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「あ”ア”あ”あアア”あ”アァぁ”ああ”ァッッ…!!」
鎧の天使の身体に、これまでに経験したことのない激痛が走る。箍が外れたような絶叫を響かせ、地面に膝から崩れ落ちた。
握り締められた剣は腕と共に刎ね飛び、少し離れた地面を拠り所としていた。
その白銀の透き通った刀身。映し出すのは悪魔と、無様に跪く主人の姿だった。降伏を連想させる彼の姿を投影させれば、突如、剣は白く淡い光に包まれた。
閃光の後、まるで見限るかのようにそこに剣の姿は無くなっていた。
ハデルの眼下でも、同様のことが少年の体にも起きていた。正確には、彼の身に付けていた鎧が消失した。
残されたのは、二回りほど小さくなった天使の生身だった。オレンジ色の髪を埋め、丸めた成長途中の背中は小刻みに震えている。
少年は、切断面から溢れる赤い血をなんとか止めようと気が気ではない様子だった。嗚咽を漏らしながら、必死にもう片方の手で流れる液体を抑える。
これで本人は止血のつもりらしいが、指と指の隙間から滲み出る光景に、頭上の悪魔は哀れといった眼差しを注いだ。
そんな苦しむ天使の姿に、ハデルの表情はどこかしたり顔である。
「おい」
その呼び声には、地中深くから響くようなすごみと、重圧感が秘められていた。
ハデルが声のした方向へ顔を動かすよりも先、ザクロの触手が一斉に彼女へ殺到する。
だが、触手はすべてハデルの前に現れた氷の壁に阻まれ、四方八方へ受け流された。衝突した勢いで氷の破片が飛び散る。
それでも、ハデルは終始、眉一つ動かさず攻撃を仕掛けてきたザクロに体勢を向けた。
いつの間にか、ザクロの首と体は一つに戻っており、荒々しい足取りでハデルに迫った。
触手が彼の体に戻っていくのを確認すると、彼女の意思で氷の壁が音を立てて消え去る。
壁がなくなり、より鮮明にザクロの不機嫌そうな表情が浮き彫りになった。
彼が足を止めたのは、その気になれば素手で相手を仕留められそうな距離。背丈の溝を眼力で補う形で、ハデルを睨みつけた。
まるで、獲物を横取りされた獣の殺気がその瞳には宿っていた。そんな感情を押し殺して、ザクロは静かに口を開いた。
「どういうつもりだ? こいつらは全員、俺が、やっていいっていう決まりだったじゃねえか」
そう言うと、ハデルの足元に転がる天使を一瞥する。
言い逃れは許さないと言わんばかりに、じっと彼女からの返事を待つ。
返答を誤れば、おそらく再び先程同様の攻撃を仕掛けてくるだろう。ハデルもまた彼の隻眼を見つめ返しながら、悠々と答えてみせた。
「正当防衛よ。あのまま何もしないでいたら、私が腕を斬り落とされていたわ」
一時的に、二人の間に静寂が生まれる。その時だけは、荒野に流れる風は静まり、音という音が脈動を止めた。
ただ一つ、足元で悶える天使の荒い呼吸を取り残して。
「……本当か?」
「くどいわね。私からこいつらに手を出す理由がないでしょ?
それより、あとの三人はどうしたの?」
半ば話を逸らすようにザクロの背後を覗けば、そこには、呆然と立ち尽くす天使達の姿があった。
おそらく、この鎧の天使こそが彼等の攻撃の要だったのだろう。それが、今では攻撃の術をなくし、敵の手の内にあることから、彼らも手を出すに出せない状況へと転落させていった。
「とっくに戦意喪失してら、つまんねえの。
どっかの誰かさんが、急に腕なんか切り飛ばすからよー……」
後方の彼らを顎で指しながら、ザクロは嫌味の効いた小言を呟く。
それを無視して、ハデルは生気をなくした天使達の様子を凝視していた。出会ったときの闘志はどこにも感じられない。唯一、眼鏡の少年だけが、仲間を取り返そうと目で訴えかけてくる。
勝敗がついたことを、ハデルは内心確信していた。
ザクロも同じ心情かと視線を向けるが、「約束やぶられたー」「泣きそー」と軽口を叩いていた。
思わず、声を掛ける気さえ失せる想いである。
「そんなに、獲物を取られたことが気に障ったのなら謝るわ。あとはあなたの好きにして」
急かすようにそれだけ告げると、踵を返し帰路への道を歩き始めた。
その時だった。
「……いや、あるね」
それは、先程のハデルのもう一つの問いに対しての答えだった。
数歩進んだ後。再びザクロを見れば、飄々とした態度でハデルを待ち構えていた。
これまでのザクロならば、すぐに気持ちを切り替えて残りの天使を狩りに向かうはずである。
相当、獲物を横取りされたのが嫌だったのか、再び攻撃を仕掛けてくるのではと考えてハデルは用心した。しかし、手よりも先にザクロの口がゆっくりと開かれた。
「俺よりも天使との遭遇を求めていたのは、あんたの方だろ? ハデルお嬢様」
内心、びくりとしたことにハデル自身も驚いていた。
「………何が言いたいの?」
図星といわんばかりに、ザクロは飛行魔獣の中で見せたあの笑顔を披露した。
「本当は知ってんだぜ? いや、魔界全土が知っている周知の事実だ」
そう言いながら、また彼女との間合いを詰め始める。
「十年前。ある悪魔が大罪を犯し処刑された。その悪魔は大魔王直属の配下である十柱の一柱を担うほどの実力者でもあった。それ故、この判決に異議を唱える者も少なくはなかったらしい。
だが、ある事実を彼等に伝えた途端、そのほとんどが彼の処刑に異議を唱えなくなった。その事実とは……」
その内容は、ハデルもよく知るものだ。
「天界への情報提供。
それがあんたの、父親が犯した罪だ」
彼の発言の重みは、ハデルの姿が小さく見えてしまうほど強固なものだった。言い終わる頃には、ある程度彼女との間合いも詰め終わり、今度はその周りを品定めするように歩き出した。
「可哀そうになあ、ずっと慕っていた奴らからすれば謀反ものだぜ。
まさか信頼していた奴が、宿敵である天界に自分達のことを売ってたんだからよ」
「………」
彼女の脳裏に、父親との思い出から最期の瞬間までが走馬灯の如く再生される。結末を知っているがため、辛さは何十倍にも膨れ上がり、ハデルの顔に影を落としていった。
彼女の素顔が自身の前髪で隠れたとき、ザクロは数本の触手を地面の中に忍ばせた。
「俺はよお、その男の家族であるお前らも同罪だと思うんだよ。なのに、大魔王の奴はあろうことか、空いた柱の席にあんたの母親を座らせやがった。
それがどういう理由を持つか、ご令嬢のあんたにはわからねえだろ……?」
そのとき、ハデルの背後の土が盛り上がる。
「だから、あんたと組めたとき、これはチャンスだと思ったんだ。
流石の氷の女王も、一人娘のいうことは聞くだろ?」
瞬間。盛り上がっていた地面から無数の触手が現れ、ハデルの体に絡み付いた。
「結局、あんたは愛されていなかったんだ。哀れで世間知らずのお姫様」
ザクロがハデルの正面に立つと、乾いた笑いを零した。
彼はハデルに乗り移る気でいた。それはハデル自身も理解しているはずだが、巻き付いた触手に抵抗の素振りはなかった。
「ケヘヘ、そうだぜ。下手に動くと変なふうに寄生しちまうかもしれねえからよ……」
ザクロの不気味な笑みと共に、ハデルの首元に絡み付いた触手がその先端を彼女の首筋に突き刺そうと近付く。
「まあ、安心しろ。別に死ぬわけじゃねえんだ。これから末永く、よろしくなあア?」
触手の先端が、彼女の首筋に触れた途端だった。ザクロの鼻先を冷気のようなものが掠めた。
気が付けば、ザクロの体は頭部を残して、全身が氷に包み込まれていた。
「っ……」
一瞬の出来事に、ザクロは瞬きすることも忘れて息を呑んだ。
触手にも力を込めてみるが、ぴくりとも動かず、ザクロは舌打ちと共に苦い顔を浮かべる。
彼女の能力を理解しているからこそ、ザクロはここまで慎重に彼女へ寄生する計画を密かに立てていた。
なんとか、ハデルを精神的に追い詰め、その隙に体を乗っ取るつもりだったが……。
唯一、動かせる頭で俯いたままのハデルを睨みつける。逆に、自身が拘束されることになろうとは考えもしていなかった。
その頃、ハデルは父親が処刑された後のことを思い出していた。
断罪後、見物客が去ったあとも、ハデルはその場を離れられずにいた。すでに処刑台には遺体の姿は無く、すっかり片付けられている。
それでも、父親がいた一点を見つめ続けた。立ち尽くす少女の背後には、いつの間にか実の母親の姿もあった。
そして、少女に近付くと、小さな肩にそっと手を添えたのだった。
母は、決して同情などする方ではなかった。あやされたことも、記憶にはない。
私の肩に置かれた手も、とても冷たかったのを覚えている。
気が付けば、父についての騒ぎは落ち着き、私もいつもと変わらない生活を送ってきた。
どうして、自分達にはお咎めがないのだろう? 幼きながらに思ったわ。
……でも、私も、母の立場もあの時のままなのは、父親の秘密を密告したのが、他でもない母であることが関係しているのかもしれない。
「確かにそうね、そうだわ。私は知らな過ぎた、家族なのに。
あれから、やりたいことも目的もなくなって。ただぷかぷかと、流されるままに生きてきた。
……でも、あなたの思いを聞いて、やっぱり決めたの」
ハデルが動くと同時に、体に巻き付いていた氷漬けの触手が脆く砕け始める。
「ずっと気掛かりだった。本当に父は、私達魔族を裏切って、天界に味方していたのか。
もしそうだとして、何か理由があったんじゃないのか。でも、もしそうじゃなかったら……」
衣服についた氷の破片を払い落としながら、今度は彼女が真っ直ぐな瞳でザクロを見つめた。
「だから、今度は知る番。
私は、私の父が天使に加担してたことを信じない。
私がここに来たのは、父さんの“真実”を知るためよ……!」
初めて自身の気持ちをさらけ出したハデルに、ザクロは目を丸くした。先程まで、無表情で何にも興味を示さなかった彼女が、今、目標を見つけ出したのだ。
思わず、目を離すことが憚れる。
とはいえ、曇り一つない透き通った瞳に見つめ続けられ、ばつが悪そうに彼は視線を逸らした。
「……ケッ、箱入り娘の分際で、大きく出るじゃねえか。
それがどういう意味か、分かってんだろうな? 天界を落とすってことだぜ。今まで、誰一人侵入さえできなかった砦に。
それに、もし真実を知ったとして、どうする? それであの話に確信が出たら……」
「言ったでしょ? 真実はこの目で確かめるわ。
もし本当に、父さんが天界に加担していたら。……そのときは、この体、あなたにあげるわ。それで取り敢えず、この話は終りにしない?」
「……………」
ザクロにとって耳を疑うような提案に、再び視線をハデルに合わせた。
とはいえ、それだけで彼女の心情を把握できるはずもなく、深く溜息を吐いた。
「……その話、覚えておくぞ。
正直、真正面からあんたとやっても俺に勝ち目はねえんだからよ」
「交渉成立ね」
軽やかにそう言うと、ザクロの体を覆っていた氷が音を立てて崩れた。
氷に閉じ込められていたせいか、ザクロに急な寒気が襲い両腕を擦り始めた。
「それで、どうする気?」
間髪入れず、ハデルが今後について問いかける。彼女の目線は残りの天使達の方を向いていた。
「なーに、生け捕りにして知ってる情報吐かせればいいだろ。無駄に殺してもつまんねえからよ。
報告はこうだ。魔獣は全滅。しかし、複数の天使の捕獲に成功。尋問を求める。それでいいだろ」
それで御法度である天使との遭遇、戦闘を水に流してもらおうという魂胆だろう。すると、早速、ザクロは天使達に振り返った。
天使達は、標的が自分達に切り替わったことを悟ると、慌てて武器を構え始めた。
しかし、ザクロは彼等には手を出さず、足元の負傷した天使に目を付けた。
軽く踏みつければ、低いうめき声が辺りに響く。それを聞くと、天使達は互いに目を合わし、無念にも武器を持つ手を下すのだった。
その様子を遠目に、ザクロは勝ち誇った表情を浮かべる。そして、人質としていた天使から足を退かすと、ゆっくりと残りの天使達へ歩き出した。
「ちょっと」
「なあに、そいつは逃げたりしねえって。なにせ、自分の片腕切り落とした怖~いお姉さんが、すぐそこで見張ってるんだからよ」
それだけ言い残し、ザクロは彼らに近付いていった。
残りの天使が捕獲されるのも時間の問題である。生捕りにされた天使が、その後どうなるのか、ハデルは知らないが決して幸のあるものではないだろう。そう考えると、ハデルは同情の眼差しで改めて天使の表情を一人一人窺っていった。
その中で、短髪の少女が目に入った。俯いたまま何かを呟いている。口の動きからして、ずっと「ごめんなさい」と連呼している。
一体、誰に謝っているの……?
そんな疑問を抱きながらも、まずこの状況が覆ることは考えられなかった。
もうじき、ザクロが他の天使を拘束して帰ってくる。
「それじゃあ、ほかの奴らも捕まえま……」
愉快そうに呟いた言葉が途切れ、同時に足取りを止めた。
突然、静止したザクロに、ハデルは疑問を浮かべる。
彼の口元は笑っていた。ザクロの視線の先は、天使達の、そのまた奥に注がれていた。
ハデルもそちらに目を凝らせば、薄っすらとだが人影が見えた。
「へっ、ビンゴ。もう一匹いるぜ」
標的をもう一体発見したことを彼は喜んでいた。
あちらも彼女達に気付いてか、近付いてきている。人影はやがて、はっきりと視認できるようになり、身に付ける白装束が曇天の下でも存在感を放っていた。
「そういや、天使は五人一組の班を作って行動するんだっけな?
……あいつで最後か」
途端、ザクロは目標をその一人に絞り、地中に複数の触手を忍び込ませた。
天使が、自身の触手の届く範囲に入ったら捕らえるつもりだろう。獲物が罠にかかるその瞬間を、まだかまだかとにやにやしながら待っている。
そして、現れた天使の、包帯の巻かれた足が触手の範囲に入れば、ザクロは身を乗り出し両腕を肩の高さに広げた。
「捕獲成こう…」
完全勝利への喜びと同時刻、ザクロの目の前に包帯の巻かれた手が出現した。
その手の主が、先程まで米粒ほどだったシルエットの天使だと気付くのに時間はかからなかった。
捕獲用に向かわせた触手の感触を辿れば、どうやら触手が出るよりも早く相手が行動を起こしたらしい。
避けようにも近すぎる距離に諦め、ザクロが最後に見たのは指と指の隙間の景色。そこに映ったものに驚愕した。
……マジかよ………
次の瞬間。ザクロは顔面を鷲掴みにされ、そのまま勢いよく地面に叩きつけられた。岩に亀裂が走り、彼の体が大きく跳ねる。
加えて、相手の力は留まるところを知らず、ついにザクロの頭を押し潰した。
「ッ?!」
一瞬の出来事に、ハデルの警戒心が急激に上昇する。
ザクロの頭が地面にめり込み、叩きつけた衝撃で出来た亀裂に赤い液体が流れ出した。
その上にあの天使がいた。その素顔は垂れたブロンドの短髪で見えない。
何が起きた? 現状を理解するよりも先に、その背中に生えた四枚の翼がすべてを物語っていた。
こいつ、────大天使!
ザクロを仕留め、次はお前の番だと言わんばかりにゆっくりと上体が起き上がる。
センターで分かれた前髪の下、二つの琥珀色の瞳が鋭い剣幕でハデルを捉えた。
「のこり、一匹」
最後まで読んで下さりありがとうございました。
こちらで、第一話終了となります。
次回から第二話が始まります。更新は1月7日予定です。
また、ご一読頂けましたら励みになります。