第10話「黒崎の影」
ミレヴァを出たのは朝だった。
霧がまだ低く漂う石畳を、四人は並んで歩いた。荷物は昨日より少し重い。市場で買い足した食料と、エルヴィンが仕入れた薬の材料が加わった。
「次の村まで二日だ」ガレスが地図を広げながら言った。「北東の街道を行く。ただ、この辺りは魔獣の目撃報告が多い。気をつけろ」
「どんな魔獣だ」蓮は聞いた。
「コカトリスの群れが出たという話がある。単体なら大したことはないが、群れると厄介だ」
蓮は魔獣図鑑で読んだ内容を思い出した。コカトリス。鶏に似た体に蛇の尾。石化の視線を持つが、視線を外せば無力化できる。弱点は腹部。動きは速くない。
(群れか)
魔眼を使えば対処できる。ただし連続使用は左目への負担が大きい。節約しながら動く必要がある。
「分かった」蓮は短く言った。
街道を半日歩いたところで、最初の異変に気づいた。
道沿いに小さな集落があるはずだった。エルヴィンの地図にも記載がある。しかし近づいても人の声が聞こえない。炊煙も上がっていない。
「おかしいな」ガレスが足を止めた。
蓮はすでに集落の入り口を見ていた。木の柵が一部倒れている。井戸の近くに荷車が放置されている。荷物はそのままだ。急いで立ち去った形跡がある。
「入るか」ガレスが蓮を見た。
「入る」
四人は慎重に集落へ足を踏み入れた。
人がいない。十軒ほどの民家が並んでいるが、どこも扉が開いたままだ。食事の途中で立ち去ったのか、テーブルに皿が残っている家もある。荒らされた形跡はない。物が奪われた様子もない。
ただ、人がいない。
「魔獣に追われたのか」エルヴィンが小声で言った。
「違う」蓮は答えた。「魔獣に追われたなら荷物を持って逃げる。これは急に出ていった跡だ。準備していない」
「じゃあ何が」
蓮は集落の中央に立った。地面を見ると、複数の足跡が残っている。村人のものと、それより大きな、重い靴底の跡が混じっていた。
(兵士だ)
「……行こう」蓮は言った。
「調べなくていいのか」ガレスが言った。
「情報はある。今は先を急ぐ方がいい」
蓮は集落を出た。三人がついてきた。
夕方、街道沿いの森で野営の準備をしていると、老人が一人歩いてきた。
七十は過ぎているだろうか。杖をついて、背中に小さな荷物を背負っている。四人の姿を見て立ち止まったが、逃げなかった。
「旅人か」老人が言った。
「そうだ」ガレスが答えた。「爺さん、どこから来た?」
老人は少し考えてから「ベルナ村だ」と言った。「もうないがな」
「もうない?」
老人は杖を地面に突いて、ゆっくりと腰を下ろした。座り込む様子に、リリアが素早く近づいて肩を支えた。
「勇者様が通ったんだ」老人は言った。
その言葉に、蓮の体が一瞬止まった。
老人の話は長くはなかった。
しかし聞くほどに、焚き火の温度が下がっていくような気がした。
「三日前のことだ。使いの者が村に来て、勇者様一行がお泊まりになると告げた。村長はすぐに宿の準備を命じた。この世界を救う勇者様だ、最高のもてなしをしろと。村で一番いい部屋を用意して、一番いい食事を出した」
老人は膝の上で手を組んだ。
「勇者様はその晩、上機嫌だった。酒を飲んで、騎士たちに自分の武勇を語って、村長の出した料理を食い散らかした。食べきれない量を並べさせて、半分以上残した。それでも笑っておった。気前がいいだろ、食わせてやったんだからと」
ガレスが低く舌打ちした。
「翌朝だ」老人は続けた。「出発の前に、勇者様が村長を広場に呼んだ。騎士を十二人並べて、その前に村長を立たせた。村長は六十を過ぎた爺さんだ。足が震えていたそうだ」
老人が語った黒崎の言葉を、蓮は一字一句聞いた。
広場で村長の前に立った黒崎は、腕を組んで笑ったという。
「俺が来てやったんだぞ。感謝しろよ。この村、魔獣が出るだろ? 俺がいなかったら今頃どうなってたと思う?」
村長が「ありがたい話ですが、保護費とは……」と言いかけたとき、黒崎は村長の言葉を遮った。
「うるさい。細けえことを言うな。俺は勇者だぞ。王様にも認められてる。文句があるなら王様に言いに行けばいいだろ。行けるもんならな」
そう言って、黒崎は背後の騎士に目配せをした。
騎士たちが無言で倉庫へ向かった。鍵は最初から関係なかった。扉を蹴破った。村人が「やめてくれ」と叫んだが、騎士が剣の柄で腹を殴って黙らせた。
麦の袋、干し肉、塩漬けの野菜、冬用に蓄えた豆。それを馬車に積み始めた。
「勇者様は倉庫の前に立って、腕を組んで眺めておった」老人は言った。「楽しそうな顔で。自分の庭を見回すような目で」
村長が「一冬分の備蓄です、子どもたちが……」と言うと、黒崎は振り返りもせずに答えたという。
「知らね。俺の飯の心配でもしてろ」
老人の声が、そこで初めて変わった。
抑えていたものが滲み出るような、静かな変化だった。
「それだけじゃない」
老人は地面を見た。
「勇者様はその夜も泊まっていった。二泊目だ。宿の主人に言ったそうだ。『今夜は退屈だ。若い娘を一人、俺の部屋に連れてこい』と」
リリアの手が止まった。
「宿の主人には十七になる娘がいた。主人は断ろうとした。しかし騎士が二人、扉の前に立った。無言で。それだけで十分だったんだろうな。主人は……娘を呼んだ」
老人は目を閉じた。
「娘は震えながら部屋に入ったそうだ。翌朝、扉が開いたとき、娘は部屋の隅で膝を抱えておった。父親が駆け寄っても、何も言わなかった。ただ泣いておった。声も出さずに、ずっと泣いておった」
焚き火の音だけが続いた。
「勇者様は何事もなかったように身支度をして、朝食を要求した。宿の主人が震える手で料理を出すと、一口食べて『味が薄い』と言った。それだけ言って、馬に乗って出発した」
老人は顔を上げた。
「娘の父親は村長に訴えた。村長も騎士の隊長に訴えた。隊長は『勇者様が望んだことだ』と言って取り合わなかった。そのうちの一人の騎士が笑ったそうだ。よくあることだと言うように」
エルヴィンが俯いた。リリアは唇を引き結んでいた。
老人は続けた。
「村の男たちは怒った。当然だ。しかし剣を持った騎士が十二人いる。一人でも動けば皆殺しにされると分かっていた。だから誰も動けなかった。動けなかった自分たちへの情けなさと、怒りと、どうしようもない気持ちを抱えたまま、ただ見送るしかなかった」
老人は小さく笑った。
「まあ、死んだわけじゃないからな。それだけはよかった」
その言葉が、蓮の胸の奥深くに刺さった。
諦めた言葉だった。それが精一杯の慰めになっている。死んでいないから、まだよかった。そう言うしかない状況に、老人は追い込まれている。
(黒崎)
蓮は焚き火を見た。炎が揺れる。
日本での記憶が浮かんだ。
深夜の会議室で、黒崎が部下の女性社員に「今夜付き合えよ」と言っているのを廊下から聞いたことがある。女性は断れなかった。翌日、彼女は目が赤かった。黒崎は何事もなかったように朝礼で数字の話をした。
あれと同じだ。
場所が違うだけで、やっていることは同じだ。立場の弱い者を使う。逆らえない状況を作る。そして何も感じない。
(あいつに、罪悪感という回路はない)
それが分かっているから余計に腹立たしかった。怒鳴っても、叫んでも、届かない。感じる部分がそもそもない。
(だから力が必要だ)
感情で届かないなら、力で届かせるしかない。
その日の昼過ぎ、別の村に着いた。
こちらはまだ人がいた。ただし、様子がおかしい。村人たちが外に出てこない。扉を叩いても返事が遅い。ようやく出てきた中年の女性は、四人を見て最初に怯えた顔をした。
「旅人か」女性は確認するように言った。「勇者様の一行ではないか?」
「違う」ガレスが言った。「ただの旅人だ。水を分けてもらえないか」
女性は少し間を置いてから「入れ」と言った。
家の中に通されると、奥に三人の子どもが固まっていた。夫とおぼしき男性が壁際に立っている。表情が固い。
「勇者一行がここも通ったのか」蓮は直接聞いた。
男性の表情が変わった。
「……二日前だ」
男性の話は、ベルナ村と構造は同じだったが、細部が違った。
この村の村長は最初から抵抗しなかった。ベルナ村の話が伝わっていたからだ。逆らえば倉庫を全部持っていかれる。だから先に頭を下げた。
「そうしたら逆に舐められた」男性は言った。「勇者様は笑って言ったそうだ。素直でいいじゃないか、って。それで六割持っていった。最初から逆らわなくても同じだったんだ」
「六割」エルヴィンが小声で繰り返した。
「麦と干し肉と塩漬けの野菜だ。子どもが三人いる。このままでは春まで持たない」
男性は右腕を見せた。包帯が巻かれていた。
「一人の村人が抗議した。そいつの腕を騎士が折った。理由は態度が悪いと、それだけだ」
リリアが「手当させてください」と静かに言った。
蓮は話を続けた。
「勇者本人は何をしていた」
「村の中を歩き回っていた」男性は言った。「品定めするように。家の中まで入ってきた家もある。うちもそうだ」
男性の目が、一瞬だけ奥に向いた。
「うちには娘がいる。十四だ。勇者様が入ってきたとき、娘が台所にいた。勇者様は娘の顔を見て、騎士に何か言った。騎士が笑った。勇者様も笑った。それだけで……それだけだったが」
男性は拳を握った。包帯の上から、指の節が白くなるほど。
「娘は今も部屋から出てこない。何もされてはいない、たぶん。でも笑われた。あの目で見られた。それだけで十分だったんだろう、娘には」
部屋の奥で、子どもが一人、壁に顔を向けて座っているのが見えた。細い背中だった。
蓮は村を出る前に、銀貨一枚を男性に渡した。
「受け取れない」男性は言った。
「子どもが三人いると言った」蓮は言った。「春まで持たないとも言った。受け取れ」
男性は蓮の顔を見た。蓮は目を逸らさなかった。
男性は銀貨を受け取った。何も言わなかった。ただ深く頭を下げた。
蓮は頷いて、村を出た。
ガレスが隣に並んだ。「お前が金を渡すとは思わなかった」
「合理的な判断だ」蓮は言った。「子どもが餓死すれば、この村は終わる」
ガレスは少しの間、蓮の横顔を見た。
「そうだな」とだけ言った。
蓮は前を向いた。
(壁に向かって座っていた、あの細い背中)
理由を言語化するつもりはなかった。ただ動いた。それでいい。
夜の野営。
焚き火を囲んで四人が座っていた。エルヴィンが地図に何かを書き込んでいる。リリアは何も言わずに食事の準備をしていた。いつもより静かだった。
ガレスが口を開いた。
「黒崎というのは、お前の知り合いか」
蓮は少し間を置いた。
「なぜそう思う」
「お前が村で黒崎の話を聞くときの顔が違う。他の情報を聞くときと目が違う」
「……知っている」蓮は短く言った。「それだけだ」
「それだけか」
「今は、それだけだ」
ガレスは「そうか」と言って前を向いた。それ以上聞かなかった。
「田中さん」エルヴィンが地図を広げた。「黒崎一行の進路を計算しました。この速度で北東に進むと、五日後にはグラム砦に着くはずです」
「グラム砦か」ガレスが顔を上げた。「辺境の要所だ。兵の補充も物資の集積もできる」
「黒崎がそこを押さえたら」蓮は言った。
「辺境一帯の支配権を持つも同然です」エルヴィンは静かに言った。「砦を拠点にすれば、周辺の村全てに影響を与えられます」
「俺たちはどうする」ガレスが蓮を見た。
「今は動かない」蓮は言った。
ガレスの顔に何かが浮かんだ。
「黒崎の向かう先に村がある。また同じことが起きる。また誰かが……」
「分かっている」
蓮は静かに、しかしはっきりと言った。
「分かっていて、今は動かない。今の俺が行って死んだら、それで終わりだ。感情で動くのは今じゃない。勝てる力をつけてから動く。それが唯一の合理だ」
ガレスは黙った。
「悔しいがな」
蓮の口からその言葉が出たとき、ガレスは少し目を細めた。
リリアが俯いたまま、静かに言った。「……早く、強くなってください」
蓮は返事をしなかった。しかし否定もしなかった。
夜半、蓮は一人で残り火を見ていた。
(黒崎)
笑いながら馬車に食料を積ませる姿が、頭の中で形を作った。
「知らね。俺の飯の心配でもしてろ」
あの口調。あの笑い方。蓮は知っている。会社でも同じだった。部下が残業で倒れかけていても、自分の数字が達成されれば関係ない。そういう顔で、そういう声で言う男だ。
何も変わっていない。
この世界に来て勇者になって、力を手に入れて。それでやることが、弱い者から奪うことと、逆らえない娘を部屋に呼ぶことだ。
(お前は、最初からそういう人間だったんだな)
蓮は左目に触れた。
熱がある。じわりと、深くから広がる熱がある。
老人の「まあ、死んだわけじゃないからな」という言葉。壁に向かって座っていた細い背中。涙の跡も見せずに泣き続けたという十七の娘。腕を折られた村人。震えながら部屋に入っていった娘を、止められなかった父親。
全部が、この左目の奥に入っている。
消えない。
(全部、返してやる)
感情的な誓いではなかった。冷たく、静かな確信だった。
いつか必ず、この左目で黒崎の前に立つ。
その日のために、今は耐える。強くなる。もっと深いところまで落ちて、もっと高いところまで上がる。
左目の熱が、答えるように強くなった。
(まだか)
蓮は目を閉じた。
(もっと深くまで落ちろ。もっと遠くまで見ろ。魔眼よ、お前にはまだ先がある)
熱が、静かに広がり続けた。




