第1話 終電と転落と、地味スキル
「おい田中ァ! なんだこの資料は。数字が合ってねえだろうが!」
深夜二十三時四十五分。
誰もいない駅のホームに、怒声が響き渡った。
「す、すみません、黒崎部長……。ですが、その数字は先方が急遽変更を……」
「言い訳すんなっつってんだよ無能が! 俺の指示通りに動けねえなら辞めちまえ!」
黒崎豪。四十二歳。
営業部長という肩書きと、日焼けサロンで焼いた黒い肌、そしてギラついたブランド物のスーツ。
典型的な体育会系のパワハラ上司であり、俺——田中蓮の精神を削り続ける元凶だ。
(……帰りたい)
俺は心の中で溜息をつく。
今日も朝から晩まで黒崎の個人的な用事——ゴルフ場の予約やら、愛人へのプレゼント選びやら——に付き合わされ、本来の業務が終わったのは終電間際だった。
それでもこうして、駅のホームで説教を受けている。
「おい聞いてんのか田中! お前みたいな覇気のない奴はな、どこ行っても通用しねえんだよ。俺みたいに常に貪欲になれっていつも言ってんだろうが!」
「はい……おっしゃる通りです」
反論はしない。それが一番早く終わる方法だと、三年間の社畜生活で学んでいたからだ。
遠くで、電車の接近を知らせるアナウンスが鳴る。
まばゆいヘッドライトが、暗い線路を照らし出した。
「チッ、電車かよ。……おい、明日の朝までにこれ直しておけよ。ゴルフ行く前の車の中でチェックするからな」
黒崎が持っていた鞄を乱暴に持ち直した、その時だった。
「……え?」
酔っ払っていたわけではないだろう。
ただ、黒崎の革靴が、雨で濡れた点字ブロックの上で滑った。
体勢を崩した黒崎の手が、藁にもすがる思いで俺のネクタイを掴む。
「う、おぉっ!?」
「ぶ、部長!?」
強い力で引き寄せられる。
俺の体は、黒崎に巻き込まれる形でホームの端へと投げ出された。
浮遊感。
警笛の音。
迫り来る鉄の塊と、強烈な光。
(ああ……やっと、眠れるのか)
恐怖よりも先に、安堵にも似た感情が浮かんだのを覚えている。
そして、俺の意識はホワイトアウトした。
***
「——というわけで、君たちは死んだ。すまないね」
目が覚めると、そこは真っ白な空間だった。
目の前には、光り輝く玉座に座った老人がいる。神様、というやつだろうか。
「はあ!? 死んだ!? ふざけんなよ!」
隣で喚いているのは黒崎だった。
死んでもそのギラギラした生命力は変わらないらしい。
「俺はこれからもっと稼ぐんだよ! 女も金も地位も、まだまだ手に入れる予定だったんだ! 生き返らせろ!」
「まあ待て。生き返らせることはできんが、異世界への転生なら用意してある」
神様は淡々と言った。
そして、俺たち二人を見比べる。
「転生にあたって、君たちの魂の『欲望』と『適性』に応じたスキルを与えよう」
まずは黒崎だ。
神様が手をかざすと、黒崎の体が金色のオーラに包まれる。
『強欲。支配欲。自己顕示欲。……ふむ、見事なまでに俗物的だ。ここまで強ければ、それは力になる』
「おお……なんだこの力は!?」
「君には【剣聖】【神速】【カリスマ】【金運】【魔力覚醒】を与える。所謂『勇者』としての素質だ。好きに暴れるがいい」
「はっはっは! 最高だ! やっぱ俺は選ばれた人間なんだよ!」
黒崎は高笑いしながら、自分の筋肉を確認している。
次に、神様が俺の方を向いた。
「……さて、君だが」
神様の目が、少しだけ細められた。
かざされた手からは、黒崎のような派手な光は出ない。ただ、俺の左目が少し熱くなっただけだ。
「……お前には、欲がないな」
「え?」
「諦め、忍耐、無関心。……魂が疲弊しきっている。これでは強い力は与えられん。この世界において、執着こそが力の源泉なのだから」
神様は残念そうに首を振った。
「君に与えられるのは【魔眼】のみだ。それも、現段階ではほんの数秒先が見える程度のな。……まあ、生き残れるよう努力することだ」
***
転移した先は、王城の謁見の間だった。
煌びやかなシャンデリア。整列する騎士たち。そして、玉座に座る国王。
「おお! 予言にあった勇者よ!」
国王たちが駆け寄ったのは、当然、黒崎の方だった。
全身から金色の魔力を垂れ流している黒崎は、誰がどう見ても英雄そのものだった。
「ふん、まあいい気分だ。王様よ、俺がこの国を救ってやる。その代わり、報酬は弾んでもらうぜ?」
「もちろんですとも! さあ、勇者様には最上級の部屋を用意してある! 宴の準備だ!」
黒崎は王や貴族、美しい姫君たちに囲まれて奥へと消えていく。
そして、その場に残されたのは俺だけ。
「……ええと、そちらの方は?」
宰相らしき男が、ゴミを見るような目で俺を見た。
俺はステータスプレートを渡す。
「……スキル『魔眼(Lv1)』? 魔力値……一般人以下? なんだこれは」
宰相は鼻で笑った。
鑑定の水晶が、俺の能力の低さを残酷なまでに証明していた。
「勇者様のおまけか。……おい、こいつを使用人部屋に放り込んでおけ。勇者様の従者としてなら、使い道もあるだろう」
「はっ!」
兵士に乱暴に腕を掴まれる。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 俺も……」
「黙れ『ハズレ』が。勇者様と同じ空気を吸えるだけありがたく思え」
引きずられていく俺を、誰も助けようとはしなかった。
廊下の向こうから、黒崎の高笑いが聞こえた気がした。
***
与えられたのは、城の地下にある薄暗い使用人部屋だった。
カビ臭いベッドが一つあるだけの、独房のような部屋。
「……はは」
乾いた笑いが出た。
異世界転生。
アニメやゲームで夢見たそれは、もっと輝かしいものだったはずだ。
「異世界に来ても、結局は社畜かよ……」
俺は硬いベッドに身を投げ出した。
左目が、ずきずきと痛む。
鏡を見ると、左目だけが酷く充血していた。これが魔眼の代償なのかもしれない。
数秒先が見える。
それだけの力で、チート勇者となった黒崎の下で、この理不尽な世界を生きていかなければならない。
「……でもまあ」
俺は天井を見上げた。
「生きてるだけ、マシか」
諦め癖がついた俺の心は、怒るよりも先に状況を受け入れようとしていた。
それが、俺の弱さだとも知らずに。




