第13話「ガルダ市」
ガルダ市が見えてきたのは昼前だった。
丘の上から見下ろすと、石造りの建物が密集する街並みが広がっていた。ミレヴァとは規模が違う。城壁が街を囲み、大きな門が二つ見える。城壁の内側に市場らしき広場があり、人の往来が遠目にも分かった。
「人口五千か」ガレスが言った。「久しぶりに大きな町だな」
「冒険者ギルドがある」エルヴィンが地図を見ながら言った。「情報量が増えます。黒崎一行の動向も、ここなら詳しく分かるかもしれません」
蓮は丘の上から街を見下ろした。
大きな町は情報が集まる。しかし同時に、目立つ。黒崎の手の者がここにもいる可能性がある。
(慎重に動く)
「入る前に確認する」蓮は言った。「俺の名前は使わない。他のメンバーも本名は控えろ。ギルドの登録は別名で」
「別名?」リリアが言った。
「昨日の宿場で城の騎士に追われた。ここでも同じことが起きる可能性がある。用心するだけだ」
ガレスが頷いた。「分かった。俺はガードでいい。よく使う偽名だ」
エルヴィンは「エルでいいです」と言った。リリアは少し考えて「リアにします」と言った。
蓮は少し間を置いた。
「俺は……レンでいい。名字だけ変える。田中じゃなく、レン・クロスで登録する」
「クロス?」ガレスが笑った。「洒落てるな」
「深い意味はない」
四人は丘を下り始めた。
ガルダ市の門は東西に二つある。
東門から入ると、すぐに商業区が広がっていた。露店、商店、食堂、宿屋が密集している。人の声と荷馬車の音が交差して、辺境の村とは全く別の空気だった。
「まず宿を取る」蓮は言った。「目立たない場所で。大通りは避けろ」
ガレスが周囲を見回した。「あの路地の奥に宿屋の看板が見える。大通りから外れている」
四人は路地に入った。
「白狼亭」という名の宿屋だった。外観は地味だが、清潔感はある。蓮が交渉して一泊銅貨二枚の部屋を二部屋取った。
宿の主人は四人をちらりと見て「冒険者か」と聞いた。
「旅人だ」蓮は答えた。
主人はそれ以上聞かなかった。
荷物を部屋に置いてから、四人は手分けして動いた。
ガレスとエルヴィンは市場へ。食料の補充と地域の情報収集。
リリアは薬草店へ。薬草の在庫補充と、治癒魔法の素材購入。
蓮は一人でギルドへ向かった。
ガルダ市の冒険者ギルドは、大通りに面した二階建ての建物だった。ミレヴァのギルドとは比べものにならない規模だ。一階の広間だけで、ミレヴァのギルド全体より広い。掲示板が三面の壁を覆っている。
蓮は受付に向かった。
「登録したい」
受付の男が書類を出した。「名前、スキル、出身地を」
「レン・クロス。スキルは【魔眼 Lv3】。出身地は東部」
男が書き込む手を止めた。「……魔眼、Lv3ですか」
「そうだ」
男は少し間を置いてから書き込んだ。「登録完了です。ランクはFからのスタートになります」
「構わない」
蓮は登録証を受け取りながら、掲示板を見た。
依頼が大量に貼り出されている。魔獣討伐、護衛、荷物運搬、情報収集。金額も様々だ。
しかしそれより、蓮が見ていたのは別の掲示板だった。
情報掲示板。旅の情報、危険地域の報告、人物の目撃情報が貼り出されている板だ。
その中の一枚に、目が止まった。
小さな羊皮紙に走り書きがされていた。
「北東部の複数の村で食料と資源の強制徴収が起きている。勇者一行との関連が指摘されているが確認取れず。被害を受けた村人は王都への陳情を試みたが、勇者一行の護衛騎士により阻止された模様」
蓮はその内容を全部読んだ。
(王都への陳情を阻止した)
黒崎は情報の遮断まで始めている。村人が王都に訴えられないように、騎士を使って抑えている。それが事実なら、黒崎の計画はもっと大きな規模だ。
(王都を取るつもりだ)
確証はない。しかし辺境での物資収集、村人の陳情阻止、王の名を使った正当化。全部が一つの方向を向いている。
蓮は掲示板から離れた。
情報を持って宿に戻る必要がある。
しかし宿に向かう前に、蓮は広間の奥のテーブルで一人の男に気づいた。
五十代くらい。白髪交じりの短い髪、厚みのある肩、長剣を背負っている。目が鋭い。ただ座っているだけなのに、周囲の空気が違う。
(強い)
蓮の直感が告げた。
今まで感じたことのない種類の強さだ。ガレスとも、城の騎士たちとも違う。もっと深いところにある強さ。
男は蓮の視線に気づいたのか、顔を上げた。
目が合った。
男は何も言わなかった。ただ蓮を一度見て、また手元の杯に視線を戻した。
蓮も視線を切った。
(何者だ)
記憶に刻んだ。今は関係ない。しかし覚えた。
宿に戻ると、ガレスとエルヴィンがすでに戻っていた。
テーブルに食料と、エルヴィンが書き込んだ地図が広がっていた。
「市場で話を聞いた」ガレスが言った。「黒崎一行は四日前にこの街道を通ったらしい。王都方面に向かったと商人が言っていた」
「四日前か」蓮は言った。
「ここから王都まで早足で六日だ。今頃は王都の手前にいるかもしれない」
「王都に入る前に止めることはできないのか」エルヴィンが言った。
「今の俺たちには無理だ」蓮は言った。「力が足りない。それより情報を集める。黒崎が王都で何をしようとしているのか」
「王都への接触ルートを考えた方がいいかもしれません」エルヴィンは地図を見ながら言った。「ただし王都は城壁で囲まれています。冒険者ギルドの登録証があれば入れますが、黒崎の手の者に見つかるリスクが高い」
「時間をかける」蓮は言った。「ここで力をつけながら、情報を集める。急いで動いても死ぬだけだ」
ガレスが頷いた。
リリアが戻ってきたのはその直後だった。薬草の袋を両手に持っている。
「買い足せました」リリアは言った。「それと薬草店の店主から話を聞きました。この街に……剣の師匠がいるらしいです」
「剣の師匠?」ガレスが眉を上げた。
「元騎士団長だった人だそうです。今は引退して、この街で道場を開いているとか。腕は本物だと店主が言っていました」
蓮は少し間を置いた。
ギルドで見た男の顔が浮かんだ。
(あの男か)
翌朝、蓮は一人でギルドに向かった。
昨日と同じテーブルに、男が座っていた。今日も一人だ。
蓮は真っ直ぐ男のテーブルに近づいた。
男は蓮が近づいてくるのを見ていた。逃げもしなかった。表情も変えなかった。
「昨日から気になっていた」蓮は言った。「あなたは強い。俺に分かるのはそれだけだが、間違いない」
男はしばらく蓮を見た。
「随分と直接的だな」男は言った。声は低く、落ち着いていた。
「遠回しにする理由がない」
「俺に何の用だ」
「剣を教えてほしい」蓮は言った。「報酬は出せる。条件があるなら聞く」
男は蓮を頭から足まで見た。剣の位置、立ち方、目の動かし方。全部を見ているような目だった。
「左目に何かあるな」男は言った。
蓮は答えなかった。
「見え方が違う。左目だけ、少し色が違う」
「関係ない話だ」
「関係あるかどうかは俺が決める」男は杯を置いた。「お前の剣を見てやる。今すぐここで動いてみろ」
「ここで?」
「動き方を見るだけだ。剣は抜かなくていい。五歩歩け」
蓮は五歩歩いた。
男は黙って見ていた。
「もう一度。今度は急に止まれ」
蓮は歩いて、急に止まった。
「重心が後ろにある」男は言った。「踏み込む前に体が先に教えてしまっている。隙だ」
蓮は何も言わなかった。しかし頭に入れた。
「明日の朝、ギルドの裏の広場に来い。一時間だけ見てやる」
「名前を聞いていいか」
「ドラン」男は言った。「それだけだ」
翌朝、夜明けとともに広場に向かった。
ドランはすでにいた。長剣を地面に立てて、腕を組んで待っていた。
「昨日より早いな」ドランは言った。
「時間を守る」
「それはいい」ドランは剣を手に取った。「構えろ」
蓮は剣を抜いた。中古の片刃剣。先日市場で買ったものだ。
ドランは蓮の構えを見た。
「誰に習った」
「独学と、仲間の元騎士から少し」
「なるほど」ドランは少し間を置いた。「悪くはない。しかし根本的な問題がある」
「何だ」
「お前の剣は、全部反応だ」ドランは言った。「来たから避ける。来たから返す。全部、相手が先で俺が後だ」
「魔眼で先を読んでいる」
「それは分かっている」ドランは言った。「だから余計に問題だ。お前は目で先を読んで、体で後追いする。その二段階に、わずかな時間差がある。その時間差が、強い相手には命取りになる」
蓮は黙って聞いた。
「目と体を同時に動かせ。読んだ瞬間に体が動いている状態を作れ。それが本当の先読みだ」
「どうやって」
「体に覚えさせるしかない」ドランは剣を構えた。「かかってこい」
ドランとの稽古は、今まで経験したことのない質のものだった。
ガレスの訓練は実戦的で荒削りだった。ドランの稽古は違う。一つ一つの動きを分解して、問題を特定して、修正する。
「今の踏み込みをもう一度」
蓮が踏み込む。
「左足の角度が五度ずれている。それだけで体重の乗り方が変わる。もう一度」
十回繰り返した。
「今度は右肩が上がっている。力が入りすぎだ。剣は力で振るものじゃない。重さで振るものだ。もう一度」
二十回繰り返した。
蓮の額から汗が落ちた。これは体力の消耗ではない。集中力の消耗だ。全神経を一つの動きに集中させ続けることの消耗。
「止まれ」ドランが言った。
一時間が経っていた。
「明日も来るか」ドランは聞いた。
「来る」蓮は即答した。
ドランは短く頷いた。それだけだった。
その日の午後、ガレスとの訓練も続けた。
「ドランに習い始めたのか」ガレスが言った。「あの人は……相当だぞ。昔の話だが、王国剣術大会で三連覇した人だと市場で聞いた」
「知らなかった」
「知らずに話しかけたのか」
「強いと感じたから話しかけた。それだけだ」
ガレスは少し笑った。「まあ、お前らしい。ドランに習うなら、俺との訓練と内容が重複しないようにする。俺は実戦の動きを教える。ドランは基礎を教えてくれるだろう。両方を並行してやれ」
「ありがとう」
「それと」ガレスは少し真剣な顔になった。「左目の代償について、もっと詳しく教えてくれ。戦闘中に視覚喪失が起きたとき、俺はどう動けばいい」
蓮は少し間を置いた。
「左目が使えなくなったとき、俺は右側が弱くなる。視野の半分が狂う。そのとき俺の右側に回れ。カバーしてくれ」
「分かった」ガレスは頷いた。「サインを決めよう。右手を上げたら視覚喪失が来たという合図にしろ。俺が右側に動く」
「ありがとう」
ガレスは「礼はいい」と言って剣を構えた。「始めるぞ」
三日目の朝、ドランとの稽古で変化が起きた。
踏み込みの動作を何度も繰り返した後、ドランが「今度は俺が打つ。避けろ」と言った。
ドランが踏み込んだ。
蓮は左目を使わなかった。
体だけで反応した。
ドランの重心が前に移動する微かな感覚。足元の振動。肩の動き方。全部が一瞬で入ってきた。
蓮は左に動いた。
ドランの剣が空を切った。
一瞬の静寂があった。
「……今のは魔眼を使ったか」ドランが言った。
「使っていない」
ドランは少し間を置いた。「もう一度」
今度はドランが素早く踏み込んだ。昨日より速い。
蓮は体だけで反応した。
右に動いた。ドランの剣が左肩を掠めた。完全には避けられなかった。しかし当たらなかった。
「惜しい」ドランは言った。「しかし進んでいる」
「感覚が繋がり始めた気がする」蓮は言った。
「そうだ」ドランは剣を下げた。「目で読んで体で動く、ではなく、体全体で読んで動く。その感覚が少し出てきた。続けろ」
五日目の夜、エルヴィンが情報をまとめてきた。
「黒崎一行についてです」エルヴィンはテーブルに資料を広げた。「ギルドとの情報源から集めました」
四人が集まった。
「黒崎一行は三日前に王都に入ったとみられます。王都内での動向は不明ですが、複数の商人から情報があります。黒崎が王に謁見したという話が広まっています」
「王に謁見した」ガレスが言った。「それは……まずいな」
「はい」エルヴィンは続けた。「それだけじゃありません。黒崎が王都に入る前に通過した村の数は、判明しているだけで八つです。全ての村で食料と金品の徴収が行われています。そして……」
エルヴィンは少し間を置いた。
「王都の城門の外に、陳情のために集まった村人が十数人いたそうです。しかし城門の騎士に追い払われた。黒崎の護衛騎士が先回りして、門番に話をつけていたらしいです」
部屋が静かになった。
「つまり」蓮は言った。「黒崎は王都の内側も外側も、自分に都合のいいように動かし始めている」
「そうなります」
蓮は地図を見た。
王都まで、ここから四日の距離だ。
(黒崎が王に近づいた)
それが何を意味するのか、まだ全部は見えない。しかし黒崎が辺境での蓄積を使って、王国の中枢に食い込もうとしているのは確かだ。
(急ぐ必要があるか)
蓮は自問した。
しかし答えはすぐに出た。
(急いで死ぬのは意味がない)
今の力では、王都の中で黒崎と正面からぶつかれない。騎士団を相手にできない。もっと強くなる必要がある。
「ここに、あと一週間いる」蓮は言った。
「一週間?」ガレスが言った。
「ドランとの訓練を続ける。その間にエルヴィンはさらに情報を集めてくれ。王都の内部構造、黒崎の動きの詳細、協力できそうな人物の情報。全部だ」
エルヴィンは頷いた。「分かりました」
「リリアは」蓮は言った。「治癒魔法の練習を続けてくれ。戦闘が激しくなれば、回復の速度が命取りになる」
リリアは「はい」と言った。
ガレスは「俺は?」と言った。
「引き続き実戦訓練だ。ドランとの稽古と並行する」
「了解だ」ガレスは腕を組んだ。「一週間でどこまで変わるか、楽しみだな」
蓮は答えなかった。
しかし否定しなかった。
七日目の朝、ドランとの最後の稽古があった。
広場に出ると、ドランが長剣を持って待っていた。いつもと同じ場所、同じ姿勢。
「今日は本気で打ち合う」ドランは言った。「お前の今の実力を確認する」
「分かった」
「一つだけ聞く」ドランは蓮を見た。「何のために強くなっている」
蓮は少し間を置いた。
「超えなければならない人間がいる」
「倒すのか」
「超えるんだ。倒すのとは違う」
ドランは少し間を置いた。「その違いを分かっているなら、剣の使い方も分かっているはずだ。確認する」
ドランが構えた。
蓮も構えた。
打ち合いは十分続いた。
ドランは本気だった。蓮が今まで相手にしてきた誰より速く、誰より重かった。魔眼を使っても、体が追いつかない場面が何度もあった。
しかし蓮は止まらなかった。
左目を最初の一回だけ使った。三十秒分の情報を頭に入れた。その後は体の感覚だけで動いた。
七回打たれた。肩に、腕に、脇腹に。しかし致命的な一撃は受けなかった。
そして十分後、蓮は一度だけドランの剣を完全に受け流した。
ドランの体勢が崩れた瞬間、蓮は剣の平をドランの肩に当てた。
軽い接触だった。しかしドランは止まった。
「……そこまでだ」ドランは言った。
沈黙が続いた。
「一週間でここまで来るとは思わなかった」ドランは剣を下げながら言った。「センスではない。密度だ。一回一回の稽古の密度が違う。それだけで人間は変わる」
「まだ足りない」蓮は言った。
「分かっている。しかし方向は正しい」ドランは蓮を見た。「その人間を超えるとき、それは剣で超えるのか」
「剣だけじゃない。全部で超える」
ドランは少し間を置いた。
「王都に行くつもりか」
蓮は答えなかった。
ドランは「そうか」と言った。それ以上聞かなかった。
「一つだけ教える」ドランは続けた。「王都は剣だけでは何も変わらない。そこには政治がある。力だけで動く場所ではない。覚えておけ」
蓮は頷いた。
「ありがとう」
「礼はいい」ドランは背を向けた。「生きて戻ってこい。それだけだ」
ガルダ市を出たのは八日目の朝だった。
四人が門を出るとき、蓮は一度だけ街を振り返った。
八日間。ドランとの稽古、ガレスとの実戦訓練、エルヴィンの情報収集、リリアの治癒練習。全部が詰まった八日間だった。
(変わった)
一週間前の自分と今の自分では、剣の使い方が違う。目と体の時間差が縮まった。魔眼一回分の情報を体だけで使い切る精度が上がった。
まだ足りない。黒崎には遠く及ばない。
しかし確実に近づいている。
「行くぞ」ガレスが言った。
「ああ」蓮は前を向いた。
(ドランの言葉を覚えている。王都は剣だけでは変わらない。政治がある)
黒崎は政治を使って動いている。なら蓮も、剣以外のものを持つ必要がある。
それが何なのか、まだ分からない。
しかし探しながら進む。それしかない。
四人は王都方面へ向かう街道を歩き始めた。
蓮の左目が、朝の光の中で静かに熱を帯びていた。




