モノクロームの夕陽
夕暮れ時に窓から射し込む橙色の柔らかな光は、優しい色なのに切なくて、温かな色なのに悲しみを覚える。
木の板と油絵の具が混ざりあった独特の香りを抱えた美術室で、窓の外の景色と向かい合いながらスケッチブックを描く彼の姿を見てそう感じた。
温もりは長い長い影と手を取り合って、黒板の脇に一つの像を作りだす。
歪んだ円を上に乗せ、自身も平行四辺形に見せかけた歪な四角形。
シルエットだけを見せられたらこけしのようにも見えるそれは、椅子に座った人の影。
私は描きかけだった風景画をそのままにしてスケッチブックを一枚めくると、黒板に映し出されたものを白紙の上に写し取り始めた。
濃い緑色の黒板に濃い黒を落とす長い影。その上にうっすら張られた橙のカーテン。
受験を控えて引退をした3年生。
修学旅行で登校してない2年生。
名前だけで顔を見せない1年生。
偶然と必然と。
もしかすると世の中はみんなそんなことばかりかもしれないけれど、色んな事が重なって今日の美術室は私と彼の二人だけ。だからこんなことをしてても気付く人は誰もいない。
同じ学年で、クラスメイトでもある彼、鈴代新汰くんは、普段から一人でいる時が多いように見えた。
窓際の席でいつも何か本を読んでいて、時折ぼんやりと外を眺めている。
話し掛けられれば答えるし、笑顔を見せることもある。
一人でいることが多いけど、孤独ではない様子の彼。
新しい環境、新しい関係。
知らない事、知りたい事。
眼の前に広がる未知の大海原に目を輝かせている周りが眩しくて、目が眩んで入り込めなかった私。
一人でいることが多くて、独りでいることが多い私。
寡黙で話をしない彼。
苦手で話が出来ない私。
同じように見えて全く違う人。
今もこうして同じ場所で同じように絵を描いているけれど、きっと見えているものも、描いているものも、同じようで違うのだろう。
だから私は違うものを描いてみようと思った。
表面張力で盛り上がる水のように、白い雲の器の縁からオレンジ色の輝きが溢れている夕方の空ではなく。
漏れ出した光の帯をスポットライトのように浴びた中庭の木々でもなく。
目の前の黒板とそこに伸びる影。そして影の主。
眩い輝きが生み出した輝くことのないものと輝きに照らされた眩いもの。
「なに?」
描くことに夢中になっていた私は、目に映るものを一つの景色のように見ていた。
風に木々の枝葉が揺らされても、それはそういうもの。
川の水面に反射する光が煌めいていても、それはそういうもの。
それと同じように、鈴代くんが私を見つめていても、それはそういうもの、と思ってしまって、声を掛けられるまで気付けずにいた。
「……あ」
美術室には二人だけ。だから、周りは誰も気付かない、そう思っていた私は、被写体である彼が気付く可能性を考えていなかった。
被写体と言っても人であり、その被写体には了承を取っていたわけじゃない。じっと見ていればいつか気付くのは当然なのに。
そんな自分の迂闊さを罵りながら、心の中ではたくさんの言葉が、沸騰した湯に浮かぶ泡のように、次々と浮かんでは消え、弾けては浮かびを繰り返す。
形をとっても言葉になっても、それを音にする前に、声として口から発する前に、ぱちんと消えてしまうから、漏れ出た声は間が抜けた音だけで。
「どうして美術部に入ったの?」
ようやく形になった言葉は、自分でもなぜそんなことを聞いたのか説明出来ない質問だった。
彼は一度俯くように首を傾げると、立ち上がって窓ガラスに手を当てる。
「これぐらいしかないから」
窓ガラスに添えられた手が握りしめられる。
「これぐらいしかないはずなのに、それすらも上手くできないけど」
「鈴代くんの絵は上手いと思うよ」
それはお世辞ではなかった。
彼が鉛筆で描く写実絵は、どれもていねいで緻密に書き込まれていて、私はいつも羨ましいと感じていた。
「細かいところまで正確で、綺麗で」
「それだけだよ」
彼がこぼした笑みを見て私は悔しくなった。では「それだけ」すら出来ない私はなんなのか。
「正確に真似ることぐらいしか出来ない。それだけだよ」
けれど、続けて繰り返された謙遜の言葉はどこか違って聞こえた。
謙遜ではなく、むしろ自嘲。
「以前は自分でも上手く描けると思ってた。刈谷さんのように、褒めてくれる人がいて、自分でもそうだと思っていた。
でも、違った」
「そんなこと……」
「表現したものを違った印象で捉えられたり、気付かれることなく見向きもされないこともあったりすると、描きあげたものに自分は存在してないように感じたりすることもあった。
でも、伝わらないことは仕方のないことだって思えた。
自分の目にしたものが上手く表現できない、伝えられない。ただそれだけ。
それよりも、伝わりもしない、満足に表現できもしない、そんなものを描いていて意味はあるのかって思った。
そう思ってしまったら、何も描けなくなった」
鈴代くんの表情は笑顔のままで、その声は感情の波を抑え込むように、抑揚がなく穏やかで。
窓辺から射し込む光と影は、彼自身の姿を陰と陽に分けていた。
「鈴代くんの描く絵はとても綺麗だと思う。羨ましいほどに」
外で風が木々を揺らしたのか、鈴代くんに映る影が水面に反射する光のように揺らめいていた。
その光がそう見せたのか、それとも本当にそんな表情を浮かべたのか、彼の表情は笑顔のままだったけれど、どこか柔らかく変わったように見えた。
「ありがとう。写しとっただけのものでも、そう言ってもらえると嬉しい」
でも、と彼は続けて、美術室に立て掛けられていた描きかけの一枚の絵の額縁に触れる。顧問の先生が置いていった描きかけのように見える絵。
授業で使うからと言っていたそれは、きっとずっと描きかけのままで。もしかしたらこれで完成しているかもしれない絵。
下書きと陰影と重ねられた彩り。
「……色っていうのは、光が物に当たった時、吸収されずに反射された波長を目で捉えて、脳が理解して感じたもの。
認識できる波長の範囲は人によって違うから、見えている色も僕と他人で違うかもしれない。
そう思うと、色が分からなくなった。怖くて、色をつけることが出来なくなってしまった。
だから僕は、刈谷さんの絵が羨ましい。
そこに描かれた彩りに希望や温もりを感じるから」
例えその言葉が私に気を遣って言われたのだとしても、褒められることは嬉しかった。
「……ありがとう」
手元のスケッチブックを見る。そこにはさっき描き始めた美術室と鈴代くんがいる。
黒板の上に映し出された白と黒の世界。けれど、白と黒だけではない世界。もしもこれを彼が描いたら、どんな風になっただろうか。
私の見ているものと、彼が見ているもの。
彼の言う通り、同じものを見ていても、違った色になるのだろうか。
描きたいものが描けなくて、伝えたいものを描けない。
それでも描かれた彼の絵は綺麗だ。
私がもし彼と同じように、自分の描いたものに意味はあるのか、と疑念を持ってしまったら、私は彼のように描き続けられるだろうか。
「……それじゃ、なんの為に描いてるの?」
酷いことを聞いたかもしれない。
それでも、気付けばそう口にしていた。
「刈谷さんが今言った通りだよ」
「え?」
そんな私の不躾な言葉に、彼が浮かべたのは怒りでも悲しみでも無かった。
彼は私を見て、変わらず笑みを浮かべた。
ただ、確かに笑みを向けられているはずなのに、その笑みもその瞳も、私を通り過ぎた先にあるように感じた。
「なんの為、なんだろうね」
中庭にある外灯がぽつりと点った。
肌色がかったオレンジのカバーから溢れ出す光は、夕陽とは違う寂しさのある光に見えた。
彼の言葉を借りるなら、この感覚も私の主観でしかなくて、彼にはまた違って見えているのかもしれない。
外灯に意識を取られているうちに、彼は学生鞄を手にして美術室の扉の前に立っていた。
笑みを浮かべていても、やはり傷つけてしまったのだろうか。不快な思いをさせただろうか。
振り返ることのない彼の後ろ姿を見てそう思う。
「もしも僕が、眩しいものを感じるままに描けるようになれば、少しはその理由も分かるのかもしれない」
彼は私に視線を向けることなく、独りごちるようにこぼして、扉を開けた。
夕日に照らされた中庭の木が、窓辺から彼の背中におぶさるようにして影を落としていた。
だから扉の前で少し立ち止まっていた彼が、部屋を出る前に振り返ったその顔にどんな表情を浮かべていたのか、私は見ることが出来なかった。
「それじゃあ、また明日」
私が彼の表情からその感情を推し量る事ができないまま、彼は部屋を出て行ってしまった。
また明日。
もしかしたら、彼を不快にさせたのかもしれないという私の不安が表情に出ていたのだろうか。
彼が振り返って告げた「また明日」という言葉は、僅かに残された夕陽の温もりのように私を包み込んでくれた。
絵のモデルを失ってしまった私は、記憶を元にして続きを描くか、諦めるかを数秒悩んで、諦めることを選んだ。
きっと彼と会話する前と同じものを描くことは出来ないだろう、そう思ったから。
ふと、彼の座っていた椅子の脇、焦げた茶色の木板の床に、1箇所だけ色を塗り忘れたような白を見つけた。
スケッチブックと比べれば小さな、A4ノートサイズぐらいの紙。
手に取り裏返してみて、私は言葉を失った。
美術室の後ろに掛かった小さな黒板。
彫刻刀で傷付けられた箇所から木の節がのぞいているくすんだ白の作業台には、窓枠が影を落としている。
その作業台に向かうようにして、スケッチブックを手にした私。
カメラをモノクロームにして撮影したような絵がそこにはあった。
でもどこか……
「優しい絵」
白と黒の濃淡だけで描かれた絵の上には、夕陽の中に感じた色味が重ね合わせられているように見えた。