第一話『夢の続き』
晴天の下。風が、仄かに花の香りを纏って草花を揺らした。
気が遠くなるほどの彼方まで続く、多彩な色の調和。まるで白黒だった世界に、初めて色が生まれたかのような感動を覚える。
そんな風景の中でも、霞むことなく存在感を放つ影があった。
それは、小さな人の形をしているものの、どこか異質な雰囲気を放っていた。
その原因を確かめるように、不意に風が小さな影の伸びかけた黒髪を通り過ぎた。靡いた後ろ髪の下からうなじが露わになり、褐色の肌が外気に触れた。首元から膝下にかけては、高貴な子供のような水色を基調としたドレスを身に付け、その裾が蝶々のよ翻っていたいた。
少女は、すっかり目の前の景色の虜になっていた。体を思いっきり伸ばし、大きく一回だけ深呼吸をする。
そして、閉じていた瞼が見開かれると、二つの夜の如く澄んだ結膜と、その中に青空のように濁りのないセレストブルーの瞳が美しい輝きを放った。
開けた目で再び前方の風景を一望すると、胸の鼓動が高揚感を煽り、息を吸うことさえ忘れてしまいそうになる。
すると、風に靡いて擦れ合う葉の囀りの中に、足音らしきものが聞こえてきた。それは少女の背後から、ゆっくりと近付いてきているようだった。
徐々に大きくなる足音が止むと同時、小さな体がすっぽりと日陰になった。それに反応して、ゆっくりと少女は後ろを振り向く。
その瞬間、少女の表情から溢れんばかりの愛しさが現れた。
そして、大きな声で背後の人物に叫んだ。
「父さん!」
少女の瞳は、正面の景色を見ていたときよりも輝きを増していた。
少女の楽しみは、読書と父の腕の中で過ごす一時だった。
今も後者を満喫しながら、少女は飽きる様子もなく目の前の景色に陶酔している。
一面に広がる花畑の中でも、この二人の親子を見つけだすことは容易だろう。それほどまでに、二つの存在は異質だった。とはいえ、彼らの互いを愛する父と子の想いに違いはない。
すると、少女の頭を父親の大きな褐色の手が撫でた。
少女にとって、父親のこの行為はなによりも特別なものだった。
この手にもっと触れていたい。そう思うと、頭上の手を自身の両手で捕まえる。父親の手は、両手をもってしても親指と小指を握ることでやっとだった。
父親も愛娘の可愛らしい行動に、動かせる指で少女の髪をさらに撫でた。
それが面白くて、少女は指を握ったまま父親に振り返りこう告げる。
「私、大きくなったら父さんみたいな大きな手になる!」
突然の告白に、父親は腹から声を出して大笑いした。そして、娘の頭をぽんぽんと優しく叩くと、次に両手を少女の脇に添え、空高く掲げた。
「お前は女の子なんだから、こんなにはならなくていいんだよ」
そう言いながら、父親は始終笑いを堪えている様子だった。
しかし、少女にとって初めてできた夢を、笑いながら却下されたことは不満以外のなにものでもなかった。
どうして、父さんのような大きな手になってしまってはいけないのか。女の子だから? じゃあ、男の子だったら、大きな手になってもいいの?
そんな考えが頭の中を駆け巡り、結局、納得がいかずに唇を尖らせた。
少女にとって、父親の手は自身が泣いているとき、悲しんでいるとき、その手で撫でられるだけですぐに泣き止んでしまう。魔法の手であり、少女はそんな手が好きで憧れだった。
「じゃあ……!」
そこまで言うと、少女は父親の腕の中から出ようと身をよじった。父親の手から地上に飛び移ると、思いっきり深呼吸を始めた。
これから、少女はもう一つの夢を発表しようとしている。まだ誰にも話したことがないだけあり、幼子ながら本当に言っていいのか戸惑う。
覚悟を決め、父親に向き直ると少女は次の夢を発表した。
「強くなる! いっぱい、いっっっぱい強くなって。私、いつか大魔王さまみたいになるの!」
両手を天高く上げ、渾身の想いで言い放った。周囲の風が一層強まりざわめき出す中、緊張や恥ずかしさから、一種のハイ状態になりつつ続けた。
「あのね、大魔王さまって凄いんだよ? どれだけ敵が大きくても、たくさんいても、一人でみーーんなやっつけちゃうの! 母さんも言ってた、大魔王様は強いから魔界でも一番偉くなったんだって」
大魔王。それは少女が住む世界の力の象徴であり、父親と同じくらい憧れの存在である。
「だからね、私も大魔王さまみたいに強くなりたいの。ううん、なるの! そしたら———」
「ハデル」
気が付けば、少女は小躍りをしていた。恥ずかしさで相手から視線を逸らしており、今、父親がどんな表情をしているのかわからなかった。
名前を呼ばれ、先程までの陽気な雰囲気から一遍、まるで水をかけられたかのように冷静な父親の声色に、怒られる前の静けさと似たようなものを感じる。彼女は身構えつつ、恐る恐る顔を上げた。
すると、父親は娘の頭の位置にしゃがみ込むと、その小さな肩に自身の両手を添えた。そのときの父の表情は、笑顔こそ見せてはいるが、どこか哀しみを帯びているように少女は感じていた。
「むやみに、誰かを殺してはいけないよ」
突然の発言に少女は困惑する声を漏らした。
「…………どうして、殺しちゃいけないの?」
純粋無垢な瞳で、父親に問いかける。
父親は少しの間の後、愛娘の目を見て話し出した。
「ハデル、いいかい? これから父さんが言う言葉を、よく覚えておきなさい」
その後、すぐに「これは、父さんとハデルだけの秘密だよ」と付け足した。
普段の彼女なら、この手のことは楽しんで了承しただろう。しかし、その時は違った。彼が『秘密』と口にするときは、必ずなにか嫌なことの前触れが潜む。それを少女は予感していた。
胸のざわめきを感じつつも、父親の言葉にうん、と頷いた。
すると、彼の口元に笑みが戻った。その頃には、すっかりいつもの愛娘とスキンシップを楽しむ一人の父親に戻っていり。
そして、その口がゆっくりと開き始める————
それが、少女にとって最後の約束になるとも知らずに。
ここまで読んで下さりありがとうございました。
次回の投稿は、12/24の22時頃を予定しております。