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彼女が目を覚ますきっかけとなったのは、鳥の重く乾いた羽音と、落ちては上昇を繰り返すはっきりとしない浮遊感だった。
どこからか冷めた風が入り込み、長く伸びた黒髪をとかした。そして、褐色の皮膚の下から、名残惜しそうに瞼が開かれる。
二つの夜の如く澄んだ結膜と、青空のようなセレストブルーの瞳。その中心にある針のような鋭い瞳孔は、彼女を人ならざる者と解釈するには簡明だった。
背中に感じる硬い壁のような何かは、自身がそれまで座って眠っていたことを物語っていた。
随分と深く眠っていたのか、意識はまだ曖昧な状態を漂っている。
それに加え、激しい倦怠感と首に僅かな痛み、頭痛もあるらしい。そのため、無意識に眉間にしわを寄せた。
「おっ、やっとお目覚めか」
彼女が顔を上げるのと連動するように、前方から若い男の陽気な声が聞こえてきた。
彼女はそういえば、といった様子で声のした方に視線を注ぐ。その先で、男と目が合った。瞬間、弾かれたように意識が覚醒した。
こちらが現実であること。そして、今、自分が向かっている先、そこで課せられた使命が、彼女の脳内に早送りで甦る。
内容は、至って彼女が好むものではないだろう。それを証明するかの如く、睨むように男を見た。
「気分はどうだ? ハデル・インフィール・フォーネーゼ様」
それをわかってか知らずか、男の問いかけはとても嫌味らしく聞こえたはずだ。
男の視界に彼女の素顔が映る。頭部から生えた二本のカールした角。そして、まるで非の打ち所がない、美しく整えられた顔立ちは女神でさえ嫉妬してしまうだろう。
男の問いかけに対し、彼女の口から出た一言はとても素直なものだった。
「……最悪よ………」
暗雲が垂れ込める下、一匹の巨大な鳥が飛んでいた。
鳥の翼や体には鳥類特有の体毛はなく、骨だけで構築された姿は人智を逸している。
ハデルがいるのは、その生き物の内側。胴体にだけ張り巡らされた薄桃色の皮膚の中、肋に当たる一本の骨に腰を落としていた。
黒い漆黒のローブに身を包み、ゆったりとした袖からは陶器のようにすらりとした手が映る。フードの代わりに両肩にかけ白い毛皮が付いており、胸元には青い水晶のような装飾品が彼女の存在感を一層引き立たせていた。
ハデルは皮膚という名の壁の一点を眺めながら、目的の地に到着するまでの暇を持て余していた。そこに、もう一人の搭乗者が声を掛けてきた。
「心配してたんだぜえ? 余りにもあんたが起きねえもんだからよ。俺だけで戦場の下見に行く羽目になるかと思ったぜ」
男の言葉遣いは、まるで役者が演技でもするかのように流暢だった。あちらもハデルと同様に骨の一本に座り込み、長い手足を大の字に広げていた。男は紫色のインナーを身に纏っており、肉体は後姿ならば女性と見間違えてしまうくらい華奢である。
すると、男はハデルがこちらに応対しないことが分かると、ぬるりと背凭れから身を乗り出した。両膝に両肘を付き、品定めするかのように彼女を見据える。
「夢でも見てたのか?」
大きく見開かれた、右目の夜の如く澄んだ結膜。中央の黄色い瞳が、退屈な今に刺激を求めてハデルを映した。男の左側の額には、一本の角が生え、それを分け目に左右から癖一つないストレートな白髪が垂れている。
「……別に、乗り物は苦手なの。それと、到着したら起こしてって伝えたでしょ? ザクロ」
ザクロと呼ばれた男は、「ケヘヘっ」と厭らしく笑みを零した。
「ああ、もちろん覚えているぜ。約束は守るたちだからよ」
会話を返してくれたことへの喜びか、ザクロは楽し気にハデルの会話に話を合わせた。
左目にかかった前髪を軽く払いながら、ザクロは前のめりになった上体を再び壁に預けた。
「どうぞ、お姫様は引き続き夢の中を楽しんで下さいな。なんなら、気持ちよく二度寝できるように背中ぽんぽんして差し上げましょうか?」
そう言うと、右腕を動かし、掌で空気を叩く仕草をする。
「遠慮しておくわ。どうせ、起こす気もなかったんでしょ?」
「ケケ……、まさか。そこまで薄情なつもりはないですよ」
わざとらしくザクロが一笑いすると、頭を軽く掻いた。その手を自身の膝の上に置くと、声のトーンが少し低くなった。
「まあ、冗談はここまでにして」
声色から、ハデルは今回の任務について話し合いでもするのかと身構える。だが、ザクロの輝く隻眼に、ろくでもないことを考えているな、とすぐに力が抜けていった。案の定、ハデルに問いかけた内容は、彼女を不快にするものだった。
「なあなあ、あの噂は本当なのかよ?」
他に誰もいないにも関わらず、ザクロはこそこそ話でもする態度で問いかける。
「……何のことかしら」
「ケヘヘ、とぼけんなよ。……あんたの父親のことさ」
確信をついたザクロの物言いに、ハデルは気付くと彼を瞳の中に捉えていた。それが決定打になってしまったらしく、ザクロは込み上げる好奇心を半ば抑えるようにして続けた。
「その反応じゃあ、期待していいよな? あんたの父親が、俺たち魔族を……」
「あなたの種族は、他人のプライベートに土足で踏み入る習性があるのかしら?」
ザクロの言葉を遮り、ハデルは腕を組んで言い放った。
「不確定のことに心身働かせるよりも、自分の体の手入れでもした方がいいわよ。右目、腐って落ちそうだもの」
静かな殺意。そんな言葉が似合うだろう。凛とした立ち振る舞いから一遍、獣に近い表情はより彼女が人外であることを表していた。
とはいえ、ザクロに臆している様子はなかった。口元は相変わらず不敵な笑みを浮かべているが、目には対照的な感情が渦巻いている。
「…っ」
ザクロが何かを言いかけた瞬間。体に掛かる浮遊感が一層強くなったかと思うと、今度は沈んでいく感覚に陥った。
「……っと、お話している間にそろそろご到着だ」
気持ちを切り替えたのか、そう告げるザクロには、先程の負の気配はなくなっていた。
ハデル自身も、彼にとって相当のことを述べていたと少し後悔していた。たった一人のチームメンバーということもあり、これ以上の指摘は支障になるとお互いに口を噤んだ。
ザクロから視線を外し、自分たちが立っている地面に顔を向ける。よく目を凝らせば、薄桃色の皮膚の先に地上の景色が窺えた。
特にこれといった建造物や動くものの姿はなく、延々と岩肌の地面が続いている。
魔獣の体が徐々に降下していくと、やがて、地面にその足をついた。
飾り気のない翼を器用に折りたたむと、まるで機械のように長く伸びた首を地面に向かって下ろした。
その首と胸の間の皮膚の境目が、首を下すと同時に垂れ下がる。
そこから、ザクロを先頭にハデル達が姿を現した。
「ここが戦場の地、アザレスか」
先にザクロが地上に体を乗り出すと、座り続けて鈍った体を大きく伸ばした。
軽い準備運動をするザクロを横目に、ハデルも地上へと一歩を踏み込んだ。上空で感じた心地の良かった風がここでは生暖かく、直感的に長居はしたくないと彼女に思わせた。
取り敢えず、周囲を見渡してみるがまるで生き物の気配はない。
おそらく、行先よりも少し遠くに降ろすよう、この魔獣は命令されているのだろう。
二人の体が魔獣から完全に離れると、途端、何かが崩れる音がした。
ハデルが反射的に後ろに振り返った頃には、自分達を運んでいた魔獣の体は、初めからそこで息絶えた生物のように倒れていた。
「おもしれえだろ? こいつらは俺らの魔力を微小に吸って、それを糧に活動するんだ。帰るときは、またこいつらの中に入れば、俺たちの知らないうちに微小に魔力を奪って、また蘇るのさ。
見た目も白骨化した死体と代わらねえから、いいカモフラージュにもなる」
「そう」
相槌を打ちつつ、ハデルは関節ごとにばらばらになった魔獣を凝視した。
どこか不気味さを感じつつ、その空洞の両目は確かに生を宿しているかのように感じられる。
隣でそれを眺め続ける仲間に、準備運動を終えたザクロの表情は虚しいものだった。
なぜならば、今こうして横に立つハデルの背丈は二メートル近くあり、比べて男性である自身の方が首を痛くしなければいけなかったからである。
「……悪魔ってのはどうしてこうも、無駄にデカいんでしょうね」
「魔力量が巨大なほど、特に悪魔は背丈に影響が出やすいらしいわよ」
「イキりの入った解説をどうもありがとうございます」
全く感謝の籠っていない言葉を放つと、先に目的地への道を進み始めた。それに気付いて、ハデルも彼の跡を追った。
「……ところで、確認だけど私達のやることわかってるでしょうね?」
「そりゃあ、もちろん。
各"卵"の魔族達は、次の祝宴の日までに戦場の下見に向かえ。だろ?」
意気揚々と答えたザクロに対し、ハデルの表情は半分正解、半分不正解といった様子だった。
「その通りよ。でも、もう一つあるでしょ?」
その問いかけに、ザクロの眉がぴくりと動く。
「……ああーー、なんかあったっけな?」
耳をほじりながら呟くザクロに、「とぼけないで」とハデルは口調を強めた。
そして、再確認も含め、自分達がここに来た理由、その上での注意事項を共有し始めた。
「下見はあくまで下見。
戦闘及び、 “天使”との接触は含まれてないってことよ」
『天使』という言葉を告げた途端、二人の間に不穏な空気が流れた。
「もう何十人も、違反した奴らが初陣前に死んでるの。私達、悪魔との遭遇が頻繁になれば、敵側の警戒を余計強める結果になる。
ザクロ。もし、あなたもそっち側なら……」
「だったらどうすんだ? 戦おうとする俺を、あんたが止めに入ってくれるのか? たとえ、殺り合いになろうとも……」
ザクロはこちらに顔を向けなかった。例えば、大好きなものをいきなり取り上げられたら、どんな顔をするだろう。その答えが、この先にある。
そして、それが爆発したときに何が起きるかもハデルはよく理解していた。
次、自分が発した一言がきっかけになるかもしれない。そう考えると、ハデルは安易に口を開けないでいた。
彼のような血の気の多い魔族が苦手だ。なぜこちらが言葉を選んで付き合わなければいけないのか。
これ以上に、頭を使うことはないと、ハデルは苛立ちを覚えつつも次の言葉を探った。
「…………」
沈黙はあったものの、約数秒の短いものだった。互いの表情が見えないまま、静寂を先に破ったのはザクロの方からだった。
「ケっ、冗談だよ、冗談。例のアンデット騎士を置いて、あのハデル様と二人一組なれたんだ。
つまり、俺は優秀だってことだろ?」
そう告げると、ザクロは誇らしげな面でハデルに顔を向けた。そこには、まるで、いたずらを楽しむ子供を思わせる彼の姿があった。
「あなた様の期待にはできるだけ応えますよ。
お互い、複雑な気持ちで任務に臨むのは嫌だろ」
わざとらしい困り顔で、こちらに返答を求むザクロに、ハデルは何ともいえない複雑な感情を覚えつつあった。とはいえ、一部共感するところがあったことには違いない。
男の問いかけに賛同するように、白銀のブーツを鳴らして彼の隣を歩く。
「そうね、貴方の言う通りよ。私も少し取り乱し過ぎたわ。
……酔うと、どうも機嫌が悪くなってね」
「だとしたら、とんだとばっちりだぜ。こりゃあ、俺がフォロー役かもな」
ハデルの発言に呆れながらも、ザクロも負けじと大股で前進した。
今のザクロが何を考えているかハデルには分からなかったが、未知の土地への期待。そして、何か良からぬことを考えているのは明白だった。
しかし、ハデルはそこまで追求しようとは思わなかった。
また険悪になることを避けたかったこともあるが、それ以上に資格がないと判断したからだ。
すると、足取りは段々と重くなり、すぐにザクロとの速度に差が生まれた。
「…………」
軽い足取りで先へと進む同胞の背中を見つめると、次にその先の風景に視線を変えた。
地層が剥き出しの景色の先に、薄っすらと一基の塔のような建築物が映る。
本能的に拳に力が入り、そこが当の行先であることを表現した。
あの先に、真実が………。
とある決意を旨に、自身もまた前の欲望に素直な男と変わりないのでは。とハデルは悲壮感を抱きつつ、再び足に力を込めるのだった。
こうして、殺伐とした荒野に二人の魔族が解き放たれた。
読んで下さりありがとうございました。
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