「天帝」流浪
〈退院後一年過ぎて秋模様 涙次〉
【ⅰ】
*「天帝」は醫療刑務所を出所した。彼の自分を「天帝」だと信じてゐる「病氣」は一向に平癒せず、謂はゞ愛想盡かしと云ふカタチで放り出された、と云ふのが眞相である。
彼には平熊勇實と云ふ、れつきとした人間としての名前があつた(平熊と云ふ姓は、熊襲征伐に功があり、と云ふ事。由緒正しい家系なのだ)。カンテラは彼の家に招かれた。「儂が本物の『天帝』か、人間の寸借詐欺師であるかだうかは、カンテラ氏にしか分かるまい。醫者には判断が付かないのだ」と云ふ譯である。
* 当該シリーズ第75話參照。
【ⅱ】
教へられた住所を訪ねると、其処には一戸建ての家があり、表札にはちやんと「平熊」と記されてゐる。寸借詐欺でも、家は買へるのだ、結構騙される者も多いのだなあ- カンテラは變に感心し、ドアの呼び鈴を鳴らした。
何時も通り(杵塚に教へられた通り)の白髪・白髯・白衣と云ふ白づくめの「天帝」が出て來た。「やうこそお出でなされた。さ、上がつて下され」豪邸でもなし貧乏長屋でもなし、極く普通の中流の家族が住むやうな家である。カンテラは事務所の「相談室」以外のところで、依頼人と向き合ふのは初めてだつた。
【ⅲ】
「お祖父ちやま、この方がカンテラさん?」-「天帝」には孫娘がゐた。名を華代と云ふ。「粗茶ですが」-躾もしつかり行き届いてゐるやうで、礼儀通りに客に應對する。歳の頃なら20歳過ぎと云つたところ。彫りの深い顔が「天帝」に良く似てゐる。
カンテラは「天帝」の云ひ分を聞いた。
※※※※
〈世界観提示出來ると人の云ふ自分の世界持つは難し 平手みき〉
【ⅳ】
「儂は別段人間に害をなす積もりはない。かと云つて人間逹が天を疎かにするのは黙つて見てをれん。それを裁判官は理解せず、醫療刑務所などゝ云ふところにぶち込まれたのも一度や二度ではない」-「平熊さん、いや『天帝』さん、私は貴方のやうな人がこの世にゐるのは、別に構はないと思つてゐる。たゞ、借りたカネは返すものだ」-「いやあれは喜捨なのだ。天に貢ぐ事は人にとつて喜びであるべきなのだ」
カンテラにはこの男が本物の天界の帝王・「天帝」だとは思へなかつた。が、本当のワルだとも思はなかつた。「貴方は貴方の道を行くがいゝ。それでまたぶち込まれても私の関知するところではないが」
【ⅴ】
胸騒ぎがした。突然の事である。カンテラ、差し料、傅鉄燦を身元に引き寄せ、やにはに立ち上がつた。「儂を、お斬り召されるか」-「いや、ふと感ずるところがあり」-カンテラ、氣のせいか、と思ふ。だがそれは彼らしくないミスジャッジだつた。華代が出刃庖丁でカンテラの脇腹をずぶりと刺したのだ! 丁度(?)それは急處に当たつてゐた。豫想だにせぬ攻撃に、カンテラ、奈落へと墜ちて行つた...
【ⅵ】
「だうかしたの?」-それは白晝夢であつた。10月の陽光は余りに氣怠い。悦美がカンテラの顔を覗き込んでゐる-「夢、見てた」。汗びつしよりである。
テオの調べでは、「天帝」はまだ醫療刑務所を出所してゐない、と云う。また、彼は所謂「住所不定」で、孫もをらず、天涯孤獨の人生を、流浪を供に送つてゐると云ふ。名前も、平熊勇實などゝ云ふ立派なものではなく、金田勲と云つた。彼の國籍は北朝鮮だつた。
(あれは、「天帝」の願望の世界だつたのだ... 俺は其処に紛れ込んでゐたに過ぎん。然しこの俺を殺すとは???)。カンテラ、何やら噓寒い心地で、氣付けにと悦美が差し出した火酒を、ぐいと呷つた。カンテラ外殻がゆらゆら揺れてゐた。
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〈十月は湿つた土の匂ひかな 涙次〉
【ⅶ】
所謂「夢オチ」で濟みません。たゞ作者、【魔】には皆さん飽きたかな、と思ひ、かう云ふものを書いた譯。「天帝」- 彼こそは魔界盟主に匹敵する魔力の持ち主だつた、と云ふエンディングで、如何がだらうか。夢から醒めたカンテラは何故か、「天帝」より押し頂いた依頼料を握り締めてゐた、と云ふ。それではまた。