第二話 勇者と雑用係
朝五時に起きる。
目覚ましはない。体が勝手に起きる。
会社員時代の癖だ。毎朝六時半には出社しろという黒崎のルールのせいで、俺の体内時計は狂いなく刻まれていた。異世界に来ても、それは変わらなかった。
薄暗い地下の部屋で、俺は硬いベッドから身を起こす。
カビの匂いがする。湿っぽい石壁。天井近くに小窓が一つあって、そこから朝の薄い光が差し込んでいた。地上より一段低い場所にあるせいで、外からは足元しか見えない。
ここが俺の部屋だ。
三日経てば慣れた。
床に置いた水差しで顔を洗い、支給されたくたびれた麻の服に着替える。会社のスーツより動きやすいのは助かった。
さて、今日も始まる。
城での俺の仕事は、黒崎の「従者兼雑用」という肩書きで整理されていた。
実態は何でも屋だ。
朝は黒崎の部屋の前に荷物を運ぶ。訓練に出る黒崎の装備の手入れを補佐する。食堂の後片付け。廊下の清掃。薪割り。水汲み。夜は黒崎が呼べばすぐ動けるよう待機する。
仕事の内容は、会社のときと大して変わらなかった。
ただ一つ違うのは、黒崎がここでは「絶対的な存在」になっていることだ。
会社でも充分に横暴な人間だったが、この世界では輪をかけて酷い。
三日目の朝、俺は黒崎の部屋の扉の前で待っていた。
扉が開いた。
黒崎が出てきた。絹のガウンを纏い、髪はまだ整えていない。顔つきは上機嫌だった。
「おう、田中。今日の朝飯、昨日より品数増やしとけよ」
「……俺が増やせる権限は」
「知らね。なんとかしろ」
そう言って黒崎は廊下を歩き出した。
俺は一瞬だけ目を閉じて、厨房に向かった。
なんとかできるわけがない。厨房の責任者に伝えれば「勇者様のご要望なら」と対応してくれるかもしれないが、それは俺の手柄ではなく黒崎の地位のおかげだ。
それでもやる。それが俺の仕事だから。
生きてれば、いい。
まだその考えで動いていた。
黒崎の城内での立場は、三日でほぼ完成していた。
国王は毎日のように黒崎を夕食に招く。騎士団長が直々に訓練に付き合う。貴族の子弟たちが黒崎の周囲に集まり、笑顔で話しかける。城の侍女たちは黒崎が通るたびに頭を下げる。
黒崎の一声で何かが動く。
黒崎の気分が悪ければ誰かが謝る。
黒崎の機嫌がいいければ宴が開かれる。
完全な王国だった。ここでは黒崎が全てだった。
そして俺は、その王国の一番端っこにいる、名前のない歯車だった。
四日目の昼過ぎ、俺は初めて城の北棟に足を踏み入れた。
掃除の担当区域が広げられたのだ。北棟の廊下と、その先にある部屋をいくつか。
廊下を歩きながら扉の表示を確認した。「訓練記録室」「兵器保管補助室」「資料室」——そして一番奥に「図書室」とあった。
図書室。
俺は少しだけ足を止めた。
扉を開けると、埃の匂いと古い紙の匂いが混ざった空気が流れ出してきた。
中は薄暗く、天井まで届く本棚が何列も並んでいた。羊皮紙の巻物、分厚い革装丁の本、薄い冊子。様々な形の記録物が詰め込まれていた。
窓から午後の光が斜めに差し込んでいた。
誰もいなかった。
俺は掃除道具を持ったまま、一番近い棚を見た。
背表紙に「ラエルダ王国史 第一巻」とある。その隣に「魔獣図鑑 北方篇」「薬草と毒草の見分け方」「大陸地図集」。
手が動いた。
掃除より先に、「薬草と毒草の見分け方」を取り出していた。
その日から、図書室が俺の場所になった。
正確には、掃除のついでに立ち寄る場所だ。仕事をさぼっているわけではない。担当の清掃を終わらせてから、残った時間に棚を漁る。
この城には娯楽がなかった。
黒崎のような立場の人間には宴席も訓練も用意されているが、俺には何もない。仕事が終われば地下の部屋に戻るだけだ。
本を読むことだけが、俺に残された時間の使い方だった。
最初に読んだのはこの国の地理書だった。
ラエルダ王国は大陸の西側に位置し、南に砂漠、北に山脈、東に広大な草原を持つ中規模の国家らしい。人口は三十万ほど。魔王軍の侵攻は主に北と東から来ており、国境付近には定期的に魔獣が出没する。
次に魔獣図鑑を読んだ。
ゴブリン、オーク、ウルフ系の魔獣。それから中型の飛行魔獣。北の山岳地帯には大型の石系魔獣が生息しているらしい。それぞれの弱点と戦闘時の注意点が記されていた。
それから薬草の本。
ラエルダの植物相は日本と似て非なるものだった。薬効を持つ植物が多く、解毒・止血・体力回復など用途ごとに分類されていた。
俺は読みながら、頭に叩き込んだ。
役に立つかどうかわからないが、知っていた方がいいと思った。
なぜかは分からなかった。ただ、何かに備えているような、そんな感覚があった。
図書室に通い始めて四日目、初めて他の人間と鉢合わせた。
五十代くらいの男だった。くたびれた灰色のローブを着て、羊皮紙に何かを書き込んでいた。
俺が入ると、男は顔を上げた。
「掃除の者か」
「はい」
「邪魔はしない。好きにやれ」
男は羊皮紙に目を戻した。
俺は棚の埃を払いながら、男が何を書いているのか少し気になったが、聞かなかった。
しばらくして男が言った。
「お前、毎日来ているな」
「掃除の担当なので」
「掃除だけではないだろう。本も読んでいる」
俺は手を止めた。
「……見てたんですか」
「目に入った。何を読んでいる」
「地理書と、魔獣図鑑と、薬草の本です」
男が少し目を細めた。
「使用人が読む本ではないな」
「面白いので」
「ほう」
男はそれだけ言って、また羊皮紙を向いた。
俺も掃除を再開した。
男の名前を聞かなかった。男も俺の名前を聞かなかった。
それだけの関係だった。
翌日また図書室に行くと、男がいた。
前日と同じ席に座って、同じように書き物をしていた。
俺が棚を漁っていると、男が声をかけた。
「お前、スキルは何だ」
急な質問だった。
「……魔眼です」
「ハジスキルか」
断言するように言った。
「そうです」
「確か予知系だったな。数秒先が見える程度の、ほぼ役に立たんやつ」
「はい、ほぼ」
男は羊皮紙を一枚めくった。
「昔、この図書室で似たような記録を見た。百年以上前の話だが、魔眼を持つ召喚者がいたらしい」
「へえ」
「一時期、植物の成長を早める使い方ができたという記録があった」
俺は手を止めた。
「成長を、早める?」
「らしい。だが」
男は少し間を置いた。
「その記録には続きがある。使うたびに目から血が出た。激しい充血と痛みを伴った。何度も使ったら、しばらく見えなくなった者もいたと」
「……」
「結論としてはハズレスキルのままだ。植物を早く育てる程度の力では何の役にも立たんし、そのコストが目を潰すリスクなら割に合わない。記録もそう締められていた」
男は羊皮紙を戻した。
「まあ、参考程度に覚えておけ」
それだけ言って、男はまた書き物に戻った。
俺はしばらく棚を眺めたまま、考えていた。
植物の成長を早める。
目から血が出る。
充血と痛み。
俺の左目は、すでに毎日充血していた。見ようとすると奥がじんとする。魔眼を使うたびに、微かな熱が走る。
これは、そういうことなのか。
でも、今の俺には関係ない。
数秒先が見える程度の予知で、植物を成長させる段階には全くない。
俺はまた棚に手を伸ばして、今度は「大陸北部の地形と気候」という題の薄い本を引き抜いた。
一週間が経った。
城の仕事には慣れた。体が動くようになってきた。
黒崎の「王国」も安定していた。
ある昼、食堂の後片付けをしていた俺に、黒崎が声をかけた。
「田中、来週から訓練に参加しろ」
「……俺も、ですか」
「勇者の従者が使えないと格好がつかないからな。基礎だけ叩き込んでもらえ」
黒崎は椅子に背をもたれて、俺を見た。
「別に強くなれとは言ってない。荷物持ちが死んだら困るから、最低限の自衛ができる程度でいい」
「分かりました」
「期待はしてないけどな」
黒崎は笑って、ワインを飲んだ。
俺は後片付けを続けながら、何も感じていなかった。
期待されていない。当然だ。
魔力値は一般人以下。スキルはほぼ役立たず。戦闘の訓練をしたところで、黒崎の足元にも及ばない。
ただの荷物持ちが、最低限の自衛を身につける。それだけの話だ。
まあ、いい。
生きてれば。
その夜、図書室に寄った。
男はいなかった。
俺は一人で棚を眺め、「魔眼に関する諸記録 断片集」というタイトルの薄い冊子を見つけた。
手に取って、ぱらぱらとめくった。
ほとんどが断片的な記述だった。二行、三行の短い記録が集められている。
「魔眼保持者、夜に視力を失うと申告。翌日回復」
「魔眼の者、演習中に倒れる。左眼より出血。二日後に自然回復」
「魔眼スキル、実用性なし。評価:D」
「魔眼保持者の末路については記録なし。本人が消息不明のため」
最後の一行を、俺は少し長く見ていた。
消息不明。
どこへ行ったんだろう、とぼんやり思った。
それが俺と同じ召喚者だったのか、この世界の生まれの人間だったのか、書かれていなかった。
俺は冊子を棚に戻した。
窓の外は暗かった。
城のどこかから笑い声が聞こえた。黒崎の声に似ていた。宴席でもやっているのかもしれない。
俺は地下の部屋に戻った。
硬いベッドに横になって、天井を見た。
左目が少し熱い。
今日も魔眼を使った。廊下の角で誰かとぶつかりそうになった瞬間、数秒先が見えて回避した。それだけのことだ。
植物を成長させる。
血が出る。
充血と痛み。
それが俺の行き先なのかどうか、今はまだ分からない。
ただ、頭に入れておこうと思った。
この世界で生き延びるために、使えることは全部使う。
それだけは、確かだった。
生きてれば、いい。
まだそう思っていた。
まだ。




