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第11話「赤い夜」

朝から空が赤かった。


雲の色が普通じゃない、とエルヴィンが言った。「この辺りでは赤い空は嵐か、魔獣の大量発生の前兆とされています」


「どちらだ」ガレスが空を見上げた。


「分かりません。ただ……両方の可能性もあります」


蓮は空を一度見て、前を向いた。


「急ごう」


グラム砦へ向かう街道から外れ、四人は森の中の獣道を進んでいた。


エルヴィンの計算では、この道を使えば次の村まで半日短縮できる。ただし魔獣の目撃情報が多い区域でもある。蓮は左目の節約を意識しながら、周囲の気配を探り続けた。


昼過ぎ、最初の異変が起きた。


鳥の声が消えた。


森の中で鳥の声が完全に途絶える。それは何かが近づいているサインだ。魔獣図鑑で読んだ。捕食者が現れたとき、鳥は最初に沈黙する。


「止まれ」蓮は低く言った。


四人が足を止めた。


静寂。


それから地面が揺れた。


木立の向こうから現れたのは、コカトリスだった。


一体ではなかった。


二体、三体、五体。茂みの中から次々と姿を現した。鶏に似た体だが、人の腰ほどの高さがある。鱗に覆われた脚、蛇のような尾、そして目。赤く濁った、石化の視線を持つ目。


「七体だ」エルヴィンが震える声で言った。「多すぎます」


「視線を合わせるな」ガレスが剣を抜きながら言った。「石化は目が接触した瞬間に始まる。目を逸らしながら戦え」


「言うのは簡単だ」リリアが呟いた。


蓮はすでに折れた剣の柄を握っていた。


七体。ガレスが前に出て二体を相手にしたとして、残り五体を三人で対処する。リリアは戦闘向きではない。エルヴィンも剣技は持っていない。実質、蓮が複数を同時に相手にする必要がある。


(左目を使う)


今日はまだ一度も使っていない。残量は十分だ。


しかし七体を相手に連続使用すれば、どこかで限界が来る。


(やるしかない)


コカトリスが動いた。


先頭の一体が地面を蹴った瞬間、蓮の左目が熱を持った。


十秒先が見える。


コカトリスの軌道。着地点。次の動き。視線の方向。


蓮は体を右に半歩ずらした。コカトリスの爪が空を切る。視線が蓮の左肩を掠めた。直接目を合わせなかった。石化は始まらない。


すぐに二体目が来た。


左目がもう一度反応する。熱が増す。


蓮は低く身を沈めて、コカトリスの腹の下を転がるように抜けた。背後から蛇の尾が振られた。間一髪だった。


三体目。


左目の奥で何かが焼ける感覚がした。使いすぎのサインだ。視界の左端が白く滲み始めた。それでも止めなかった。


(まだ使える)


蓮はコカトリスの腹部に柄を叩き込んだ。弱点は腹だ。図鑑通りだった。コカトリスが甲高い声を上げて後退する。


「田中、後ろ!」リリアの声がした。


左目が間に合わなかった。


爪が背中を掠めた。


「ぐっ……」


前に踏み出した勢いで転倒した。地面に手をついたとき、掌に石ころが刺さった。構わず立ち上がった。


背中が熱い。裂けている。深くはないが、血が出ている。


コカトリスが四体、蓮を囲む形になっていた。


ガレスは別の三体と戦っている。声から位置は分かる。押してはいないが、押されてもいない。


エルヴィンとリリアは後方に下がっている。


(俺が四体を片付ける必要がある)


計算は冷静だった。感情はない。ただ状況を見ている。


左目がまた熱を持った。今度は使う前から熱い。限界が近い。あと二、三回が限度だろう。


(三回で四体を片付ける)


蓮は動いた。


一体目。


視線を外しながら真横から柄を叩き込む。腹部に当たる。倒れる。


二体目。


蓮に向かって突進する軌道を左目で読んだ。ぎりぎりで体を入れ替えて、コカトリスが自分の勢いで木に激突するように誘導した。鈍い音がして、コカトリスが動かなくなった。


左目から血が滲んだ。


視界の左半分が赤く染まり始めた。


それでも続けた。


三体目。


左目をもう一度使った。


熱が、今までとは違う段階に入った。


燃えるような痛みではない。もっと深い、骨の奥から来るような、引き千切られるような感覚だった。蓮は声を抑えた。歯を食いしばって、コカトリスの動きを読んだ。


見える。


十秒先が。


いや。


(……もっと先が見える)


蓮は気づいた。


いつもより長い。十秒ではない。もっと先まで。コカトリスの動き、その次の動き、さらにその次まで連鎖して見えた。


(何秒だ)


数えている余裕はなかった。ただ、見える範囲が広がっていることは分かった。


蓮はその視界のまま動いた。


コカトリスが跳んだ。蓮はすでに三歩先に移動していた。コカトリスが着地する前に腹部に柄を叩き込んだ。コカトリスが地面に転がった。


四体目。


蓮の左目から、血が一筋流れた。


四体目のコカトリスが蓮に向かって走った瞬間、蓮の視界が変わった。


左目の痛みが頂点に達した。


今まで感じたことのない種類の痛みだった。焼けるとか、刺さるとかではない。左目の奥にある何かが、形を変えようとしている痛みだ。産まれ変わるような、壊れて作り直されるような。


(痛い)


それだけだった。


しかし痛みと同時に、見えた。


三十秒先が。


コカトリスがどこに着地するか。そこから次にどう動くか。蓮がどう反応するか。その結果がどうなるか。全部が三十秒分、先に見えた。


(これが……)


考えている時間はなかった。


蓮は三十秒分の未来を使って動いた。


コカトリスが跳ぶ前に、着地点に回り込んだ。コカトリスが着地した瞬間、体勢が崩れる場所に柄を差し込んだ。コカトリスが自分の重さで転倒した。蓮はその頭を踏んで、動きを止めた。


静寂。


コカトリスの声が止んだ。


「……田中」


ガレスの声がした。


蓮は立っていた。背中から血が出ている。左目から血が流れて、左の頬を伝っている。足が少し震えていた。


「終わったか」蓮は言った。


「こっちは片付いた」ガレスが近づいてきた。蓮の顔を見て、一瞬表情が変わった。「左目……」


「問題ない」


「問題ある。かなり出血してる」


リリアが駆け寄ってきた。蓮の左目に手を翳そうとして、止まった。


「……左目が」リリアが小声で言った。


「何だ」


「色が変わっています。少しだけ……金色がかっています」


蓮は答えなかった。


左目の中で何かが変わった感覚は、自分でも分かっていた。見える範囲が変わった。深さが変わった。十秒先から、三十秒先へ。


(覚醒したのか)


確認している余裕はなかった。今は体が限界に近い。


蓮はその場に膝をついた。


リリアの治癒魔法が始まった。


背中の傷を先に処置した。深くはなかったが、広い。リリアの手が傷の上を滑るたびに、熱が引いていく。


次に左目。


「炎症がひどいです」リリアは言った。「奥まで入っています。今日の治癒では全部は取り切れません」


「分かった」


「左目、今はどう見えていますか」


蓮は少し考えた。


「見える範囲が広くなった。今まで十秒先だった。今は三十秒先が見える」


リリアは手を止めなかった。ただ少し黙った。それから「分かりました」と言って治癒を続けた。


エルヴィンが手帳に何かを書き込んでいた。


「Lv3ですね」エルヴィンは静かに言った。「魔眼の記録文献に、段階的な覚醒の記述があります。各段階で視野時間が伸び、代償も重くなる」


「代償は何だ」蓮は聞いた。


エルヴィンは少し躊躇してから答えた。「文献には……左目の一時的な視覚喪失とあります。使いすぎると、数分間左目が完全に見えなくなる」


「今はまだそこまで来ていない」


「今日は、ギリギリだったと思います」


蓮は頷いた。


使い方を変える必要がある。十秒先を何度も使うより、三十秒先を一度だけ使う。その判断を戦闘中に行う。


覚醒は終わりではない。使い方を学ぶ段階が始まっただけだ。


「田中」ガレスが口を開いた。「今日の戦い方を見ていた。コカトリスが動く前に動いていたな」


「覚醒した。三十秒先が見えるようになった」蓮は言った。「代償は左目の一時的な視覚喪失だ。使いすぎると数分間、左が見えなくなる。一回の使用で勝負を決める必要がある」


「なら剣技を上げる意味がさらに大きくなった」ガレスは言った。「明日から訓練の内容を変える。いいか」


「ありがとう」


ガレスは小さく笑った。


エルヴィンが続けた。


「覚醒のタイミングが気になります。Lv1からLv2も谷底の極限状態でした。今日も戦闘の限界でした。魔眼は追い詰められたときに次の段階へ進む性質があるのかもしれません」


蓮は焚き火を見た。


(痛みがトリガー)


谷底での蒼刃草の痛み。叫びながら魔眼を使い続けたあの瞬間。そしてLv2になった。


今日も同じだ。


(ならLv4は。その先は)


限界の先に、次がある。それだけ分かった。


「覚えた」蓮は短く言った。


「もう一つ」エルヴィンは地図を出した。「黒崎一行の進路です。クレスタ村は街道から外れた山の中にあります。薬草の産地で、進入路が一本しかない。黒崎が砦を押さえれば、次はここを狙う可能性があります」


「俺たちの進路から外れているのか」


「半日のロスで通れます」


「寄る」蓮は言った。「情報収集と補給だ。それだけだ」


ガレスは「分かった」と言った。


――クレスタ村――

クレスタ村が見えてきたのは翌日の夕方だった。


山の斜面に沿って家が並ぶ、小さな村だ。石造りの家が十五軒ほど。畑が段々になって山肌に広がっている。薬草の栽培地が村の東側に広がっているのが遠目にも分かった。


しかし近づくほど、何かがおかしかった。


「静かすぎる」ガレスが低く言った。


夕方の村ならば、炊煙が上がり、子どもの声が聞こえ、家畜の鳴き声がするはずだ。しかしクレスタ村からはそれが何一つ聞こえなかった。


「人はいるのか」リリアが不安そうに言った。


「いる」蓮は言った。「扉が閉まっている。逃げたんじゃない。閉じこもっている」


村の入り口で、老婆が一人立っていた。


蓮たちを見て、最初に出てきたのがこの老婆一人だったことが、村の状態を物語っていた。


「旅人か」老婆は言った。疑うような目をしていたが、逃げなかった。


「そうだ」ガレスが言った。「何があった」


老婆は四人を頭から足まで見た。武装の程度、装備の質、顔の表情。何かを判断するように見てから、口を開いた。


「一昨日のことだ」


老婆は村の中心にある井戸の縁に腰を下ろした。


「勇者様の使いが来た。明日、勇者様一行がここを通ると。村長に準備をしろと言い置いていった」


蓮の体が静止した。


「村長は準備した。他の村で何が起きたか伝わっていたから、最初から逆らわなかった。食事と宿を用意して、薬草も差し出すつもりでいた。従えば少しは加減してもらえると思っておった」


「実際はどうだった」


老婆は少し間を置いた。


「加減などなかった」


老婆の話を、蓮は一言も聞き漏らさなかった。


黒崎一行がクレスタ村に着いたのは昼前だった。


馬に乗った黒崎は、村の入り口で馬を止めて村を見渡したという。管理している農場を眺めるような目で。老婆はその目つきを「品物を値踏みする目だった」と言った。


村長が出迎えて頭を下げた。黒崎は馬から降りながら「薬草の村か、ちょうどいい」と言った。笑っていた。


用意された昼食に着くと、黒崎は一口食べて「まあまあだな」と言った。それから村長に向かって「この村の薬草、全部リストアップしろ。俺が使えそうなのを選ぶ」と言った。


村長が「それは村の生業でございまして……」と言いかけると、黒崎は食事の手を止めずに答えた。


「俺が使えると言ったら使えるんだよ。勇者様のお役に立てて光栄に思え」


騎士が動いた。


村の薬草栽培地に騎士たちが入り込み、育てていた薬草を根こそぎ引き抜き始めた。村人が「やめてください、育てるのに何年もかかった薬草が……」と叫んだ。騎士は振り返らなかった。


「勇者様のお使いだ。邪魔するな」


「薬草だけじゃなかった」老婆は続けた。


黒崎は食料の備蓄も持っていかせた。村の倉庫を開けさせ、麦と干し肉と保存食を馬車に積んだ。冬を越すための備蓄が半分以下になった。


村長が「せめて子どもたちの分だけでも……」と言うと、黒崎は振り返りもせずに「うるさい」と言った。それだけだった。


夕方になると黒崎は宿に入った。


「そこからだ」老婆の声が変わった。「本当のことが起きたのは」


老婆が語った内容を、蓮は黙って聞いた。


黒崎が宿に入って夕食を終えた後、騎士の隊長が村長を呼びに来た。


「勇者様が今夜、村の者と話したいとおっしゃっている。若い娘を一人、宿に連れてこい」


村長は断ろうとした。しかし隊長の後ろに騎士が三人立っていた。全員、剣に手をかけていた。


村長は震えながら村を回った。


若い娘のいる家の扉を叩くたびに、中から泣き声が聞こえた。噂はすでに広まっていた。どの家も扉を開けなかった。


最後に村長が訪ねたのは、二十二の娘を持つ家だった。


父親は扉を開けた。しかし「娘は渡せない」と言った。隊長が剣を抜いた。父親の喉元に当てた。母親が悲鳴を上げた。


「勇者様をお待たせするな」隊長は静かに言った。「次は喉を切る」


娘が自分で出てきた。


震えていた。顔が青かった。それでも父親を見て、首を横に振った。行くから、剣を収めてくれと、そういう目だった。


「宿に入る前に振り返ったそうだ」老婆は言った。「父親の顔を見て、それから前を向いて扉を開けた」


老婆は膝の上で手を組んだ。


「翌朝、娘が部屋から出てきたとき、父親が抱きしめようとした。娘は……父親の腕を避けた。抱きしめられるのが、嫌だったんだろう。誰かに触れられることが」


老婆の声は平坦だった。感情を全部押し込めた後の声だった。


「娘は今も誰とも目を合わせない。食事もほとんど食べていない」


「それだけじゃない」老婆は続けた。


黒崎の護衛についていた兵士たちも、その夜は村に散った。


宿に泊まれない下位の兵士たちは、村の外れに天幕を張った。夜になると数人が村の中をうろついた。


三十代の女性が数人、声をかけられた。断れなかった。断れる状況ではなかった。夫がいる女性もいた。夫たちは見ていることしかできなかった。剣を持った兵士に逆らえば何をされるか分からない。子どもがいる家もあった。


「夜が明けたとき」老婆は言った。「村の女たちは誰も外に出てこなかった。夫たちも、子どもたちも、誰も声を出さなかった。出せなかった」


老婆は井戸の縁を見た。


「翌朝、黒崎は機嫌よく出発した。朝食を食べて、馬に乗って。村人が見送りに出てこないのを見て、騎士の一人が『感謝がない村だな』と言ったそうだ。黒崎は笑って言った」


老婆は一度息を吐いた。


「『田舎者はこれだから。まあいい、また来てやる』と言って、馬を進めた」


また来てやる。


その一言が、村人の胸にどれだけ深く刺さったか。


誰も声を出さなかった。


リリアは俯いていた。エルヴィンは地面を見たまま動かなかった。ガレスは拳を膝の上で強く握っていた。


蓮は何も言わなかった。


(また来てやる)


黒崎の声が頭の中で再生された。あの軽い声。あの笑い方。被害を与えた自覚すらない、あの声。


日本でも同じだった。


会社で女性社員を追い詰めても、翌朝は何事もなかったように出社した。傷つけた相手のことなど、頭にない。ゴミを踏んで歩いたくらいの認識しかない。


(あいつにとって、人は道具か消耗品なんだ)


感情的な怒りではなかった。


冷たい確信だった。


黒崎剛という人間の本質を、蓮は改めて認識した。


蓮は立ち上がった。


「その娘の父親に会わせてくれ」


老婆が蓮を見た。「何をするつもりだ」


「話を聞く。それだけだ」


老婆はしばらく蓮の顔を見た。それから「こっちだ」と言って立ち上がった。


宿は村の中心にある二階建ての建物だった。


入り口の扉は半開きのままだった。中に入ると薄暗く、食堂のテーブルの上に食べかけの皿がそのまま残っていた。


二階への階段を上がると、廊下の突き当たりに扉があった。


その前に男が座っていた。


四十代くらいだろうか。がっしりとした体格だが、今は壁に背をもたせて膝を抱えている。顔を上げると目が赤かった。泣いたのか、眠れなかったのか、あるいはその両方か。


「旅人か」男は言った。声が掠れていた。


「そうだ」蓮は言った。


男はしばらく蓮を見た。


「娘に会わせたいか? 会わせられない。今は誰にも会いたくないと言っている。男は特に」


「会わなくていい」蓮は言った。「あなたに話を聞きに来た」


男は少し間を置いた。


「……何が聞きたい」


「黒崎の顔を覚えているか」


男の目が変わった。


一瞬で、何かが燃えた。そして次の瞬間には消えた。燃やす気力もないように。


「忘れるもんか」男は低く言った。「一生忘れない。馬に乗って笑いながら出発した。あの顔を、俺は死ぬまで忘れない」


「俺もだ」蓮は言った。


男が蓮を見た。


「お前も、あいつに何かされたのか」


「された」蓮は短く言った。「いつか必ず、あいつの前に立つ。それだけだ」


男はしばらく蓮を見ていた。


「……勝てるのか」


「今はまだ無理だ」蓮は正直に言った。「だが必ずなる」


男は何も言わなかった。


ただ扉を一度見て、また蓮を見た。


「……頼む」


男は小さく言った。声が掠れた。「俺にはもう、何もできない。あいつに何もできなかった。だから」


蓮は頷いた。


一度だけ。それから廊下を戻った。


食堂に戻ると、リリアが老婆と話していた。


「治癒ができます。村の方々で、体の具合が悪い方がいれば診させてください」


老婆は少し間を置いてから「来い」と言った。


リリアは老婆についていった。


ガレスは食堂の椅子に座って腕を組んでいた。蓮が戻ってくると顔を上げた。


「どうだった」


「父親が廊下に座っていた」


「そうか」ガレスは一度目を閉じた。「俺はこういうのが一番……」


そこで言葉を止めた。


蓮は何も言わなかった。


ガレスが言葉にしなかった部分は、分かっていた。


夕方、蓮は村の薬草栽培地を見に行った。


根こそぎ引き抜かれた薬草の跡が、段々畑に広がっていた。土が剥き出しになり、引き抜いた際に乱れた土が固まりかけている。何年もかけて育てた薬草が、一日で消えた跡だった。


村人が一人、その前に立っていた。


五十代の女性だった。畑を見ながら動かない。蓮が近づいても振り返らなかった。


「何年かかったんだ」蓮は聞いた。


女性は少し間を置いた。


「この区画だけで、八年です」女性は言った。声が乾いていた。「薬草は育てるのが難しい。土を作るのに三年、苗を育てるのに二年、収穫できるまでにさらに三年。それが一日で」


女性は膝をついた。


土に手をつき、剥き出しになった地面を触った。


「また、一からやるしかないですね」女性は言った。泣いていなかった。泣く気力もないような声だった。「生きていれば、また育てられる。それだけです」


(生きていれば)


この言葉に何度出会うのか。


老人も言った。女性も言った。


生きていれば。死ななかっただけよかった。それだけが残る。


(違う)


蓮は思った。


それだけで終わらせるつもりはない。


夜、四人は村の食堂を借りて泊まった。


リリアが村の女性たちを診て回った。体の傷は軽いものが多かった。しかし心の傷は、治癒魔法では届かない。リリアはそれを分かっていながら、できることをし続けた。


エルヴィンが地図を広げた。


「黒崎一行はここから東に向かったと村人が言っていました。グラム砦ではなく、東の街道です」


「方向が変わった」ガレスが言った。


「東には王都への幹線街道があります」


蓮は地図を見た。


(王都か)


黒崎が王都を目指しているとしたら、辺境での物資収集はその準備だ。食料、薬草、金品。全部が王都での動きのための資源になる。


「田中」ガレスが言った。「どうする」


「追わない。今は」蓮は言った。「ただし方向は変える。東に進む」


「黒崎の後を追うのか」


「追うんじゃない。同じ方向に進む。それだけだ」


ガレスは「分かった」と言った。


深夜、蓮は食堂の窓から外を見ていた。


クレスタ村の夜は暗い。月明かりだけが石畳を照らしている。


廊下に父親がまだ座っているかどうか、分からない。確かめに行かなかった。


(頼む)


父親の声が頭に残っていた。掠れた、小さな一言。


蓮は左目に触れた。


包帯の下で熱がある。Lv3になった魔眼が、静かに燃えている。


(黒崎)


お前がやったことは全部、この左目の奥に入っている。


老婆の話。父親の赤い目。畑の前で膝をついた女性の手。閉じたままの扉。


全部が消えない。


(消えなくていい)


この熱が消えないうちは、前に進める。


怒りで動くつもりはない。感情で突っ込むつもりもない。


ただ、強くなる。


もっと深いところまで落ちて、もっと高いところまで上がる。


それだけだ。


(待っていろ。必ずお前の前に立つ)


左目の熱が、静かに答えた。


翌朝。


四人が村を出るとき、老婆が見送りに来た。


「ありがとう」老婆は言った。「何もしてもらったわけじゃないが、来てくれてよかった」


蓮は頷いた。


ガレスが「また来る」と言った。


老婆は小さく笑った。「生きていれば」


蓮はその言葉を聞いた。


今度は違う意味で受け取った。


(生きていれば、変えられる)


四人は東の街道へ向かった。


蓮の左目が、朝の光の中で静かに熱を帯びていた。



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