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アルは、天界では特に問題児として他の天使達の手を煩わせていた。
そんな彼女が、三ヶ月前に実施された階級試験に合格し、見事、大天使の称号を手にしたとなると、驚かないものはいなかった。
「アザレス。私が、ですか?」
琥珀色の瞳が、疑いの目で後ろを振り向いた。顔立ちは中性的で、絹糸のようなブロンドの短髪はしっかりと手入れが行き届いている。
腕に包帯を巻く手を一旦止め、腰かけたソファ越しに背後の人物を見つめた。
「ああ、正確には支援だ。アルには一定期間、アザレス第一防衛ラインで前線の援護を務めてもらうことになる。
いけそうか?」
黒スーツに身を包んだ男がそう告げると、アルは顔を落として考え込んだ。
信じられなかった。まさか、自分が戦場に立つ日がくるとは。
「私が……」
そう小さく呟くと、やがて、彼女の口元が綻ぶ。
彼女にとってその要請は、これまでの努力が実ったことを表していた。
沸々と気持ちが昂り、肩を震わせながら喜びを嚙み締めた。
大天使となった天使は、その証として四枚目の翼を授かることが天界内では決まりになっていた。もちろん、それはアルにとっても例外はない。
大天使に昇格したことで、ついに、周囲の天使達も彼女の存在を無視できなくなっていた。
そして、三ヶ月の試運転期間を終え、ほかの大天使合格者同様、アルのところにもアザレスへの招集がかけられたのである。
アザレスへの遠征を快く受け入れ、アルは指示があった場所を目指して一人、回廊を歩いていた。
未だに実感が湧かないのか、大理石の床に反射する彼女の表情は硬かった。
すらっと伸びた背筋。白色の布を纏い、胸や腕には必要以上に包帯が巻かれている。引き締まった身体は、彼女を知らない者からすれば一見、男性と見間違えてしまうほど、端正で勇ましい雰囲気を漂わせていた。
「…………」
包帯の巻かれた足を踏み鳴らしながら進むアルを、頭上に描かれた静謐な天井画が見下ろしていた。そこには、雲の上に浮かぶ宮殿を囲うようにして、数多の天使たちがそれぞれに楽器を奏でている姿が写される。窓から注がれる光も相まって、本当に音色が聴こえてきそうなほど、繊細な描き込みである。
まるで、戦場へ向かう同胞を景気づけるように。だが、天井画の想いとは裏腹に、彼女の足取りは重いものだった。
どれぐらい歩いただろうか。途中、視線を感じ、通路の脇を見ると、そこには一人の青髪の青年が立っていた。
白と青を基調にした祭服に身を包む男に、アルはぴたりと足を止めた。相手もアルに気付くと、彼女の前にやってきた。
「カイト」
「さん、ね」
青年の名を呼ぶと同時に、彼は目上の者を敬う想いを付け加えた。にこりと青色の瞳が微笑み、その反応に、アルは懐かしそうに笑みを零した。
男の存在は、彼女にとって旧友であり、また親代わりでもあった。
アルは、幼くして両親を火事で亡くしていた。身寄りのなかったところを、親と仲の良かったカイトが引き取り、彼女はその後の幼少期を過ごしてきた。
二人、横に並んで歩く後ろ姿は親と子というよりも、兄と妹といった印象である。
「随分、薄くなったね」
久々の再会にも関わらず無言でいると、カイトから声を掛けてきた。
「ん?」
「クマだよ。もうあまり目立たない」
そう言うと、彼はアルを見ながら自身の目元を指さした。
反射的に、アルも自身の目元に手を添える。あまり気にしてはいなかったが、確かに最近、鏡に映る自分の顔色が良くなったという変化はあった。
「実は、薬を飲まなくても眠れるようになったんだ。カイトの、皆さんのお陰です」
そう告げると、彼の安心した表情が目に入った。
当時、アルは両親の死を受け入れられず眠れない日々に悩まされていた。重度の不眠症と診断され薬を処方していたが、最近になってその症状に回復の兆候が見え始めていた。
過去の自分がどれだけカイトに迷惑をかけたかを思い出し、思わず、申し訳なさで目を逸らす。
そんなことなど気にも止めず、彼は賞賛の声を漏らした。
「すごいじゃないか。よく頑張ったね」
雲り一つない眼差しで喜ぶ彼を横目に、アルはむず痒さを感じていた。
久しぶりの再会もあり、口調も素に戻ってしまっている。嬉しさが表に出そうになる気持ちを抑え、半ば強引に話を逸らそうと口を開いた。
「そ、そういえば、なんでカイトがここにいるさ。
『四大天使』の仕事が忙しいからって、私を部隊の方に預けたんだろ?」
その用語は、カイトの身分を表していた。天使社会に疎い彼女でも、その地位がどれほど偉大で多忙なものなのかくらいは知っていた。
「さん、ね……。僕がただ、アルの顔を見に来たように思えるかい? これも仕事のうちさ。
僕ら四大天使の主な役割は、君たち大天使の管理。観察し、才能を見定め、より適任な階級に推薦することさ。
その才能を見極めるために、まずアルには、四人のエンジェル達の隊長を担ってもらいます」
途端、アルの顔が死人の如く青ざめた。彼女のあまりの変貌ぶりに、カイトも思わず面食う。
その話は、アザレスに参加を伝えた際に、追加事項として聞かされていた。
『あくまで支援だが、アルにも小隊を持ってもらう』
『えっ』
すでに了承した後ということもあり、今さら参加を取り下げられるほどアルは不真面目ではなかった。
今まで他者との交流を避けてきたアルにとって、それは未知の領域だった。隊に加わるだけならまだしも、自分も部下を持つ立場になることでは責任感が天と地ほどの差があった。
そこに戦闘の技術は反映されず、隊員とのコミュニケーションが重要視される。
一人、回廊を歩いていた彼女の足取りが重かったのも、主にそれが原因である。
「私に、務まるでしょうか? 小隊長だなんて」
今にも、魂の抜けそうな掠れた声で呟いた。
仲間が危険に晒されたらどうしよう。自分のせいでエンジェル達が全滅したらどうしよう。そんな不安が、アルの心に渦巻いていた。
そんな彼女の性格を誰よりも把握しているからこそ、カイトは、アルの内に秘める想いに訴えかけることにした。
「それを”護る”ために、強くなったんだろ?」
”護る”という言葉が、アルの足を静止させる。
「…………………」
足を止めた彼女の数歩先で、カイトは留まった。
二人の目の前には、いつの間にか大きく聳え立つ扉が佇んでいた。真っ白な扉の両端には、こちらも同色の女神像が一体ずつ置かれ、彼等の成り行きを見守る。
「これは強制じゃない。そういうのも含めて、君たちの適性を見定めるのも僕ら四大天使の役割だからね」
そう言うと、彼は扉に右手を添えて話を続けた。
「今ならまだ間に合う。正直、僕自身も君にこれ以上、傷ついてほしくない。
一応、義親でもあるしね。でも……」
カイトは待っていた。下を向き、現実に打ちのめされた少女が、再び歩き出すその瞬間を。
「あの時の言葉を、もう一度、聞くよ。
アル。君はどうして、強くなろうとするんだい?」
同胞達から舐められないため。自分を疎む者達をぎゃふんっと言わせるため。皆から認めてもらうため……。だが、それらはアルにとっては些細なことに過ぎなかった。
炎に包まれた両親を救えなかったことへの懺悔。
そして、腕の中で冷たくなった友への誓いだった。
「約束、したんです。もう、誰も死なせないって。
私の、私が皆を、”加護”するんだッ!」
顔を上げた彼女の素顔には、もう迷いはなくなっていた。闘志に火のついたアルを見て、カイトは強く微笑んだ。
「立派だ」
その瞬間。カイトが扉に触れていた部分が光だし、全体に波紋が走った。
波紋はやがて扉の鍵穴に集中し、ガチャリという音が辺りに響き渡る。
「カイト、」
「さん、ね」
「ありがとう」
感謝の言葉を合図に、カイトは強く扉を押した。扉の先は白い光に包まれていた。だが、何の躊躇もなく、アルはその中へ駆け出した。
「君に、神のご加護があらんことを」
大きくなった娘の背中を見つめながら、ゆっくりと扉が閉ざされた。
最後まで読んで下さりありがとうございました。
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