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楽して生きれるほど甘くはない世界で。  作者: 成田楽


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35/74

35……《既に誰の記憶にも、記録にも残されてない》

 その日は朝早くから雨が降っていた。


 それほど雨粒は大きくなく強い雨ではないが、そのパラパラした細かい雨粒は簡単に風で流され、そんな横から吹き付けてくる雨には不快感を隠せない。


「クソウザい」


「お嬢様、レディがそのようなはしたないお言葉を使ってはなりませんよ」


「黙ってろ」


「まったく……当主様が見ればなんとおっしゃられるか」


「あれの前だと可愛い娘を演じてるだろ」


「そのような問題ではないのですが……」


 美しく着飾った女性の隣を歩きながら、タキシードを着こなす女性はやれやれと頭を押さえる。


「そもそもお前を雇ってやってんのはあたしなんだ。お前をクビにだってあたしの裁量でできるってこと忘れるな」


「そうおっしゃられましても、このようにお嬢様の言葉遣いを正すことも私の仕事ですので」


「そんな命令をした覚えはない」


「当主様からの指示でございます」


「あたしが雇い主なのにか?」


「私を雇っていただけたのも、当主様のお許しも上でのことです。お嬢様のおかげでこの身が生きられている事実はありますが、当主様の機嫌を損ねてしまうことがございましたらお嬢様の意思関係なく私は職を失ってしまいます」


「お前ならどこでも働けそうだがな」


「この仕事を気に入っておりますので」


「ふん。こんな理不尽に連れられてもか」


「理不尽という自覚があるのでしたら控えていただきたいものですね。雨天だというのに急にお出掛けになられるとは」


「文句を言う割には初めからこうなるとわかってたかのように着いてきたじゃないか」


「お嬢様のことは知り尽くしておりますから」


「キモいな」


「ですから、言葉遣いには──」


「はいはい」


 面倒だからと言葉に言葉を被せて終わらせる。


「それにしても、ほんと他と比べて劣った町だよ」


 足元はぬかるんでいておぼつかない。


「金さえあれば固められるのにな。町が劣ってるってよりはあいつの能力不足か?」


「領民の方々にも当主様にも聞かれてはなりませんからね」


「わかってる」


「ならいいのですけど……」


「あいつが身を引いたらあたしが大きくしてやるさ」


「お嬢様がでしょうか?」


「女にはできないって?」


「いえ、お嬢様に限っては全くそう思えませんね」


「ふん。そうか」


「それにしても当主様に内密でこのようなことを行なって、失敗すれば勘当もありえるのではないでしょうか」


「知らんな。もしそんなこと言い出すのならあいつには早々に隠居してもらおう」


「お嬢様……」


「ところでだ。大々的に宣伝するわけにはいかないだろう」


「そうですね。家の名を使えば支援金を多く募ることができ、今後の運営も楽になるでしょう。それに、民からの信用も格別なものとなります。ですが、それをしてしまえばすぐさま情報が当主様まで流れていくでしょう」


「活動前にあいつに知られるのも、あいつの力を頼ることになるのも許容できない。なにか案はあるか?」


「お嬢様自身でお考えになられないのですね」


「なんのためにお前を側に置いてると思ってんだ。お前のことだから色々考えがあるだろ」


「そうですね……手っ取り早いのはやはり、前例を作ることでしょうか」


「前例か」


「これからやりますよりは、こういうことをやりました。やっていますと言えた方が活動内容を信用していただけるのではないでしょうか」


「とっ捕まえるって?」


「そうは言ってません。あくまでそれができれば手っ取り早いという話です」


「他の案は?」


「教会を頼るのはいかがでしょうか」


「あんなくだらん胡散臭い連中をか?ふざけているのか?」


「お嬢様が教会を信用していないのは承知していますが、大きな影響力を持っていることも確かです」


「ちッ……」


「お嬢様が自ら宣伝して歩くという手もありますが」


「他は?」


「経費が十分にあれば宣伝費を捻出して広めるという手もあるのですが、お嬢様が自由に使用できるお金もそこまで余ってないですよね」


「土地にも建造にも環境にも金を使い過ぎた」


「そうですよね。となるとこの案も実現は厳しいですね」


「……治安が悪いとこはどこだ?」


「行く気ですか?」


「もちろんだ」


「控えていただきたいところですが……わかりました。もしもの場合は必ず私の後ろへ下がってくださいね」


「あぁ」


 二人はそれから、町外れのいわゆる貧民街と呼ばれる場所まで歩いた。


 その環境は酷いもので、気を抜けば足を踏み外して転んだり捻ったりしてしまいそうなほどガタついた地面。アンバランスに立ち並ぶ、今にも崩れそうなボロボロの家屋。


 鼻を押さえたくなる臭気。汚物や腐敗物に寄り付く虫がそこら中に姿を現していた。


「なんとかしてやりたいものだが、そう簡単な話じゃないんだろ」


「そうですね。誰もが分け隔てなく平等に生活できるのなら、その分怠惰なものも増えてしまいます。だからこそ差を作り、下には落ちたくないと思わせる。もしくは見下せる対象を与えることで民の士気の上昇を図れますので」


「気に入らんな」


「お嬢様が当主になられましたら改善してみてはいかがでしょうか」


「あいつの考えは古いからな」


「……お嬢様、あちらを」


「ん?」


 促された方向には、足を抱えて座り込む少年の姿があった。


「親無しか?」


「聞いてきましょうか?」


「いや、あたしがいく」


 少年は視線を足元に落としていて、二人の会話にも気付いた様子が無い。


「おい」


「……」


「おいお前」


「……」


 呼びかけても反応が無い。仕方なく目の前にしゃがみ込む。


「おい」


「……?」


 気力のない目と視線があった。


「親は?」


「……いない」


「それは出掛けてるってことか?」


 少年は無言で首を横に振った。


「死んだのか?」


「……わかんない」


「いつから居ないんだ?」


「……すごくまえからいなくなっちゃった」


「丁度いい。お前をあたしが経営する孤児院の第一の孤児にしてやろう」


「え?」


「え?じゃなく、はい。だろ」


「は、はい」


「これからお前の人生はあたしに預けてもらおう。お前が馬鹿なことをしでかさない限り、人生の安寧を約束してやる」


「……はい」


「お前はこれからあたしの子として扱おう。長男だ。お前はあたしのことを母上と呼べ」


「ははうえ……?」


「不服か?」


「お嬢様」


「なんだ?」


「お嬢様はお家柄がよろしいので母上、父上とお呼びになられていましたでしょう」


「あいつは父上とは呼べんがな」


「……しかし、平民の場合、そこまでかしこまった呼び方はせず、お母さんやママと呼ぶことがほとんどかと。それにこの年齢で身よりがないとなると、教養も薄いと思われるので母上と言われてもわからないのではないでしょうか」


「お前もそうだったのか?」


「私はお母さんと呼んでいました」


「そうか。なるほどな。じゃあお前はお母さんのことをなんて呼んでたんだ?」


「……まま」


「ならこれからお前はあたしのことをママと呼べ」


「でもままは……」


「でもじゃない。あたしがママだ。いいな?」


「……」


「返事は?」


「ッ、はいまま」


 少年は勢いに流されて、訳も分からずただ返事をした。


 少年はまだ知らない。目の前にいる人がどんな立場の人なのかを。


 この出会いが、これから訪れる波乱の人生の幕開けだったということを。


「お前、名は?」


「モリジン……です」

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