第17話「血の涙」
廃砦での最初の一週間が終わった頃、蓮は自分の限界がどこにあるかを理解した。
魔眼を使い続けると、左目が限界を超える。視界が滲む。熱を持つ。そして——使いすぎた夜は、数時間、何も見えなくなった。
暗闇の中で、蓮は動けなかった。
ガレスが黙って隣に座っていた。リリアが癒し魔法で目に触れていた。何も言わなかった。ただ、そこにいた。
二週間目、蓮は地下の奥まで降りた。
前回倒した個体より大きい魔物がいた。六本腕で、天井まで届く高さがあった。
蓮は魔眼を使った。
左目が燃えるように熱くなった。敵の動きが見えた。六本の腕が別々の軌道で来る——その全部が見えた。
だが体が追いつかなかった。
二本をかわした。三本目が腹に当たった。吹き飛んだ。壁に背中をぶつけた。息が詰まった。
それでも魔眼を使い続けた。
視界の端に、赤いものが垂れてきた。
左目から、血だった。
「蓮」
ガレスの声が聞こえた。
気がついたら、広間まで運ばれていた。ガレスが蓮の体を抱えていた。リリアが左目に手を当てていた。
「目から血が出てた」リリアの声は静かだったが、手が少し震えていた。「癒し魔法をかける。動かないで」
温かい光が左目に触れた。痛みが引いた。
蓮は天井を見たまま言った。
「まだ動ける」
「動けない」とガレスが言った。「今夜は終わりだ」
「もう一回——」
「終わりだと言った」
ガレスの声に、いつもと違う何かがあった。静かだったが、動かなかった。
蓮は何も言えなかった。
三週間目、蓮は焚き火の前で魔眼を使った。
炎を見た。時間の流れに触れようとした。
炎が——消えた。
音もなく、突然、消えた。
蓮はしばらく暗くなった焚き火を見ていた。
「……消えた」
ガレスが言った。「お前が消したのか」
「そのつもりではなかったが」
「消せたのか消してしまったのかどっちだ」
蓮はもう一度焚き火に魔眼を向けた。今度は意識して——消す方向に。
炎が消えた。
「消せた」
ガレスが少しの間だけ黙った。
「……役に立つな」
「まだ制御しきれていない」
「それでも消えた。十分だ」
一ヶ月が経った。
蓮の魔眼はレベルが上がっていた。自分でも分かった。
先読みの時間は変わらなかった。三十秒。それ以上は見えない。上限は動かなかった。
だが見える中身が、以前とは全く違った。
以前はぼんやりとした輪郭だったものが、今はクリアに見えた。敵の動きだけではなかった。自分の体の動かし方まで見えた。この一歩で回避できる。この角度で剣を入れれば当たる。三十秒の中に、最適な自分が見えていた。
代償も大きくなった。
使いすぎると、目が見えなくなる時間が長くなった。数時間から、半日になることがあった。気が遠くなることもあった。地下の奥で意識を失いかけた夜が、三度あった。
三度とも、ガレスが運んだ。
ある夜、蓮は焚き火の前でリリアに聞いた。
「癒し魔法で目を治せるか」
「完全には無理」リリアは蓮の目を見ながら言った。「魔眼そのものを癒すことはできない。痛みを和らげて、回復を早めることはできる。でも——」
「でも」
「使い続ければ、いつか取り返しのつかないことになるかもしれない」
蓮は炎を見た。
「分かった」
「分かった、じゃなくて——」
「分かった上で続ける、という意味だ」
リリアは少しの間、蓮の横顔を見ていた。
「なんでそこまでできるの」
蓮は少し考えた。
「このまま戦えば、どうせ死ぬ。今限界を越えなければ意味がない」
「怖くないの」
「怖い。だが——」
蓮は左目を手で触れた。血の跡がまだ残っていた。
「搾取されたまま死ぬよりはましだ」
リリアは何も言わなかった。ただ、癒し魔法の光を蓮の目に当て続けた。
痛みの中で、蓮はよく前世を思い出した。
職場の廊下。黒崎の声。逃げ場のない空間。その場が過ぎればいいと思って、ただ耐えていた。
今も耐えていた。
だが違った。
前世は、耐えることが目的だった。今は、耐えることが手段だった。
痛みの向こうに、何かがある。それだけが分かっていた。
二ヶ月目に入った頃、敵の動きをスローにできるようになった。
地下の魔物が突進してきた。蓮は魔眼を使った。魔物の動きが遅くなった——本当に遅くなった。蓮は横に動き、剣を入れた。
初めて、自分の意図通りに事象が動いた。
その夜、ガレスが言った。
「今日は違ったな」
「スローにできた」
「どのくらい」
「体感で五分の一くらいの速さになった」
ガレスが腕を組んだ。
「それが本番で使えれば、黒崎の手下くらいなら相手にできる」
「手下くらい、か」
「黒崎本人はまだ無理だ」
「分かってる」
二ヶ月半。
ある夜、地下で蓮は追い詰められた。
複数の魔物が同時に来た。三体。先読みで動きは見えていた。だが対応が一体ずつしかできなかった。一体目を倒した瞬間、二体目が背後から来た。
間に合わなかった。
右肩に爪が入った。蓮は床に叩きつけられた。
魔眼を限界まで使った。左目が焼けるように熱くなった。視界が赤くなった。
二体目の動きをスローにした。剣を入れた。三体目が来た。
体が動かなかった。
気がついたら、広間だった。
ガレスが壁に背中をつけて座っていた。蓮を見て、短く言った。
「また運んだ」
「……何度目だ」
「四度目だ」
蓮は体を起こそうとした。右肩が痛かった。
「リリアが傷を塞いだ。動くな」
蓮は仰向けのまま天井を見た。
「足を引っ張っている」
「そうは思っていない」
「だが事実だ。俺が戦えなくなるたびにお前が——」
「蓮」
ガレスの声が遮った。
珍しく、名前を呼んだ。
「俺がここにいるのは、お前に頼まれたからじゃない。俺が来ると決めたからだ。それだけだ」
蓮は何も言えなかった。
ガレスは続けた。
「お前が戦えなくなった時に運ぶのも、俺が決めてやっていることだ。足を引っ張られているとは思っていない。俺にできることをやっているだけだ」
沈黙があった。
蓮は天井を見たまま言った。
「……なぜそこまでする」
「お前が本気だからだ」
それだけだった。
蓮はその言葉を、うまく処理できなかった。前世なら、こういう言葉を素直に受け取れなかった。社交辞令だと思って流していた。
だが今は——流せなかった。
「ありがとう」
ガレスは何も言わなかった。ただ、目を閉じた。それが答えだった。
三ヶ月が経った。
廃砦の地下には、もう蓮が倒せない魔物がいなくなっていた。
外壁の回廊、広間、地下の全域。蓮は一人で制圧できた。魔眼を使えば、どんな動きも三十秒先までクリアに見えた。自分の体の最適な動かし方が分かった。無駄な動きがなくなっていた。
事象に干渉できた。炎を消し、動きを遅らせ、飛び道具を止めた。無機物の時間を操れた。
だが、目への負担はなくなっていなかった。
レベルが上がるほど、使える力が大きくなる一方で、限界を超えた時の反動も大きくなっていた。血の涙が出ることは変わらなかった。気が遠くなる夜も変わらなかった。
それでも、三ヶ月前とは別の人間になっていた。
ある朝、ガレスが言った。
「冒険者ランクで言えば、今のお前はBランク相当だ」
「どこで計った」
「俺の目で見ればわかる。俺はAランクだった」
蓮はガレスを見た。
「だった、とは」
「今は関係ない」
ガレスはそれ以上言わなかった。蓮も聞かなかった。
「Bランクでは黒崎には届かないか」
「黒崎がどの程度かは分からない。ただ——」ガレスは廃砦の壁を見た。「勇者スキルを持つ人間が本気を出せば、Aランク相当はあると思っておいた方がいい」
「つまり、まだ足りない」
「今は、そうだ」
蓮は頷いた。
「ならまだやる」
その夜、蓮は一人で廃砦の外に出た。
星が出ていた。
魔眼を使った。星の光に触れた。光が遅くなった。瞬きが止まった。
三ヶ月前と同じことをした。だが今は違った。意図して、制御して、星の時間を操れた。
左目から血が一筋流れた。
拭わなかった。
黒崎のことを思った。前世の廊下を思った。声を思った。扉一枚の向こうにいたあの夜を思った。
体が固まった夜から、三ヶ月が経った。
まだ届かない。
だが、確実に近づいている。
蓮は星の時間を元に戻した。夜空が、また動き始めた。
翌朝、リリアが蓮の目を診た。
いつもと同じように、指先で瞼に触れた。癒し魔法の光を当てた。しばらく黙っていた。
やがて顔を上げた。
「虹色、また濃くなってる」
「そうか」
「痛みは」
「使っていない時はない」
「使っている時は」
「熱い。だが三ヶ月前より慣れた」
リリアは少しの間、蓮の目を見ていた。
「蓮さんの目、最初に見た時とは全然違う」
「変か」
「変じゃない」リリアは静かに言った。「強くなってる、って感じがする。目を見れば分かる」
蓮はリリアの言葉を受け取った。
うまく返せなかった。それでも、流さなかった。
「……ありがとう」
ガレスが廃砦の外に出てきた。空を見上げて、短く言った。
「そろそろ出るか」
蓮は廃砦を振り返った。
崩れた石壁。溶けた跡。血の染みが残っている床。気が遠くなった夜に横たわった広間。
ここで三ヶ月過ごした。
「ああ」
「次はどこへ行く」
蓮は少しの間だけ考えた。
エルヴィンからの報告はまだ来ていない。城内に大きな動きはないということだ。だがいつまでもそうではない。黒崎は動いている。あの泥の跡を見た目が、何かを考えている。
「エルヴィンに会いに行く」
「王都か」
「王都の手前まで。エルヴィンに出てきてもらう。城内の動きを聞く」
「それから」
「それから決める」
ガレスは少しの間だけ空を見た。
「わかった」
三人は廃砦を後にした。
崩れた門を抜けて、朝の光の中へ出た。
蓮は一度だけ廃砦を振り返った。
何も言わなかった。
ただ、歩き出した。




