第14話「王都への道」
ガルダ市の東門を出たのは夜明け前だった。
石畳の街道に朝霧が這い、荷馬車が一台、逆方向へのろのろと消えていく。蓮は無言で歩いた。ガレスが隣に並び、リリアとエルヴィンがやや後ろを歩く。
「王都まで、このまま行けば五日か」
ガレスが地図を折りたたみながら言った。
「天候次第で六日」エルヴィンが補足する。「西からの風が強くなりそうです。山越えの手前で一泊増えるかもしれない」
蓮は答えなかった。ただ、前を見て歩いた。
王都。
約一ヶ月前まで、俺はあそこにいた。
城の構造は頭に入っている。
三重壁、内堀、正門と搬入門と隠し通路が二本。近衛騎士の詰め所は第二壁の南と北。警備の交代は夜明けと正午と日没の三回。食料搬入は早朝の第一陣と昼の第二陣。
それが、俺の知っている城だ。
谷へ落ちてから一ヶ月——城の中で何があったかは分からない。
だが、そう大きくは変わっていないはずだ。
黒崎が多少動いたとしても、城の構造は変わらない。壁は動かない。道も変わらない。入り方さえ考えれば、何とかなる。
そう思っていた。
三日目の昼前、街道沿いの宿場町エルタに差し掛かった。
小さな集落だが、王都と北東部を結ぶ交差点にあたるため、旅人と商人が絶えない。宿は二軒、食堂は三軒、小屋掛けの露店が街道沿いに並んでいた。
「少し休みましょう」リリアが言った。「左目の具合はどうですか」
「問題ない」
「問題ないは嘘です。昨日から光の加減で眉が寄ってる」
蓮は答えなかった。それが肯定だとリリアは分かっていた。
食堂に入り、四人はスープと黒パンを頼んだ。
隣のテーブルに、旅商人らしき男が一人で座っていた。
年は四十前後。こめかみに白が混じり、旅塵で外套が灰色になっている。疲れた目をしていたが、耳は動いていた——周囲の会話を拾っている目だ。
「王都から来たんですか」
エルヴィンが自然な口調で声をかけた。旅の流儀として、情報交換は不自然ではない。
男は少し目を細めてから、頷いた。
「カルスという。薬の行商だ。王都を昨日の昼に出た」
「最近の王都はどうですか。変わったこととか、何かありましたか」
エルヴィンの問いは軽かった。旅人同士の世間話、そのくらいのトーンだった。
蓮はスープを飲みながら、半分だけ耳を向けた。
大して変わっていないだろう、と思いながら。
「……変わった、なんてもんじゃないですよ」
カルスは声を落とした。
「勇者様が来てから、ここ一ヶ月で別の城みたいになりました。書類が要るようになって、門番の数が倍近くになって——以前は顔パスで通れたのに、今は紋章入りの書式がないと搬入口にも入れない」
蓮の手が、わずかに止まった。
「……近衛は今、何人いますか」
カルスが蓮を見た。
「あんた、城に出入りしたことあるのか」
「昔、少しだけ」
「そうか……今は五十人は超えてると思う。俺の感覚だが、一ヶ月前は三十五人くらいだったはずだ」
五十人。
蓮はその数字を頭の中に置いた。
谷へ落ちる数日前、近衛が数人増えていた。三十人前後が、三十五人になっていた。
それが今、五十人を超えている。
一ヶ月で、十五人以上増えた。
——大して変わっていない、と思っていた。
甘かった。
黒崎ならやりかねない、とは頭のどこかで分かっていた。
だが「まさかここまで」という感覚が、まだ自分の中にあったことに、蓮はこの瞬間気づいた。
城という場所は、そう簡単には変わらない——そういう固定観念が、どこかに残っていた。
黒崎はそれを、一ヶ月で壊した。
俺を落としてから、一日も止まらずに。
「他に変わったことは」蓮は自分で聞いた。
今度は確認のためではなく——もっと知らなければならない、という判断で。
カルスは少し驚いた顔をしてから、続けた。
「変わり始めたのは一ヶ月半くらい前かな。最初は少しだった——門番が数人増えた、その程度だ。だがここ一ヶ月で一気に変わった。書類が要るようになったのも、近衛が五十人を超えたのも、全部ここ一ヶ月の話だ」
「王の側近は」
「……宰相補佐のベルダ様が東棟に移されたという話も聞いた。長年王に仕えた方だが、今は表に出てこない。息子が騎士団に」
そこで言葉が止まった。
蓮はベルダの顔を思い出した。廊下で何度かすれ違った。無口な人物だったが、黒崎に対して目に見えて表情を固くしていた。
あの人間が、もう動けなくされている。
一ヶ月で。
蓮は東棟という言葉を頭の中で地図に置いた。
東棟。第二壁の内側、王の居室の向かい。
ベルダの執務室は西棟のはずだ。動かされた。隔離に近い形で。
「……黒崎ならやる」蓮は小さく言った。
独り言のようだった。
ガレスが横目で蓮を見たが、何も聞かなかった。
食事を終え、四人は外に出た。
街道の脇、荷馬車が一台止まっている。馬が草を食んでいる。
「整理します」エルヴィンが手帳を開いた。「カルスの話をまとめると——変化が始まったのは一ヶ月半前、加速したのはここ一ヶ月。近衛が三十五人から五十人超に増員、書類手続きの厳格化、ベルダ様が東棟に異動・行動制限の可能性あり」
「変えたのは黒崎だな」ガレスが腕を組んだ。「城の人間を入れ替えて、自分に都合のいい構造にした。典型的な手口だ」
蓮は黙って聞いていた。
「蓮はどう見る」ガレスが聞いた。
少し間があった。
「俺が城を離れてから、黒崎は動いた。一ヶ月で近衛を十五人以上増やしている。自分に忠実な人間を入れ、邪魔な人間を封じた。ベルダもその一人だろう」
「あんたがいなくなってから、動いたということか」
ガレスの言葉に、蓮はわずかに間を置いた。
「……可能性はある」
「どういう意味だ」
「俺を落とした後、黒崎は城の掌握を急いだ。邪魔になる人間を先に消してから、次を動かした。順序が合う」
ガレスは何も言わなかった。
蓮の言葉の重さを、噛み締めるように黙っていた。
「搬入口から入ることはできるか」リリアが小声で聞いた。
「以前の俺なら顔で通れた。今は書類が要る。カルスの言う勇者紋章入りの書式を偽造できるかどうかだ」
「フォルダという情報商人の名を聞いたことがあります」エルヴィンが言った。「ガルダ市で仕入れた情報では、王都の東市で商いをしている。正規の書類を扱う仲介商だと」
「正規か偽造かは分からないがな」ガレスが眉を上げた。
「どちらでも構わない」蓮は言った。「入れれば。」
その夜、宿の部屋で蓮は一人、手帳の紙に城の見取り図を書いた。
三重壁の配置。搬入口の位置。近衛詰め所の場所。東棟の位置。
数週間前まで自分が歩いた道を、手が覚えていた。
ただし——その記憶は一ヶ月前で止まっている。
一ヶ月で何がどこまで変わったか、入ってみなければ分からない。
知っている顔と知らない顔が、今の城には混在している。
俺を覚えている人間もいる。
それは——使える可能性があると同時に、危険でもある。
どちらが多いかは、入ってから判断する。
見取り図を折りたたみ、蓮は目を閉じた。
谷へ落ちてから、三十五日が過ぎた。
その間、黒崎は止まらなかった。
一日も、止まらなかった。
ならば俺も止まらない。
左目がかすかに熱を持った。
蓮はそのまま、眠りに落ちた。
翌朝、四人は再び街道を歩き始めた。
王都まであと二日。
エルヴィンが地図を持ち、ガレスが前を歩き、リリアが蓮の左側に並んだ。
「昨夜、見取り図を書いていましたね」リリアが言った。
「見たのか」
「少しだけ。……かなり細かかったです」
蓮は答えなかった。
「城にいた頃——辛かったですか」
「辛いとかじゃない」
「じゃあ、何ですか」
少し間があった。
「悔しかった」
リリアは何も言わなかった。
ただ、歩く速度を合わせた。それだけだった。
五日目の朝、靄の向こうに王都の城壁が見えた。
石造りの巨大な壁。第一壁の外郭だけで、高さは十数メートルを超える。
蓮は足を止めた。
見覚えがある。当たり前だ。何百回も見た。
だが、今は違う目で見ていた。
あの壁の中に、黒崎がいる。
一ヶ月前、俺を谷へ落としてから——一日も止まらずに動き続けた男が。
「行くぞ」
蓮は歩き出した。




