消したタバコ、されどCRY IN DEEP RED
――自殺の前の、ほんの僅かな寄り道のつもりだった。
曇った昼下がり、無機質な地べたの寒さが、靴の裏から這い上がりそうだ。予報ではそろそろ雨が降るらしいが、もう傘はいらない。
墓石に供えた真っ赤な花を見つめ、オレはライターを押す。反対の手で火を隠しながら、線香ではなく咥えたタバコにつけた。
この火は何も変えられない。この寒さを暖めてはくれない。
だが、此処が厳かな禁煙スペースだからだろうか。いつも吸っているセブンスターなのに、あの日と同じ味がする。
懐かしくて優しい、暖かいあの味だ。
初めてタバコを吸った時からもう十五年も経つ。あの頃は未成年という聖域にいて、全てが禁煙スペースで刺激的だった。だが、社会で同じ日々を休みなく繰り返し、気がつけば三十歳、残ったのは希死念慮だけだ。
咥えたタバコを三本指で離す。
吐いた煙がいつもよりも白く残った。寒さのせいだろうか。いや、オレには本当の理由がわかる。
この煙は、君の分だ。
目に見えないだけで、十七歳のままの君がいる。だから、二人だけで吸ったあの日々の、貰いタバコの味がするのだ。
それでも赤い花を供えた墓石に、君を意味する言葉は刻まれていない。
君は親から否定された。だから、親からもらった名前を否定した。
「"紅姫"こそが本当の私だからね」
ブリーチ剤で痛んだ綺麗な髪を揺らし、ネットで名乗った名を、笑顔で誇っていたその姿は、華やかなのにどこか自虐的だった。
タバコにまた口をつけ、煙を吐き出す。
そうだ、思い出した。君もタバコを三本指で持っていた。銘柄はもちろん、火の付け方だって君と同じだ。
本当に、本当に、笑えるくらい大好きだった。
あの日の記憶が目に染みる。瞼の裏に隠れていた、愛しくて痛い日々が、ゆっくりと溢れ出し、両目から雫となって、石畳に零れ落ちた。
何も知らない歳下だったオレに、君はタバコと愛を教えてくれた。
でも、ずっとわからない。助けてもらっただけのオレは、君の何だったのだろうか。少なくとも「恋人」ではない。オレが恋人だったなら、君を刺したあの男を、ニュースキャスターは「交際相手」と呼ばなかった。
答えてくれない問いを煙に乗せ、澱んだ空へと吐き出す。
不自然なほど柔らかい風に、タバコの煙が流された。その微かな音が、なんだか君の笑い声に似ていたような気がする。
「本当に繊細な子だね」
昔、君から言われた言葉が頭をよぎった。
ああ、わかってるよ。だけど、あと少しだけ、想い出の中にいさせてくれ。
……?
突然、スマホが小刻みに震えた。驚きのあまり涙が止まる。このリズムは着信だ。
反射的にポケットから取り出して画面を見ると、縁が切れていた大学の友達の名前が表示されている。
今は誰とも話したくない。そのはずなのに、応答の文字をタップしていた。
「もしもし」
「おぅ! 久しぶり! 急だけどさ、来週の土曜日空いてるか? なんかみんなで飲もうって話になったから、おまえも来いよ」
タイミングが悪すぎる。オレはこれから死場所にいくのだ。
でも、君ならきっと、寂しそうな笑顔でこう言うのだろう。
「私なんか忘れて、飲みに行きなよ」
まるで夢の中にいるような感覚に身を任せ、行くとも行かないとも取れる、曖昧な返事をしてしまった。
一言二言交わして通話を切ると、意識は墓石の前に戻る。
……私なんか忘れて? そんなこと言うなよ。それだけは嫌だ。
タバコを吸って三本指で離し、煙を空へと吐き出す。少しだけ晴れ間が見えていた。天気予報は外れたようなので、傘はいらないだろう。
まだ吸えるタバコを携帯灰皿でシケモクにし、元来た道を振り返る。
涙がまた流れた。
だけど、ゆっくりと帰り道を歩き始める。