第16話「東棟」
排水溝の蓋は重かった。
両手で鉄の縁を掴み、膝と腕で押し上げた。音は出なかった。錆の匂いが鼻の奥に入ってきた。
中は暗く、狭かった。足元の水が冷たかった。体を折り曲げて進みながら、呼吸を浅く保った。感情は後でいい。今は動くことだけを考えた。
厨房の床下への開口部は古い板切れで塞がれていた。外すと微かな熱気が降りてきた。残り火。一つの鍋。人影はない。
音もなく床に降り立った。
厨房の右奥の扉をゆっくり引いた。
隙間から夜の空気が入ってきた。
渡り廊下。篝火が両端に灯っている。西側に一人、東棟の入口近くに一人。
深夜の鐘が一つ鳴った。
足音が重なり——消えた。
蓮は廊下に踏み出した。歩幅を大きく、音を殺して進んだ。百五十歩。東棟の扉の前に立った。
南京錠はなかった。金具の周囲に新しい傷がある。最近まで施錠されていた跡だ。
扉を開けた。
三階。廊下の奥から二番目。
扉の下に細い光の線があった。
三度、指の関節で軽く叩いた。
間があった。確かめる間があった。
扉が開いた。
ベルダは蓮の想像より老いていた。
白髪交じりの髪は後ろで束ねられ、顔の皺は深く、だが目だけが鋭かった。燭台の光の中で、その目が蓮を上から下まで見た。
一秒。二秒。
「……生きていたか」
感情のない声だった。驚きでも安堵でもなく、確認だった。
「生きていました」
「入れ」
部屋は狭かった。寝台と文机と壁に一本の蝋燭。窓には厚い布が張られていた。
ベルダは文机の前に座り、蓮を立たせたまま言った。
「黒崎の付き人をしていた男だな。名前は」
「蓮です」
「谷に落とされたと聞いた」
「落とされました。黒崎に」
ベルダは少しの間、蓮の目を見た。値踏みするような目だった。
「それで——何をしに来た」
蓮は短く話した。
王都に入って見たこと。黒崎の紋章が第二壁に掲げられていること。式典の準備が進んでいること。
「黒崎が何を目指しているのか。城の中がどうなっているのか。それを知りたい」
ベルダはしばらく黙っていた。
文机の木目を見ながら、何かを測るように沈黙していた。
やがて口を開いた。
「城の中は今、二つに割れている」
ベルダが話し始めた。
黒崎が城に入って数ヶ月。それだけの時間で、城の主要なポストはほぼ黒崎の人間で固められた。近衛隊長の交代。財務管理の掌握。城門の管理権限の移譲。いずれも王の名義で行われたが、実質は黒崎の指示だった。
驚くほど速かった。
勇者としての力だけではなく、人を引きつける何かを黒崎は持っていた。気がつけば周囲が従っていた、とベルダは言った。
「あれはカリスマというより——人の欲を見抜く力だ。相手が何を望んでいるかを即座に読んで、それを与える。だから誰もが自分から従った」
蓮には分かった。前世でも同じだった。黒崎は誰が何を欲しがっているかを本能的に読んでいた。そしてそれを利用した。この世界でも、やり方は変わっていなかった。
「王は今も玉座にいる。だが署名しか残っていない」
「署名だけ、とは」
「王が何かを決める前に、黒崎がすでに決めている。王はそれを追認するだけだ」
蓮は黙って聞いた。
「残りの半分——旧王派と呼ばれる連中がいる。貴族の一部と、騎士団の残党だ。表向きは黒崎に従っているが、水面下では別の動きをしている」
「その中に、動ける人間はいるか」
ベルダの目が細くなった。
「一人いる」
「クラウスという男だ」
「騎士団の副団長だった。今も団長代理として残っている。黒崎が騎士団を完全に掌握できていない理由の一つが、あの男だ」
「なぜ黒崎はクラウスを排除しない」
「騎士団の人間がクラウスに従っているからだ。クラウスを消せば、騎士団が黒崎に刃を向ける可能性がある。黒崎もそれは分かっている」
「クラウスは今、動けるか」
「動けない。黒崎の目が光っている間は。ただ——」
ベルダは一度言葉を切った。
「きっかけさえあれば、動く男だ。外から誰かが動いた時、あるいは黒崎が王に手をかけようとした時。その瞬間を待っている」
「もう一人いる」
蓮が黙って待つと、ベルダは続けた。
「マリアという侍女だ。王の側付きを長年務めている。今も王の傍にいる」
「王に直接会える立場か」
「唯一、王と話せる人間だ。黒崎もマリアを排除できないでいる」
「なぜ」
「王がマリアを離そうとしないからだ。王が今、自分の意志を示せる場面がそこだけ残っている」
ベルダの声がわずかに低くなった。
「黒崎もそこには踏み込めていない。踏み込めば、王が署名を拒否するかもしれない。それだけは避けたいんだろう」
王にはまだ、わずかな抵抗が残っている。
蓮はその事実を頭の中に置いた。
「あなたは動けるか」
ベルダは少しの間、文机を見た。
「直接は動けない。この部屋から出ることも今は難しい」
蓮は次を待った。
「だが——クラウスとマリアへの繋ぎは持っている。信用できる使用人が一人いる。その人間を通じて言葉を届けることができる」
「それで十分だ」
ベルダが初めて、わずかに表情を動かした。
蓮が次の言葉を言おうとした——その時だった。
ベルダの視線が窓に向いた。
動作は小さかった。ほんの一瞬だった。だが蓮には分かった。
「来るのか」
「廊下の奥から、こちらに向かっている」
蓮は音もなく寝台と壁の隙間に体を入れた。息を止めた。
足音が近づいてきた。
一歩ずつ、重心の低い歩き方だった。急いでいない。確かめながら歩いている。
扉の前で止まった。
「ベルダ」
血の気が引いた。
前世から数えれば、何年も聞かされ続けた声だった。職場で、廊下で、逃げ場のない場所でいつもあの声が来た。
体が先に固まった。頭より先に、全身が動かなくなった。
「まだ起きているか」
ベルダが静かに答えた。
「眠れない夜は多い。歳のせいだ」
「そうか」
足音が遠ざかった。
三十秒待った。五十秒待った。
ベルダが蓮を見た。何かを確かめ終えた目だった。
「一つだけ教えてやる」
声が低くなった。
「お前が谷から戻ってきたなら——王はまだ生きている。黒崎は王を排除していない。その意味を、考えておけ」
蓮は黙って聞いた。
「早く行け」
「わかりました」
「生き延びろ」
ベルダの声は、すでに蓮の背中に向けられていた。
渡り廊下を戻り、厨房を抜け、排水溝をくぐった。
外の空気が顔に当たった。
手が震えていた。
黒崎の声だった。扉一枚の向こうにいた。体が固まった。頭で分かっていたことを、体で知った夜だった。
今の自分では話にならない。
クラウスもマリアも、外から誰かが動かなければ動けない。ベルダも直接は動けない。そして今の蓮には、動かす力がない。
城壁を一度だけ見上げた。高く、暗く、何も変わらずそこにある。
今夜分かったことは三つだった。
城内には動ける人間がいる。だがきっかけが必要だ。そのきっかけを作れるだけの力が、今の自分にはない。
歩き出した。
宿に戻ったのは夜が最も深い時間だった。
三人が起きていた。ガレスが短く言った。
「どうだった」
蓮は立ったまま話した。
城内が二つに割れていること。クラウスという騎士団副団長がいること。マリアという侍女が王の傍にいること。ベルダが繋ぎを持っていること。王がまだ生きていること。
話し終えて、最後に言った。
「王都を離れる」
ガレスが顔を上げた。
「今夜、黒崎の声を扉の向こうで聞いた。体が動かなかった。それが答えだ」
沈黙があった。
エルヴィンが口を開いた。
「私は残ります。ベルダへの繋ぎと、城内の動きを見ておく。クラウスとマリアの動きも追えるか試みます」
「頼む。黒崎が動いたら即報せ」
「わかりました」
ガレスが立ち上がった。
「俺とリリアはお前と行く」
それだけだった。
◆
夜が最も深い時間、東棟の三階廊下に足音があった。
黒崎は奥から二番目の扉の前で立ち止まった。
先ほど一度声をかけた扉だった。返答はあった。異常はなかった。それでも、黒崎は再び足を止めていた。
扉を開けた。
ベルダが文机の前に座っていた。こちらを向いた目に、驚きはなかった。
「何か用か」
「いや」
黒崎は部屋に入った。一歩。二歩。
部屋を見回した。
燭台。文机。寝台。壁。
視線が一瞬、寝台と壁の間で止まった。
床に、微かな泥の跡があった。
ほんの少し。雨上がりの土に似た色が、板張りの床に残っていた。
黒崎は何も言わなかった。
寝台に近づき、泥の跡を一秒だけ見た。それからベルダに目を向けた。ベルダは表情を変えなかった。
「眠れなければ薬師を呼ぼう」
「必要ない」
「そうか」
黒崎は踵を返した。扉を閉める前に、一度だけ室内に視線を戻した。
泥の跡。燭台の火。ベルダの背中。
扉が閉まった。廊下に足音が遠ざかっていった。
翌朝、四人で宿を出た。
路地の前でエルヴィンと別れた。エルヴィンはいつもの軽い笑みを浮かべていたが、目は笑っていなかった。
「生きて戻ってきてください」
「ああ」
蓮は短く答えて歩き出した。
城壁を背にして、王都の大通りを歩いた。一度も振り返らなかった。
振り返る必要はない。城はそこにある。黒崎もそこにいる。
戻る時は、もっと強くなってから。
ガレスとリリアの足音が隣と後ろで重なった。蓮は前を見たまま、歩いた。




