第12話「代償」
東の街道は広かった。
今まで歩いてきた獣道や辺境の村道とは違う。石畳が整備され、荷馬車がすれ違えるほどの幅がある。王都へと続く幹線街道だ。
「人が増えた」エルヴィンが周囲を見渡しながら言った。
確かに、街道には人の往来があった。商人の荷馬車、旅人、行商人。辺境の村道では何日も人に会わないこともあったが、ここは違う。
「目立つな」蓮は言った。「情報を集めながら進む」
「何の情報だ」ガレスが聞いた。
「黒崎の動向。それと、この先の地形」
蓮は街道を見渡した。広い道。人の流れ。情報が集まりやすい場所だ。しかし同時に、黒崎の耳に蓮たちの動きが届きやすい場所でもある。
(慎重に動く)
それが今の優先事項だ。
街道を半日進んだところで、小さな宿場町が見えてきた。
エルヴィンの地図には「ターヴ宿場」と記されていた。街道沿いの中継地点で、宿と食堂と小さな市場がある。旅人が一晩休む場所として機能している。
四人は宿場の食堂に入った。
昼時だったので席は半分ほど埋まっていた。商人風の男たち、旅人らしい家族連れ、それから冒険者とおぼしき者が数人。
蓮は席に座りながら周囲の会話を聞いた。
情報は自然に集まってくる。旅人たちは道中の出来事を話す。それを聞いているだけでいい。
三つ隣のテーブルで、商人らしい二人組が話していた。
「北の方が物騒らしいな」
「ああ、聞いた。勇者様一行が通った村で色々あったとか」
「色々って何だ」
「食料を取っていくらしい。まあ、勇者様が国を守るためだから仕方ないとは思うが……」
「仕方ないで済む話か、それ」
「声を小さくしろ。王様が認めた勇者様の話だぞ」
蓮は前を向いたまま、その会話を全部聞いた。
(王様が認めた、か)
黒崎が王を利用しているのか、それとも本当に王が黒崎を認めているのか。どちらにしても、黒崎の行動が「勇者様のすること」として半ば許容されている空気が、この街道にはある。
それが黒崎の計算通りなのだろう。
食事を終えて、四人は宿を取った。
部屋は二部屋。蓮とガレス、リリアとエルヴィンで分かれた。
夕方、ガレスが蓮の部屋をノックした。
「訓練するか」
「ここでは目立つ」
「宿の裏に空き地がある。夕方はほとんど人がいない。確認した」
蓮は立ち上がった。
「行く」
宿の裏の空き地は、ガレスの言った通り人がいなかった。
雑草が生えた、荷馬車が一台置けるくらいの広さだ。夕日が傾き始めていた。
「今日からやり方を変える」ガレスは言った。「今まではお前の魔眼に合わせた避け方と一撃を教えてきた。しかし三十秒先が見えるなら、それは先読みだけじゃない。相手の動きの全体が見えるということだ」
「そうだ」
「つまり弱点も見える。どこで隙が生まれるか、三十秒先まで計算できる」
蓮は頷いた。
「ただし」ガレスは続けた。「代償がある。一回の使用で全てを決める必要がある。そのためには、三十秒先の情報を元に動く体が必要だ。見えた未来に体が追いつかなければ意味がない」
「分かっている」
「分かっているなら、今日は体の反応速度を上げる訓練だ。魔眼なしで、俺の動きに体だけで反応しろ」
ガレスは剣を構えた。
「目を閉じて始めろ」
「……目を閉じて?」
「魔眼が使えない状況も来る。そのとき体だけで動けるか。それを確かめる」
目を閉じた状態での訓練は、想像以上に難しかった。
ガレスの剣が来る方向が分からない。音で判断しようとするが、ガレスは足音を消して動く。風の流れで感じようとするが、それも遅い。
三回連続で打たれた。
腕に、肩に、脇腹に。木剣だが、ガレスが本気で当てれば十分痛い。
「感覚を使え」ガレスは言った。「目の代わりになるものが必ずある。音、空気、重心の移動。それを拾え」
四回目。
蓮は音を捨てた。風を捨てた。代わりに、足元の地面から伝わる振動に集中した。
ガレスの体重が前に移動する微かな振動。
蓮は体を左に動かした。
剣が空を切った。
「……今のは何だ」ガレスが言った。
「地面だ」蓮は答えた。「重心が動くとき、足元に伝わる」
「なるほど」ガレスは少し間を置いた。「お前は頭で動くな。体で動け。考える前に動く訓練だ」
一時間後、蓮は汗だくだった。
目を閉じた状態で、ガレスの十撃のうち六つを避けられるようになった。三週間前なら想像もできなかった。
「今日はここまでだ」ガレスは言った。「毎日これをやる。魔眼と体の両方を鍛えなければ、三十秒先が見えても活かせない」
「ありがとう」蓮は短く言った。
「それと」ガレスは続けた。「剣が必要だ。折れた柄じゃ限界がある。明日、市場で探す」
蓮は自分の手の中の柄を見た。刃のない、折れた剣の柄。谷底から持ち上げてきた。これで今まで戦ってきた。
「ああ」蓮は言った。「そうだな」
翌日の朝、市場で剣を探した。
新品の剣は高い。蓮の今の手持ちでは買えない。中古の剣を扱う露店を三軒見て回った。
二軒目で、短めの片刃剣を見つけた。刃に傷があるが、バランスはいい。蓮は手に持って重さを確かめた。
「銀貨二枚だ」店の男が言った。
「一枚半」蓮は言った。
「冗談じゃない」
「刃に傷がある。使えないことはないが、値は下がる」
男は少し考えた。「一枚七十だ」
「一枚六十」
「……一枚六十五。それ以上は負けない」
蓮は銀貨を出した。「一枚六十五で」
剣を受け取って鞘に収めた。軽い。折れた柄より遥かに扱いやすい。
(これで戦える)
そう思ったとき、エルヴィンが小声で「田中さん」と言った。
振り返ると、エルヴィンの顔が少し青かった。
「何だ」
「あの人たちを見てください。さりげなく」
蓮は正面を向いたまま、視線だけを動かした。
市場の入り口に、三人の男が立っていた。旅装だが、腰に剣を帯びている。こちらをちらちらと見ている。
「城の騎士服に似た装備です」エルヴィンは小声で続けた。「私服を着ていますが、剣の型と持ち方が騎士のものです」
蓮は素早く計算した。
城の騎士が私服でこの街道にいる。黒崎の情報収集か、あるいは蓮たちを探しているのか。
(後者だとしたら)
城を出てから二ヶ月近くが経つ。黒崎が蓮を探しているかどうかは分からない。しかし黒崎の性格を考えると、逃げた駒を放置するとは思えない。
「自然に動く」蓮は低く言った。「急がない。市場を一周して宿に戻る」
四人はゆっくりと市場を歩いた。
三人の男も動いた。距離を保ちながら、ついてきていた。
宿の手前の路地に入った瞬間、蓮は足を止めた。
「ガレス、エルヴィンとリリアを先に宿に入れろ」
「お前は」
「確認する」
ガレスは一瞬だけ蓮を見た。それから「分かった」と言ってエルヴィンとリリアを連れて宿に入った。
蓮は路地の壁に背をもたせて待った。
三十秒後、路地の入り口に影が差した。
三人の男が入ってきた。先頭の男が蓮を見て足を止めた。
「田中蓮か」男は言った。
(やはりそうか)
「誰に聞いた」蓮は言った。
「勇者様がお探しだ。城に戻れ。おとなしく来れば悪いようにはしない」
(黒崎が探していた)
蓮は三人の体格を見た。全員、訓練された体だ。腕の動かし方、足の置き方、目の動かし方。本職の騎士だ。
今の蓮が三人を相手にできるか。
(ギリギリだ)
魔眼を使えば対処できる。ただし三人を同時に相手にしながら連続使用すれば、代償が来る可能性がある。
「戻らない」蓮は言った。
男の目が変わった。「そうか」
剣を抜いた。
左目が熱を持った。
三十秒先が見える。
先頭の男が踏み込む。右から斬り上げる軌道。
蓮は体を右に半歩ずらして、男の腕を内側から払った。剣が弾かれる。そのまま男の首筋に手刀を当てた。男がよろけた。
左の男が動いた。
左目がもう一度反応しようとした。
(一回で決める)
蓮は左目の使用を抑えた。代わりに、昨日の訓練で得た感覚を使った。地面の振動。足元から伝わる重心の移動。
男の右足が前に出る前に、蓮は踏み込んだ。男の懐に入り込んで、剣の柄で顎を打った。男が後ろに倒れた。
残り一人。
三番目の男は少し距離を取っていた。二人がやられるのを見て、慎重になっている。
男は剣を正眼に構えた。訓練された構えだ。
蓮は左目を使った。
三十秒先が見える。男の動きが見える。踏み込むタイミング、斬る軌道、その後の動き。
全部が見えた。
しかし同時に、左目の奥で何かが変わった。
(熱が……違う)
今まで感じたことのない感覚だった。
燃えるような熱ではない。引き千切られるような痛みでもない。
左目の視界が、急速に暗くなり始めた。
(まずい)
代償だ。
左目が見えなくなり始めている。
エルヴィンの言っていた「一時的な視覚喪失」。これがそれだ。
三十秒先の未来は頭の中に入っている。しかし実際の視界が消えていく。左目が、急速に暗くなる。
五秒後、左目の視界が完全に消えた。
(左が見えない)
蓮は右目だけで状況を見た。
男が踏み込んでくる。
右目だけでは距離感が狂う。奥行きが分からない。
男の剣が来た。
右目の判断が遅れた。
剣が蓮の左腕を掠めた。布が裂け、皮膚が切れる感覚がした。
(痛い)
しかし止まらなかった。
頭の中に、三十秒前に魔眼で見た未来がある。男がどう動くか、分かっている。左目が見えなくても、情報はある。
(体を信じろ)
ガレスの声が頭の中で聞こえた。
考える前に動け。
蓮は右目を閉じた。
両目を閉じた状態で、地面の振動だけを感じた。
男の重心が前に移動する。
蓮は踏み込んだ。
男の懐に入り込んで、剣の平で男の側頭部を打った。
男が倒れた。
静寂。
蓮は路地に立っていた。三人の男が地面に倒れている。殺していない。気絶させただけだ。
左目はまだ見えなかった。
右目で周囲を確認した。他に人はいない。
左腕から血が出ている。深くはない。しかし痛みはある。
(左目が使えない状態で、どこまで戦えるか)
今確認できた。右目だけでも、体の感覚と事前の予知情報があれば、戦える。完全ではない。しかし戦えないわけではない。
それが分かった。
宿に戻ると、ガレスが扉のそばに立っていた。
「遅かったな」ガレスは言った。蓮の左腕を見て「傷があるな」と言った。
「左目の代償が来た」蓮は言った。「戦闘中に視覚喪失が起きた」
ガレスの顔が変わった。
「それで、どうした」
「右目と体の感覚で対処した」
「……勝てたのか」
「倒した。ただし腕を切られた」
ガレスは息を吐いた。「まあ、生きてればいいか」
その言葉に、蓮は少し間を置いた。
(生きていれば、か)
老婆の言葉と重なった。
しかし今の蓮にとって、その言葉は以前とは全く意味が違う。
生きていれば、変えられる。生きていれば、強くなれる。生きていれば、黒崎の前に立てる。
「ああ」蓮は言った。「それだけで十分だ」
リリアが傷の手当をした。
左腕の切り傷を治癒魔法で処置する。完全には塞がらないが、出血は止まった。
「左目は」リリアが聞いた。
「まだ見えない」
「どのくらいですか」
「分からない。エルヴィンが言っていた通りなら、数分で戻るはずだ」
リリアは左目の上に手を翳した。治癒の光が広がる。
「炎症が昨日より深いです」リリアは言った。「治癒で完全には取り切れませんが、少し楽になるはずです」
「ありがとう」
リリアは何も言わなかった。ただ静かに治癒を続けた。
五分後、左目の視界が少しずつ戻り始めた。
白く霞んでいた視界が、ゆっくりと形を取り戻す。完全には戻らない。輪郭がぼやけている。しかし見えるようにはなった。
(数分か)
戦闘中に数分間左目が使えない。それがLv3の代償だ。
使うタイミングを一回に絞る理由が、今日で完全に分かった。
エルヴィンが部屋の隅で地図を見ながら言った。
「田中さん、あの三人は城の者ですよね」
「そうだ」
「つまり黒崎はあなたを探していた」
「そうなる」
「ここにいるのは危険ですね。この宿場町は街道沿いで目立ちます。他にも探している者がいるかもしれない」
蓮は頷いた。
「明日の朝、早く出る。街道から外れた道を使う」
「どこへ向かいますか」
蓮は地図を見た。
東の方角。黒崎が向かった方向。しかし同じ街道を進めば、また黒崎の手の者と鉢合わせする可能性がある。
「街道を外れて東に進む。次の大きな町まで」蓮は言った。「そこで情報を集める」
「次の大きな町というと」エルヴィンは地図を指した。「ここ、ガルダ市です。人口五千ほどの中規模都市です。冒険者ギルドもある。情報量が増えます」
「そこを目指す」
夜、蓮は一人で部屋にいた。
左目は戻っていた。ただし輪郭のぼやけは残っている。完全に元通りになるには、もう少し時間がかかるかもしれない。
(代償を把握した)
今日で分かったことを整理した。
Lv3の魔眼を使うと三十秒先が見える。しかし連続使用すると左目の視覚喪失が起きる。喪失時間は数分間。その間は右目と体の感覚だけで戦う必要がある。
つまり戦略は一つだ。
魔眼を一回だけ使う。三十秒分の情報を全て頭に入れる。そしてその情報だけで戦い切る。魔眼の使用は最初の一回のみ。後は体で動く。
(それを完璧にするには、体がもっと動く必要がある)
ガレスの訓練の意味が、今日で完全に分かった。
魔眼は道具だ。その道具を活かすためには、道具を使いこなす体が必要だ。
(もっと強くなれ)
蓮は左目に触れた。
熱がある。Lv3の熱が、静かに燃えている。
(次のLv4は何のトリガーで来るのか。何を失ったとき、あるいは何を守ろうとしたとき)
まだ分からない。
しかし今は考えなくていい。
今は、今の力を完全に使いこなすことだけを考える。
蓮は目を閉じた。
左目が静かに熱を帯びていた。
翌朝、夜明け前に四人は宿場を出た。
街道を外れ、東へ向かう獣道に入った。
空はまだ暗かった。
蓮は先頭を歩いた。左目に包帯は巻いていない。視界は昨日より回復している。輪郭のぼやけも薄れてきた。
ガレスが隣に並んだ。
「昨日の路地での戦い、聞いた限りでは上出来だったぞ」
「腕を切られた」
「でも勝った。左目が見えない状態で三人を倒した」
「次は切られない」
「そうだな」ガレスは少し笑った。「それがお前らしい」
蓮は答えなかった。
しかしその言葉を、否定しなかった。
(次は切られない)
それだけだ。
反省を次に繋げる。失敗を踏み台にする。
それだけが、前に進む方法だ。
蓮の左目が、朝の光の中で静かに熱を帯びていた。




