【神速】が入っているから、体力消費も違うのだろう。振り返ることもなく、ただ前を歩く。
ヴェルは俺と黒崎の間に入って、俺のペースに合わせてくれていた。何も言わないが、俺が遅れると少しだけ歩幅を縮めた。
俺は黙って歩いた。
足を踏み出すたびに、左目がじんとした。
岩の段差を踏もうとしたとき、左目に映像が浮かんだ。二秒後、右足が滑って転ぶ場面。俺は直前で足の位置を変えた。滑らなかった。代わりに左目が熱くなって、しばらく霞んだ。
魔眼を使うたびにそうなる。
数秒先が見える。転ばずに済む。でも目が痛む。充血する。
割に合うのか合わないのか、まだ分からなかった。
昼前に小さな川に出た。
黒崎が「休憩だ」と言って、川べりの岩に腰を下ろした。ヴェルが周囲を確認した。
俺は荷物を下ろして、食料を取り出した。
用意してきた干し肉と、堅焼きのパン。水筒の水。それだけだ。
黒崎に渡すと、黒崎は一瞥して「量が少ない」と言った。
「三日分を均等に割ってあります」
「朝食いそびれたから今日の昼は多くしろ。残りは調整しろ」
「……分かりました」
俺は自分の分から少し移した。
黒崎はそれを確認もせず食べ始めた。
俺は残った少ない量を食べた。
ヴェルが横で俺を少し見たが、何も言わなかった。
午後の道は登りがきつくなった。
山肌が近づいてきて、木々が深くなった。昼でも薄暗い。
黒崎はほぼ喋らなかった。ヴェルと時折、偵察隊の予想位置について話していた。俺はその会話に入れる立場でもなく、ただ後ろを歩いていた。
夕方近くに、今夜の野営地になる小さな平地を見つけた。
黒崎が「ここでいい」と言って足を止めた。
「田中、テントを張れ。飯の準備も」
「はい」
「俺のテントは風上に。あと飯は温かいやつな。火を起こせ」
俺はすぐに動いた。
テントを張り、石を集めて火を起こし、持ってきた小鍋で干し肉と乾燥野菜を煮た。
できあがったスープをまず黒崎に渡した。
「遅い」
黒崎はそれだけ言って受け取った。
ヴェルには次に渡した。
「ありがとう」と小声でヴェルが言った。
俺は自分の分を最後によそって、焚き火の端で食べた。
温かかった。それだけはよかった。
夜、黒崎はすぐにテントに入って眠った。
ヴェルが当直の見張りをすると言った。
「田中は先に寝ていい。明日も早い」
「分かりました」
俺はテントに入ったが、眠れなかった。
地面が硬かった。山の夜は城より寒かった。毛布を体に巻いて、天井を見た。テントの布越しに星が透けて見えた。
銅貨五枚のことを考えた。
なぜ思い出したのか分からなかった。でも麻袋の中で鳴る音が耳に残っていた。
一週間分。五枚。
これが正当な対価だとは思っていなかった。でも文句も言わなかった。
いつもそうだった。
会社でも、理不尽な残業をさせられても、感謝もなく怒鳴られても、「まあいい」で終わらせていた。
生きてれば、いい。
その言葉はいつも、俺が何かに文句を言いかけたとき、蓋になった。
まあいい、生きてる。
それだけで十分、と思い続けた。
なぜ、と今更思った。
理由が分からないまま、疲れが勝って目が閉じた。
二日目の朝。
川べりで水を補充していたとき、それは来た。
藪が揺れた。
俺は水筒を持ったまま振り向いた。
出てきたのは狼だった。
ただし、普通の狼ではなかった。
体が大人の俺より一回り大きい。毛は灰黒色で、目が赤く光っていた。図鑑で見た魔狼だ。北方の山に生息する中型の魔獣。単独で行動し、獲物を定めたら追い続ける。
ヴェルと黒崎は野営地にいる。ここまで声は届かない。
逃げる間もなかった。
魔狼が跳んだ。
左目が焼けるように熱くなった。
視界の中に映像が浮かぶ。三秒後——牙が俺の首に届く。
俺は横に飛んだ。
牙が空を切った。
着地して振り向くと、魔狼はすでに体勢を戻していた。速い。
再び跳んだ。
また映像。二秒後——今度は肩に爪が来る。
俺は後ろに転がった。爪が肩口を掠めた。皮が切れる感覚。
立ち上がろうとしたとき、左目がひどく霞んだ。
魔眼を連続で使った代償だ。視界が半分になる。
それでも魔狼は来た。
三度目。
映像が来る前に爪が届いた。左腕を引っかかれて、俺は川べりに転落した。
岩に背中を打ちつけた。痛みで息が止まる。
魔狼が俺の上に立った。
赤い目が俺を見た。
俺はその目を見返した。
逃げられない。武器もない。魔眼は霞んでいる。
ここで死ぬのか、と思った。
怖くなかった。ただ、なんとなく「そうか」と思った。
そのとき、風が切れた。
一瞬の光。
魔狼の体が、二つに分かれて落ちた。
血しぶきが俺の顔にかかった。
剣を持った黒崎が立っていた。
俺は地面に座ったまま、黒崎を見上げた。
血が左腕から流れていた。
心臓がまだ速かった。
死ぬかと思った。
でも、生きている。
「く、黒崎……」
俺は口を開いた。
「助かっ——」
「誰が死んでいいって言った」
黒崎の声は、感情がなかった。
俺は口を閉じた。
黒崎は剣の血を払いながら、俺を見下ろした。品定めするわけでもなく、心配するわけでもなく、ただそこに物があるように見ていた。
「俺がお前を助けたと思ってるなら、それは違う」
「……」
「たまたまここを通りかかった。たまたまそこに魔獣がいた。邪魔だから倒した。それだけだ」
黒崎はゆっくりと剣を鞘に収めた。
「俺の荷物持ちが死んだら、荷物を誰が運ぶ。それだけの話だ」
俺は黒崎の顔を見た。
その顔には何もなかった。怒りも、哀れみも、見下しさえもない。
ただ、道具の話をしているときの顔だった。
「パシリが死ぬと困る、か」
俺は呟いた。
黒崎が少し目を細めた。
「パシリ?」
一瞬の沈黙。
「パシリですら烏滸がましいだろ。奴隷だ、お前は」
俺は動かなかった。
「奴隷が死ぬと損する。だから生かしておく。それだけだ」
黒崎は俺に背を向けた。
「傷の手当ては自分でしろ。水汲みはまだ終わってないだろ。早くしろ」
足音が遠ざかった。
俺は川べりに一人残された。
しばらく、動けなかった。
左腕から血が滲んでいた。大した傷ではない。深くはない。痛いが、死ぬほどではない。
俺は自分の手を見た。
血が指先まで伝っていた。
頭の中が、奇妙に静かだった。
そして俺は、気づいた。
「助かった」と思った瞬間のことを、思い出した。
黒崎が魔狼を斬った瞬間。俺の心に何かが浮かんだ。
ほっとした。
嬉しかった。
助けてもらった、と思って——嬉しかった。
俺はその感情を、胃の底から引っ張り出すように確認した。
確かにそう感じた。一瞬でも、嬉しいと思った。
この人が助けてくれた、と思った。
「……情けない」
声に出たのは、そこだった。
黒崎に向けた言葉じゃなかった。
俺自身に向けた言葉だった。
いつからだ。
いつから俺は、あんな言葉をかけられても「助けてくれた」と思えるようになったんだ。
会社でも、そうだった。
黒崎に怒鳴られながら、それでも翌日ちゃんと指示通りにやり直せば「よくやった」の一言もなく当然のように受け取られた。それでも俺は、文句を言わなかった。
なぜ文句を言わなかったのか。
生きてれば、いいと思っていたから。
波風を立てなければ、どうにかなると思っていたから。
流されていれば、いつか着岸できると思っていたから。
三年、そうやって会社にいた。
そして異世界に来ても、また同じようにした。
雑用係でも、銅貨五枚でも、「まあいい、生きてる」で全部蓋をした。
そして今日、死にかけて、それを「助けてもらった」と思った。
「生きてるだけでいい、か」
俺は呟いた。
川の水が流れる音がした。
その言葉を、今初めて疑っていた。
それは強さだったのか。諦めだったのか。
波風を立てないことは、平和だったのか。ただ、自分を守るために感情を殺していただけじゃなかったのか。
流されていれば、いつか着岸できる。
本当にそうか。
流されていたら、ただ遠くに流されるだけじゃないのか。
俺は懐に手を入れた。
銅貨五枚の入った麻袋を握った。
硬い感触。小さな重さ。
一週間分。
これが、俺の価値か。
奴隷、と黒崎は言った。
笑えないことに、間違ってもいない気がした。
俺自身が、自分を奴隷にしてきたんじゃないか。
抵抗しないことで。受け入れることで。流されることで。
「腹が……立つ」
声に出した瞬間、少し驚いた。
怒りという感情を自覚したのが、久しぶりだったからだ。
黒崎への怒りかと思ったが、違った。
俺自身への怒りだった。
こんなことになるまで、何も感じなかった自分への怒り。
助けてもらったと一瞬でも思ってしまった自分への怒り。
奴隷だと言われて、何も言い返せなかった自分への怒り。
炎というほど熱くはなかった。
燃えさしが、一つ、静かに灯ったような感覚だった。
でも確かに、何かが変わった。
左目が、じんとした。
充血が広がる感触。
俺はそれを無視して、傷口を川の水で洗った。
夜、野営地に戻ると、ヴェルが俺の左腕に気づいた。
「傷があるな」
「少し、やられました」
「見せろ」
ヴェルは有無を言わさず俺の腕を確認して、持参していた薬草を取り出した。匂いのきつい汁を傷口に塗って、布で巻いた。
「魔狼か」
「はい」
「一人でいたのか」
「川に水を取りに行っていて」
ヴェルはしばらく黙って俺の腕を巻いてから、言った。
「一人で行動するな。今後は必ず俺に声をかけてから動け」
「……すみません」
「謝罪はいい。次からそうしろ」
黒崎はテントの中にいた。
俺のことには触れなかった。
俺も何も言わなかった。
その夜も眠れなかった。
何かが体の中で、ずっとくすぶっていた。
燃えさし一つ。
消えはしなかった。
朝四時に起きて、火を起こし、朝の準備をしながら、俺はそれを確認した。
まだある。
消えていない。
それが何であるかを、まだうまく言葉にできなかった。
ただ、昨日までとは、何かが違う気がした。
三日目の朝、山道に入った。
前日よりさらに細い道だった。片側は切り立った岩壁。もう片側は、ずっと下まで続く谷底。落ちたら終わりだ。
黒崎が先頭。ヴェルが中間。俺が後尾。
黒崎がある地点で立ち止まった。
「前の道、土がもろそうだな」
ヴェルが確認した。
「確かに。昨日の雨で緩んでいる可能性があります」
「じゃあ田中、先に行って確認してこい」
俺はヴェルを見た。
ヴェルが一瞬、何かを言いかけた顔をした。でも黒崎を前に、黙った。
「田中、聞こえてるか。先に行けと言ってる」
俺は黒崎を見た。
「……はい」
俺は前に出た。
細い道を一歩一歩確認しながら歩いた。足元に神経を集中させた。
左目を開いた。
三秒後の映像が見えた。
俺が、落ちていた。
止まろうとした。
でも踏み出した足の下の土が、ぐずりと音を立てた。
体が傾いた。
反対側の岩壁に手をかけようとしたが、届かなかった。
視界が横になった。
谷底が、目の前に来た。
ヴェルの声が聞こえた気がした。
黒崎の声は聞こえなかった。
俺は落ちた。
空気を切る音の中で、一つだけ考えていた。
——死んでたまるか。
その言葉が、どこから来たのか分からなかった。
でも確かに、そう思った。
初めて、そう思った。




