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十二年前。アル、小天使時代。
教室の片隅で、少女は窓の外を眺めていた。
空は気持ちよく晴れ、柔らかな日差しに、しっかりと手入れの行き届いた庭園。四季折々の花々が咲き誇り、その上を蝶々が優雅に舞う。煌びやかな、何気ない日常の一時が少女の瞳に反射していた。
こんな日々がずっと続けばいいのに。
そう願っていたのは、一年ほど前のことだっただろうか。
窓の隙間から入ってきた風が、少女の伸びた前髪を横に流す。露わになったのは、幼子には似つかない生気のない表情と、くっきりと浮かび上がった目元のクマだった。
両親の死後、一年が経過していた。
カイトに引き取られた後、自身でもなに一つ不便な思いをした記憶はほぼない。それでも、決して彼女の心は満たされなかった。
花の美しさ、木陰で一休みする気持ちよさや、誰かと食べるご飯のおいしさも。その幸せの隣には、いつも父が、母がいた。
「…………」
あの日々を知ってしまったからこそ、それを上書きできるものなどないと知った。
すべてに興味を失くしてしまった少女を、同じ小天使達は薄気味悪がった。常にアルは孤立し、今日も水槽を泳ぐ魚を見るように、ぼんやりと景色を眺める。
すると、教室内に手を叩く音が響いた。
「それでは皆さん。本日は前々から伝えていた上級生達の訓練場へ見学にいきます。
名前の順で一列に並んでー」
教師の一言で、続々と生徒たちが席から離れていく。過半数が教室の出入り口付近に並び始めたのを見計らい、アルも椅子を引いた。
後ろに並ぶ生徒達の賑やかな雑談が響く。アルは壁に凭れ掛かりながら、教師の次の指示を待っていた。そんなとき、視界の横に影が映った。
「お前もエースの名を引き継ぐものか」
まるで内緒話をするように、小声で話しかける少年の声が一つ。その声の主の問いは、明らかにアルに向けられていた。
「おまえ、名前は?」
「………アル」
名乗ると、少年は勝ち誇ったような態度を見せた。
「へっへーん、ここでも俺が一番だな」
そう言うと、少年は我が物顔でアルの隣、つまり列の先頭に立った。
少年の態度に、なぜが心底腹が立つ。去年の今頃では、アルは名前の順でクラスの先頭に立っていた。それがとても誇らしく、両親にも鼻が高かった。その家族の思い出を壊されているようで、アルは少年がいる方とは逆へ顔を逸らす。彼女の気持ちなどつゆ知らず、少年は続けた。
「知ってるか? 名前の初めにエースが付いてる奴は、いつかデカいことしでかすって相場が決まってんだ。
センスあるぜ。父ちゃん、母ちゃん」
両親を褒められたことに、逸らした顔を思わず少年の方へ向ける。
短いブロンドの髪が目を惹いた。
「どうだ、同じエースを継ぐもの、俺と組まないか? 今なら、前後の好でお前のことも守ってやるよ」
深い青色の瞳は希望に満ち溢れ、ニカリと笑う頬には小さなえくぼ浮かぶ。その横顔に、不思議なくらいに魅せられる。
「……いい」
否定のトーンで、少年の誘いを断った。
「はあ?! 折角、守ってやるって言ってるんだから守られろよ」
「なんかやだ」
自身でも戸惑っていることに驚き、悟られないように俯く。すると、先程までの大人びた態度から急に子供らしく「じゃあ、じゃあ」と慌てた様子で連呼し出した。断られると思っていなかったのか、長い間、悩む声にアルはちらりと少年の様子を窺う。
そこで一番大きな、「じゃあ!」が少年の口から出ると、アルに対面して告げる。
「どっちが先に大天使になって戦場で活躍するか。勝負しようぜ、アル」
太陽のように笑う少年は、アスタと言った。
*********
目の前の戦いに集中しろ。命など、簡単に取られるぞ。
アルは自身にそう言い聞かせた。
左右に分かれた前髪を靡かせ、合流したほかの仲間たちと戦場を駆ける。
目の当たりにする魔獣の姿は、異質同体という言葉がよく似合った。
昆虫、爬虫類、鳥類、哺乳類、様々な生き物が混合したようなナニか。嫌悪感すら覚えるそれらが、肉眼で確認できるだけでも五百は超える。
そんな数多の魔獣から、部下を護り切ること。それがアルの誓いであり、そう考えると自然と拳に力が入った。
――――絶対に護るんだ。
一体の魔獣がこちらに狙いを定め、突進してくる。アルはその魔獣に渾身の一撃を放った。
「ふんッ!」
前に突き上げた拳は、敵の脳天を貫通する。
「見事」
一部始終を見ていたアレクが、期待以上という反応を見せた。
素手で、次から次へと魔獣を一網打尽にしていくアル。その逞しい姿に、ほかの同胞たちも気丈夫になれた。その中、反対にシオンとマークの様子はどこか恐怖が滲んでいた。
「……殴られなくてよかったですね」
「うっせ!」
シオンがマークに暴言を吐きながら、迫りくる魔獣に刀身を振り下ろす。
魔獣は胴体を斜めに斬られるが、距離を見誤ったのかその傷は浅い。一度は止めた攻撃の手を再開しようとした瞬間、傷口から激痛が走った。シュゥゥゥゥ……、と音を立て周辺の肉が溶けていく。
自らの肉体に起きた異変に困惑する間に、とどめのもう一撃が下された。
ヴァーチュズの鎧。彼の叔父から譲り受けたその甲冑には、浄化の力が宿っている。
硬度だけではない、性能のすべてが最上級。身に着ければ、所有者を勝利へと導き、魔のものが触れれば毒となる。
やがて、真っ二つになった魔獣の身体は、全身が黒く灰へと変貌していった。
そんな仲間たちの活躍ぶりを、物陰からチサが見届けていた。
「皆さんすごいですねっ」
魔獣を間近にしたとき、チサはもうだめだと思っていた。今ではすっかり気後れしなくなり、アル達を後方からの支援する方に回っていた。
「前に集中しなさいチサ。来るわよ」
横でミラが忠告する。前で戦う仲間達が取りこぼした魔獣が、彼女たちの配置場所に近づいてくる。
「奴らは、ここに送り込まれる前に一つ命令を受けている。
私たちが来たあの塔の制圧。天使への攻撃はその過程にすぎないの」
二体の魔獣がチサ達の横を取りすぎたところで、二人は飛び出した。
「だから、そこをつく」
―――――カッ!!
背後を取り、ミラは携えた杖で地面を叩いた。
その横で、射撃内から魔獣がずれないように、チサが魔獣目掛けて鎖鎌を放った。
鎖が一体の魔獣の足に絡みつくとバランス崩す。同族の失速に、平行で走っていたもう一体も足を止めた。
その様子を、杖の水晶越しにミラの瞳が捉える。
「生命よ、永久に」
刹那、水晶が青く光り、的に入った魔獣目掛けて吹雪が発生した。
魔獣が気付いたころには遅く、ミラたちへ向けられた視線が白く覆われる。骨の髄にまで刺さるような寒気に、次の瞬間には全身が凍結していた。
「やりましたねミラさん!」
放った鎖鎌を手元に戻しながら、チサは喜びを噛み締めた。同時に二体の魔獣を仕留めたことに、ミラも満更でもないように胸を張る。
そんな二人の頭上を、蝙蝠のような羽を生やした黒い影が通り過ぎた。
彼女達には目もくれず進む先には、ミラの言う通り小さくなった塔が窺えた。
「行かせたく、ないです…ッ」
私だって、とチサも負けじと魔獣目掛けて再び鎖鎌を放つ。その間に、ミラは杖に力を籠め次の一撃の準備をする。
鎖は敵の尻尾に巻きつき、チサは全体重で進行を抑える。
ふぐぐぐ……、と踏ん張る甲斐あり、魔獣の動きが鈍くなる。
「でかした!」
動きを止めた魔獣に追い打ちをかけようと、チサの横から同胞が飛び出す。跳躍し、翼を広げて長剣を振りかざした。魔獣の背後から一刀両断しようとしたそのとき、それは拘束された自らの尻尾を切り落とした。
「「……っ!」」
突然の自傷行為にチサと攻撃者が驚愕する。そして、急激な重さの変化がチサを襲い、彼女は思い切り尻もちをついた。
一方、魔獣の体は一気に軽くなり、振り下ろされた剣の軌道から逸れる。天使の剣は、惜しくも魔獣の横の空間を裂いた。一振りに力が入りすぎたのか、寸止めが効かず先に魔獣の攻撃を許してしまう。
無防備になった天使の側頭骨へ、発達した嘴が突く。
「……っ、がぁ、あア………アアぁ…」
一気に意識が沈んでいく感覚。全身の力が抜け、するりと手から剣が離れる。
その後、仲間は遺体となってチサ達の前に落下した。
「ああ……」
このとき、改めてチサは自分たちが置かれている死と隣の状態に恐怖した。腰が抜けてしまったのか、その場から動けない。
頭上で、嘴を赤く染めた魔獣が、大きく羽を羽ばたかせた。標的を変えたらしく、一気に降下し始める。その先には、最初に攻撃を仕掛けてきた少女二人の姿がある。
「立ってチサ!」
放心状態のチサにミラが叫ぶ。反応のない彼女に、態勢を整えることは難しいと判断した。
やもえず、まだ完全ではない出力でもう一撃を放つ。しかし、威力や範囲から見てもまだ弱く、魔獣は難なくとミラの攻撃をかわした。
呆気にとられるミラを嘲笑うように、魔獣は鳴き声を発しながら二人に趾の鋭い爪を立てる。
「チサ、ミラ!」
離れたところからマークが叫び、またミラが杖に力を籠めるも相手の方が早いことを悟った。
「むり……」
零れた言葉に、せめて防御に回ろうと身を固くする。
その前に、見覚えのある背中が割って入った。
「隊長、さん……?」
アルの登場に、チサが我に返る。
そして、彼女は魔獣の攻撃を包帯の蒔かれた手で受け止めた。鋭い爪が彼女の手の甲を貫くも、同時に、アルはその脚を掴んだ。痛みを雄たけびでかき消しながら、力任せに相手を地面に叩きつける。
魔獣の体が大きき跳ね上がり、そのまま動かなくなった。
「怪我は?」
「お、お陰様で」
「ならよかった」
アルは背中越しに二人に問いかけた。魔獣が起き上がるかもと警戒しつつも、その声色はとてもやさしく感じられた。
「………」
そんな彼女に、ミラはお礼を言うべきなのか悩んでいた。感謝でなくても、声を掛けるべきだが言葉が見つからない。チサも同じく言葉を探したが、彷徨う視線の先に赤色が映った。攻撃を受け止めたアルの手から、どくどくと鮮血が滴り落ちていた。思わず声を上げる。
「すみません、私のせいで……! ほんとに、ごめんなさい」
涙目でアルに駆け寄り、謝罪の言葉を述べる。
せめて怪我の治療をさせてほしいと、「あの」と声をかけた時だった。
異様な風の流れを感じ、三人は上空に視線を向ける。そこには先程と同様の飛行魔獣の群れの姿があった。
心臓を握りつぶされそうな気持になるが、負傷したアルを擁護しようとチサが一歩前に出る。その、対照の位置に薄らとマークの姿が映った。
マークの視線の先には数十体の魔獣の群れ。そして、彼の手には書物が握られていた。
「新約聖導書」
そう告げると、握られた本が自らページをめくり始めた。
「片翼の白鳩 飛翔し弔い
黎明と共に 天命を待て
月のゆりかご 産声に箱舟の導き手は笑う
汝支えし王を崇高せよ
ルーメンの民 聖騎士が第一節」
マークの周囲を無数の光の円盤が現れ、上空の魔獣に狙いが定まる。
「流れ星」
マークの詠唱が終わると、光線が流星群のように魔獣の群れを直撃した。
光の球は魔獣だけを選んで、その体を次々に蜂の巣にしていく。やがて、群れはアル達の場所にたどり着く前にほとんどが撃ち落とされることとなった。
その後、慌てた様子でマークは女性陣の元へ駆けつけた。
「無事ですか?」
「はい、私とミラさんは……」
「流石だわ」とミラが感心する。その表情には悔しさが滲んでいた。
「それより隊長さんが! 私のせいで怪我を……」
眉を落としながらチサが、アルに視線を向ける。怪我の具合を確かめようと、彼女の手を覗き込むと目を疑った。
「あれ? 確かに」
チサが困惑するのも、アルの手に傷が無くなっていたのだ。血液らしきものは確認できるが、出血の様子がない。
自分の見間違いだったのかと思ったが、ミラもまじまじと彼女の手を見ていた。
頭の上に疑問符を浮かべる二人に、アルは苦笑いを浮かべる。その理由を、のマークには心当たりがある様子だった。
「アルさん。あなた、もしかして……」
一歩離れた位置で呟いたマークの背中を、彼は背中を叩かれた。そこには、興奮気味のアレスと、ファームルの姿があった。
「その歳で完全詠唱できるとは、君すごいな」
先程の抗戦を目撃していたのか、マークの活躍には彼も目を見張るものがあったのだろう。釣られて、チサも彼の書物に目を輝かせた。
「新約聖導書ですよね。六つの属性の力を操ることができるけど、すごく難しいって」
「省略版でもページ数、千越えって、覚えさせる気ないでしょ」
チサとミラが尊敬と嫌味をつくも、マークは眉一つ変えず冷静に応える。
「残念ながら、僕もすべてを覚えているわけではありません。……ですが、エスペラール家にとってはこのくらい当然ですっ」
「調子乗る、死ぬ」
「すみません」
褒められると気が大きくなってしまうマークを、ファームルが小さく叱責した。そんな部下たちの初めて見る顔に、アルも自然と笑みが零れる。
その様子を一人、つまらなそうに眺める者がいた。
「その化けの皮、いつか剥ぎ落してやる……」
話題の中にいる人物を、シオンは睨みつけた。
それから何時間が経過しただろう。
明らかに魔獣の数が減り、天使達の表情に落ち着きが戻りつつあった。
やがて、立っている魔獣の姿は見えなくなり、アルはアレスに呼び出された。
ほかの同胞たちも近くにいることから、部下をその場で待機させて彼の元に急ぐ。まだ警戒を怠らないアル前に、ほかの部隊の隊長だろうか、全員がアレスの元に集まっていた。
「全員いるか?」
その問いに、手を上げて自身を主張するもの、渋い顔をするものなど様々である。面々の思いを汲み取り、アレスは深く頷いた後、ゆっくりと告げた。
「ベネブから通信だ。臨界から魔獣の気配がなくなったと」
その発言に、アル以外の周囲の天使から歓喜の声が上がった。
訳もわからないままのアルに、アレスが彼等の言動の理由を教えてくれた。
「魔獣は一定の周期でここに現れ、塔を目指す。とはいえ、魔獣とて無限に湧くわけではない。その日の攻略が厳しいとなれば撤退命令が下される」
「それってつまり……」
それは今回の戦いが以上であることを表していた。ここに来てから、ずっと張り詰めていたものが解けていく。
「彼らにも伝えてあげなさい」
そう言って、最初の自己紹介のときと同じ笑顔を見せた。
「はい!」
元気よく返事をすると、アルはその場を後にした。
自分の隊が待つ場所を目指す途中、自分同様、その事実を告げられた部下たちの安堵する姿で溢れていた。自分も早く、みんなの安心する顔が見たい。そう思うと、自然と小走りになっていた。
「今日も魔獣だけだったな」
「ここ最近こんな感じじゃないか? もう大型も見てないぞ」
「悪魔どもは滅んだのか?」
そんな会話を聞き流しながら、アルは彼等の元へ急ぐ。そして、またゆっくりと歩き出した。
護れた……。そう思っていいのか?
撤退したとはいえ、戦争が終わったわけではない。その周期が来れば、また戦わなければならない。
今日は護れたが、次はどうだろうか? そんな不安が、じんわりと達成感のあとに滲み出る。
そのとき、女性の甲高い声に足を止めた。
横を見ると、そこには三人の天使と、彼らの見下ろす先で号泣する女性の姿があった。彼女の腕の中には、布で覆われた何かが抱き締められていた。布の隙間から、青白くなった腕が垂れ下がっていた。
その光景が、いつかの自分達と重なる。
「……………」
気付けば、アルは血が滲むほど強く、拳を握り締めていた。
護り切るんだ、今度こそ。何があろうとも……。
彼らに祈りを捧げ、彼女は再び歩き出した。
アレスから呼び出されたところから、彼らに待機を指示した場所はさほど離れていない。
「いない……、いない」
だが、いくら歩いても探してもシオン、チサ、マーク、ミラのうち、一人として姿を確認できるものはいなかった。
しかも、見渡せばその場にいる全員の顔が見えるはずだ。
流石のアルにも、焦りの様子が目に見え始める。
耳鳴りがしだした。
「どこに、……行ったの?」
メンバーがいないことに、アルは血の気が引く感覚に襲われた。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
次回で第二話完となります。楽しみにしてくれましたら幸いです。