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第3話「黒崎の王国」

城に来て、十日が経った。


俺の一日はこうだ。


朝五時、目が覚める。顔を洗い、麻の服を着る。地下から地上に上がり、黒崎の部屋の前に朝の荷物を揃える。それから食堂の仕込みを手伝い、廊下を掃き、中庭の水桶を補充し、また別の廊下を掃く。


昼は使用人の食堂で食事を取る。パンと薄いスープ。それが毎日続いている。


午後は黒崎が呼べばいつでも動けるよう、城内のどこかで待機しながら仕事をこなす。石磨き、薪割り、洗濯物の取り込み。


夜は図書室に寄る。それが唯一、自分の時間と呼べるものだ。


そして地下に戻り、硬いベッドに横になる。


繰り返し。繰り返し。繰り返し。


会社と何も変わらなかった。場所が変わっただけだ。


生きてれば、いい。


まだそう思っていた。


黒崎の朝は遅い。


主賓室のある西棟は、俺が住む地下とは別世界だった。廊下に絨毯が敷いてあり、窓から朝の光が差し込み、どこか花の匂いがする。侍女たちが朝早くから黒崎の部屋の前で待機している。


俺が荷物を運んでいくと、侍女の一人が「ご苦労様です」と言う。俺ではなく、背後の空間に言っている感じだ。俺という人間に向けた言葉ではなかった。


黒崎の部屋の扉の前に荷物を置いて、俺はその場を離れる。


中からは黒崎の声が聞こえた。


「今日の予定は。訓練が何時からだ」


「朝の第二刻よりご用意しております、勇者様」


「昨日の剣、柄を換えろって言っただろうが。まだか」


「申し訳ございません、本日中に必ず」


「使えねえな」


侍女が静かに謝る声が聞こえた。


俺は廊下の角を曲がった。


聞こえていたけど、聞こえていなかったことにした。


それが正しい対処法だと知っていた。


訓練は第二刻から始まる。


城の中庭に、騎士見習いたちが集まる。正規の騎士ではなく、貴族の子弟が多い。十代から二十代の若い男たちだ。


俺もそこに混ぜてもらっていた。「勇者様の従者として最低限の自衛ができるように」という名目で。


指導役はヴェルという三十代の騎士だった。顎の割れた、無口な男だ。俺を見るとき、毎回微かに眉をひそめる。哀れみとも困惑とも取れる表情だった。


「では始める。まず走れ。中庭を十周」


全員が走り出した。


俺も走った。


三周で息が切れた。


会社員時代、運動などほぼしていなかった。電車で通勤し、デスクに座り、また電車で帰る。それが五年続いていた。


七周目で足がもつれた。


転ばなかったのは、魔眼のせいだ。二秒後に躓くという映像が見えたから、直前で足を持ち直せた。でも左目に熱が走り、その後一分ほど軽く霞んだ。


十周終わったとき、他の者はほぼ息が上がっていなかった。


ヴェルが俺を見た。特に何も言わなかった。それが一番きつかった。


剣の基礎訓練では、木剣を持つ練習から始まった。


構えを教わり、振り方を教わり、足さばきを教わった。


他の見習いたちはすでに一定の基礎を持っていた。貴族の子弟だから、幼い頃から剣術を習っている。俺だけが完全なゼロだった。


「田中、構えが違う。肘が上がりすぎだ」


「はい」


「重心が前すぎる。後ろに下げろ」


「はい」


「違う。もっと自然に」


何度言われても直せなかった。体が言うことを聞かない。


隣で訓練していた若い貴族が、小声で笑った。


「あいつ、魔力値一般人以下なんだろ。訓練しても意味ないんじゃないか」


「勇者様の荷物持ちだもんな。弱くても別にいいんだろう」


俺は聞こえていたが、反応しなかった。


会社でも同じことを言われていた。「あいつは覇気がない」「どうせ数字も出ない」。三年間慣れていた。


ただ木剣を振り続けた。


下手でも、できることをやる。


生きるために最低限の体力をつける。それだけでいい。


その日の訓練の後半に、黒崎が中庭に来た。


誰かが「勇者様だ」と言い、訓練していた見習いたちが一斉に動きを止めた。


黒崎は騎士団長のガドを連れていた。六十代の白髭の老将で、この国の武力を束ねる人物だ。


黒崎は中庭を見渡して、俺に目を止めた。


「まだやってんのか、田中」


俺は木剣を下げた。


「訓練中です」


「見てりゃ分かる。どんだけ下手くそなんだ」


黒崎は笑った。悪意のある笑い方ではなかった。ただ、自分より遥かに格下の存在を眺めているときの、無関心に近い笑いだった。


「ガド、こいつって強くなれそうか」


騎士団長のガドが俺を見た。品定めするような目だった。


「……率直に申し上げますと、難しいかと。魔力値が低すぎます。身体強化の魔法も使えないとなると、素の体力と技術だけが頼りです。素質はあるかもしれませんが、時間がかかる」


「まあそうだよな」と黒崎が言った。「無理に強くさせるつもりもないから、死なない程度でいいよ。そこら辺のゴブリンに殺されたら笑えないし」


俺は黒崎の顔を見た。


黒崎はもうこちらを見ていなかった。ガドと話しながら別の方向を歩き始めていた。


死なない程度。


笑えない。


荷物持ちとして使う人間の話をしているとき、黒崎の目には何もなかった。


感情がなかった。


物を管理するときの目だった。


俺は木剣を握り直した。


何も感じていなかった。本当に何も感じていなかった。


ただ、どこかに何かが引っかかった気がした。


それが何かは、分からなかった。


昼食は使用人の食堂で食べた。


城の使用人たちは俺に特別な感情を持っていなかった。勇者の従者という肩書きだが、実態が雑用係だと分かってからは、同等の扱いをしてくれるようになった。悪い意味ではなく、普通にしてくれる。


隣に座ったのは、厨房で働く中年の男だった。名前はマシューという。


「今日も訓練でしたかい」


「はい」


「大変そうだったな。中庭、見えてたよ」


「そうですか」


「でも毎日来てるじゃないですか。それは立派なもんですよ」


俺はスープを飲んだ。


「別に、やることがないので」


「ははは。正直だ」


マシューは自分のパンをちぎりながら言った。


「勇者様は今日も昼から宴だそうですよ。国王陛下と貴族方を呼んで。毎日ですよ、毎日。あんなに体が続くもんですかね」


「体力強化の魔法があるんで」


「ああ、そういうもんか。……田中さんは宴には出ないんですか」


「呼ばれてないので」


「そうか」


マシューは特に気にした様子もなく、パンを食べた。


俺も食べた。


うまくはなかったが、食べられるだけよかった。


午後、黒崎の宴席の準備の一端を手伝わされた。


食器の運搬だ。重い銀の食器を何度も往復して、大広間のテーブルに並べる。


大広間に入ったとき、すでに何人かの貴族が来ていた。


黒崎は上座に座っていた。赤い外套を纏い、足を組んで、葡萄酒の杯を持っていた。その周囲を貴族たちが囲んでいる。


「勇者様、先日の魔獣討伐はお見事でした」


「感謝します、勇者様の御陰でこの地方の被害が格段に減りました」


「勇者様のご武勇は国中に伝わっております」


黒崎は満足そうに聞いていた。時折うなずき、時折短く答えた。その姿には確かに、覇気というものがあった。


こういう場所での黒崎は、会社でよく見た黒崎とは少し違った。


部下を怒鳴りつける上司ではなく、場の中心に立つことを生まれながらに知っているような男。スキル【カリスマ】のせいかもしれないが、それだけではない気がした。


黒崎豪という人間は、こういう場所に来るべき人間だったのかもしれない。


俺はそんなことを考えながら、食器を並べた。


そのとき黒崎が俺を見た。


「おい」


「はい」


「その食器、銀製だよな。磨いてあるか」


俺は手に持っていた皿を確認した。磨いてあった。輝いている。


「磨いてあります」


「俺から見たら曇ってる。やり直せ」


周囲の貴族が静かになった。


俺は皿を見た。どこから見ても磨けている。曇っていない。


「……分かりました」


俺は皿を持って大広間を出た。


廊下に出ると、後ろで笑い声が起きた。黒崎ではなく、貴族たちの笑いだった。


俺は布でもう一度皿を磨きながら、何かを考えていた。


何を考えているのかは分からなかった。


ただ、手が少し力を込めて布を動かしていた。


夕方、図書室に寄った。


あの男——名前も知らない、史官らしき男——はいなかった。


俺は棚を漁りながら、今日読む本を選んだ。


「北方山脈の地形と採取可能植物」という薄い冊子を見つけて、手に取った。


城からの外での活動に関連する記録が最近増えてきた。来週から黒崎が本格的な外部活動を始めるという話を聞いていたからかもしれない。俺も同行する可能性がある。


冊子を開いた。


北方山脈には五十種以上の薬草が自生している。解毒効果を持つルーファ草、止血作用のあるクラスベリン、体力を回復させるエルム根。採取の目印となる葉の形と、生息する高度帯が記されていた。


俺は読みながら、頭に入れた。


以前読んだ「薬草と毒草の見分け方」と照らし合わせながら、北方に多い種類を整理した。


なぜこれを覚えようとしているのか、自分でも説明できなかった。


ただ、読んでいると心が落ち着いた。


何かを知ることが、この城で俺にできる唯一の積み重ねだった。


夜になると、黒崎から呼ばれることがある。


この日もそうだった。


使用人の一人が地下まで来て「勇者様がお呼びです」と言った。


俺は本を閉じて立ち上がった。


西棟の主賓室に行くと、黒崎は机に向かって何かを広げていた。地図だった。


「田中、これ見ろ」


黒崎が地図を指差した。俺は近づいて見た。城の北東、山脈に向かう街道が描かれていた。


「来週、ここらへんに出る。魔王軍の偵察隊が出てるって話で、俺が直接潰しに行く」


「……はい」


「お前も来い」


俺は地図を見た。


「俺がですか」


「荷物持ちが必要だろ。それとも嫌か」


「いえ」


「なら決まりだ。ヴェルも連れていく。三人で十分だ。どうせ俺が全部終わらせるから」


黒崎はそう言ってから、また地図に目を落とした。


「明後日の朝に出る。城を三日空けることになる。準備しとけ。食料と水の手配は俺がやるから、お前はお前の荷物だけ用意しろ。あと俺の荷物も」


「分かりました」


「以上だ。帰れ」


俺は一礼して部屋を出た。


廊下に出ると、窓の外から夜風が入ってきた。


北東の山脈方面。魔王軍の偵察隊。


初めての外での任務だ。


怖いかどうか、考えた。


怖くなかった。


怖いと感じる前に、「まあいい、死なない程度にやる」という考えが先に来た。


それが当たり前だと思っていた。


まだ、そう思っていた。


その夜、眠れなかった。


珍しかった。いつもはベッドに横になった五分後には落ちる。


天井を見た。


今日一日のことを頭の中で辿った。


訓練で笑われた。皿を「曇っている」と言われた。「死なない程度でいい」と言われた。


どれも、不当だと思う理由はあった。


でも、怒りという感情は湧かなかった。


代わりに何かがあった。感情と呼ぶには薄すぎる、ぼんやりとした何かだ。


何だろう、と考えた。


分からなかった。


ただ、心のどこかが少しずつ、ほんの少しずつ、変わっている気がした。


それが良い変化なのか悪い変化なのか、まだ判断できなかった。


左目が、微かに熱を持った。


魔眼は今日何回か使った。廊下でぶつかりそうになったとき。訓練で木剣が顔に来る前に。


毎回、数秒後の映像が見える。


それを見るたびに、左目がじんとする。充血が続いている。


城の医者に診せようとは思わなかった。「ハズレスキルの代償です」と言われるだけだ。何も変わらない。


植物を成長させた人間が、目から血を流した。


あの史官の言葉が頭にあった。


今の俺にはできないことだ。数秒先が見えるだけの、小さな予知しかない。


でも、いつかそれが変わることはあるのだろうか。


神の眼。


そんな言葉が頭にあった。どこかで読んだのかもしれない。あるいは、何かが属性として俺の中にある言葉なのかもしれない。


分からなかった。


眠れないまま、時間が過ぎた。


やがて、疲れが勝って目が閉じた。


翌朝、ヴェルから任務の詳細を聞いた。


ヴェルは廊下で俺を捕まえて、淡々と説明した。


「明後日の夜明け前に城の北門に集合。装備は軽装で。三日分の食料と水。医療用の薬草を少量。それだけだ」


「分かりました」


「田中、一つ聞いていいか」


「はい」


「剣は使えるか」


俺はしばらく考えた。


「……使えない、と思います」


「正直だな」


ヴェルは少し目を細めた。その目に悪意はなかった。ただ、現実を見ている目だった。


「外に出たら、俺が言った通りに動け。勝手なことをするな。黒崎様がいれば問題ないだろうが、もしはぐれたときのために言っておく」


「はぐれる可能性があるんですか」


「ない、と言えない。山道は見通しが悪い。足場も悪い。俺が言える限りの注意をする。だがお前は俺の目が届かない場所にいることもある」


ヴェルは俺の目を見た。


「何があっても、まず生きることを考えろ。死んだら終わりだ。格好をつける必要はない」


「……分かりました」


ヴェルはうなずいて歩き去った。


俺はその背中を少し見てから、自分の部屋への廊下を歩いた。


明後日、城を出る。


初めての外。


生きることを考えろ、とヴェルは言った。


俺にとって、それは当たり前のことだった。


生きてれば、いい。


それが今の俺の全てだった。


まだ、そうだった。



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