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上映開始の合図です

「や、越川」


あまりに油断して、ぼーっとしていたものだから体全体が波打つように、ブルっと震えた。


「…西条さん」


上映の5分前。ポツポツと人が来て、劇場の準備が整ってゆく。ポップコーンの匂いは、映画館の匂い。この先にある、喜劇か、悲劇か、あるいは…。まぁ、それを待ち望み、気分を高揚させる同志が確かに居るのが分かる、良い匂いであるのだ。


しかし、それが崩されたというか。台無しとまではいかないのだけれど、彼女のせいで少し心の揺れが小さくなってしまった。


「そんなにビックリして。また驚かせちゃうかもよ?」


どこで観るのか、ましてや今日観に行くのか、そもそも観に行くつもりがあるのか。何も教えてないものだから、完全に油断してしまっていたな。


それと僕は昔から、特に集中している時、声をかけられたり、とんとんと肩を触れられたりすると、体が習性のように大袈裟に驚いてしまう。


例えば、定期テストの時。先生の見回りが、その1時間弱の間に幾つかあることは知っているのに、教室へガラガラという音が静寂の中響く時、声もなく、体だけが大袈裟に波打って困るのだ。


「残念ながら席はハズレ…か。終わったらちょっと待ってて。私はもうちょっと後ろの方だから」


そして彼女は西条さいじょうさん。僕のたった一人の映画仲間である。僕にとって、誰かと観て、感想を言い合うのが良い映画と、一人で観て、感想を頭に閉じ込めながら一日中ぐるぐるとさせるのが良い映画がある。彼女には、それを一つとして理解してくれないという難点がある。


「分かってないな」なんて言うと、「分かってないよ」と開き直られてしまうのだ。


前にも同じようなことがあった。しかしその時、ああいう作品に感想というより考察を挙げ合うのが、想像を越して良かった。そして、それがなんとなく嫌だった。


僕は昔、中学生になって少し経った頃、行動範囲の広さにワクワクしていたあの頃。お小遣いでなんとなく観た映画に心打たれた。そのスクリーンに自分が入り、目前に広がる薄暗い世界の、あの感覚。そして、自室にて深く考え込んで、その日の終わりまでも、次の朝も、呆然としていたあの感覚。その全てが、あまりに刺激的だった。


それからというもの、色々な映画を観たと思うけれど、どれも千円札で手に入れるには破格に感じた。しかし、前に西条さんと観たあの映画の世界は、次の日には忘れてしまっていた。


僕が悪いのだろう。簡単に忘れてしまう僕が。それでも、この映画も明日には忘れてしまうかもと思うと、彼女と観るのが嫌になる。


そう考えているうちに、スクリーンに映る灰色が横にぬっと伸び、暗転した。


ーーーーーーーーーー


エンドロールが終わると、続々と人が出口へ流れて行った。呆然とする僕の横を、感想を言い合う人達が通ってゆく。ラストのシーンの意味。あのシーンが良かった、凄かった。あそこに行ってみたい。


こんな話でさえ、今は耳を塞ぎたい。僕の中の純粋な感想をまとめ、覚えておきたいのだ。


「越川…一旦出よう」


西条さんの顔は別人かと思うほど変わっていた。気持ちはよく分かる。なんなら僕だって今あんな顔になっていることだろうし。


無言のまま2人で映画館の入り口を出て、そのままファミレスへと入った。辺りの騒がしさとか、少し雨が降ってるとか、前から大きな外国人観光客が来るとか。全ての事が、気づくのにひとつ遅れた。


「やば…かった」


沈黙の中、先に口を開いたのは西条さんだった。しかし、これにパッと言葉を返せるほど頭の整理はついていなかった。


近くのテーブルの家族連れのお父さんが、ひとつ笑い終えた時、僕も口を開いた。


「ラスト…凄かったなぁ。怖すぎて震えた」


「ね…鳥肌たったもん」


最初に頼んだクリームソーダは既に半分ほどしか残っておらず、とりあえず僕から離しておいた。


猟奇的で、でも動機があまりに人間的で、自然と観客は世界の終わりを熱望してしまう。そんな世界なら…と。心に空いていた穴の形をじっくりと確かめさせられるような、そんな映画だった。


ふと、脳裏にエンドロールの曲が流れた。


「主題歌さ、めちゃくちゃ良くなかった?」


「うん、最後マジで痺れた」


離していたはずのクリームソーダは、いつの間にか残り4分の1程度。氷に溶け込んだアイスクリームを、スプーンでジャリジャリさせながら削ぎとっていく。


「もう1回観ようかな」


「あ…越川も?」


「あ、次は一人で観たいんだけど…」


「さぁ、出来るかな?」


西条さんは意地悪く笑う。にしても、何も言わずによく僕と一緒に観れたな。


僕と西条さんは同じ高校だし、金曜は無理だから公開の次の日。でも、できるだけ早く観たいから土曜日の朝に最寄りの映画館に行く…


考えれば推測できることなのだろうが、実行してしまう彼女が恐ろしい。僕だって西条さんだって、有り余る金がある訳でもないのに。


「ねえ、西条さん。なんで一緒に観たがるわけ?」


頬杖をつき、窓の外を眺めだした。てってってと走ってゆく子供に目を奪われたのは、多分西条さんも同じである。


「ああいう映画観たあとってさ、ふと…現実に戻れなくなるというか…ああいうのが起こるんじゃないか?みたいな恐怖が強くてさ」


あれ…真面目に話すんだ。と不意に思った。偏見というのは、当の本人は気が付かないものだ。良くないな。西条さんだって一人の人間なのだ。


「…私さ、一本の映画で人生が狂ってしまうんじゃないかって、たまに不安になるんだ」


「…それを僕に止めろって?」


「あぁ…それもちょっと違うかもなぁ。映画の感想を喋り合いたいだけ。特にああいう映画はさ。一緒に観ても、結構感想って変わるじゃん?越川は結構感想が変わってるしね。そういうので若干、心が楽になったりするんだ」


「メンタルケアってわけか…」


「そう、それ」


思わず吹き出した。それまですごくいいこと喋ってる感じだったのに。まぁ、あえて台無しにしたのかもしれないけど。


「メンタルケアありがとうね。助かったよ〜」


伸びをすると、西条さんは荷物をまとめ始めた。まだ入って30分も経っていないのに。


「もう帰るの?」


考えるよりも前、口が動いていた。その動いた口の言葉を耳が確かめ、赤くなった。


「なんだ、もっと一緒に居たいってか?」


本音はそうなのかもしれない。ただ、このまま1人になってしまうのがなんだか怖くなった。


うんとも言えず、ただ黙りこんだ。


「…はぁ、仕方ないな。お昼にしますか」


西条さんは席に用意されたタブレットをよいしょと取り、あれもいいなこれもいいなと吟味を始めた。


僕はソワソワしながら、彼女の吟味の終わりを待つ。僕は太ももの上に置いた手を、意味もなく上下に滑らせていた。


いつも思うのだが、なぜ西条さんは僕に構ってくれるのだろうか。はっきり言って顔立ちも良いし、愛想も良い。


学校で僕らはほとんど喋らない。なんとなく、周りの目線というのが僕に壁をつくらせてしまうのだ。


その反面、映画を一緒に観るとき、ものすごく話しやすく感じる。西条さんは、すごく変わってる方だと思う。素直に思ってることを他人に話せたり、怒ったことがなかったり、今日みたく行動力が凄まじかったり。


いわゆる、自由人みたいな人だ。僕はそういうところでは、誰よりも尊敬しているはずである。


「ほい、越川は?」


目の前に突き出されたタブレットを手に取り、さりげなく注文履歴を確認すると、ボロネーゼとパンのセットがひとつ入っていた。


「あのさ、越川。もしもの話なんだけどさ」


そう言うにしてはいつになく真剣で、重大なことのように感じた。タブレットから目を離し、西条さんの方へ視線をやる。


「…最後の………最後の晩餐が選べるなら何がいい?」


死ぬの?


という言葉が真っ先に浮かんだ。でも、言えない。一瞬にして嫌な妄想に頭が包まれた。それが自分の中で事実になってしまうような気がして、言葉が浮かばなくなってしまった。


ただ、この問いかけに答える以外には、何も思いつかなかった。


「あえての…ピザ?」


多分僕が最後の晩餐にピザを選ばないのは分かっている。でも、もし今が最後の晩餐ならピザを選ぶ。


「その時食べたいものを食べたいってこと。それが最後に食べるものでも」


注文履歴にはマルゲリータが追加された。


「じゃあもし…」


西条さんはそう言って、言葉を止めた。頬杖をついていた手で口を抑えていた。


なぜそこで止めたのか。何に呆然としているのか。窓の外を見てようやく理解し、僕も止まった。


向かいの駅の窓から大量に火が漏れていた。ぼうぼうと、残酷に燃えていた。




京都駅である。

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