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再びの浮遊感の後、目の前に現れたのは地面だった。咄嗟に前に手を出し、顔からの着地を回避する。湿った土の感触が手の平から伝わり、まるで禁足地に入ってしまったような張り詰めた空気が肌をなぞった。
土の壁で覆われた塹壕で、アル達は低い位置に転移したらしく、四つん這いの態勢だった。
頭上では轟然たる大音響が飛び交い、見上げた狭い空はどこまでも濁りきった色をしていた。
ここが戦場のどこで、自分たちがどのような状態に置かれているのか、何をまずしなければいけないのか。その答えを求めれば、一足先に立ち上がっていた先頭のアレクに視線を向けていた。
「ようこそ、アザレス第一防衛ラインへ」
悪びれた様子で笑うアレクの奥に、戦いが広がっていた。
黒煙が至る所から舞い上がり、事の異常性を物語る。時折、発生する閃輝と地面の振動。塔にいた時に感じた悪臭が、何倍にも膨れ上がり吐き気を誘った。
「っウ……」
咄嗟に、チサは両手で口を押える。さまざまな生き物の体臭や血液、臓物、汚物……。それらをすり潰し、燻したような匂いに、すでに気持ちが折れそうになる。
仲間の顔を見回し、この現状を共有したいが、全員が真剣そのものの表情をしていた。
この中で戦わなければいけないのか。
何も言えず、すると、自分だけが違うことに悩んでいるようで、自然と涙が零れそうになった。
きっと死んでしまう。一人苦しむチサの前に、一枚の白い羽根が降りてきた。
自然と目で追うと、次に、それが落ちてきた上空に顔を向けた。
瞬間。すべての不安が払拭されていく感覚が、チサの中で巻き起こった。
「わああぁ……」
思わず声が漏れるチサの瞳に、入りきらない数の武装した天使達が空を統べていた。まるで、闇夜に輝く星々のように、数多に集まった煌めきは彼女の心を癒すには十分だった。
彼らが宿す純白の翼は、曇天の下でも輝きを失わず、本物の天使の梯子を彷彿とさせる。
そんな姿に、チサは憧れた。ただ、それを壊そうとする輩がいるのも事実である。
気高い同志達の元へ、下方から魔の手が忍び寄る。黒煙に紛れ、異形の姿をしたモノ達が姿を現した。
「あれが、魔族」
形容しがたい姿のソレらは、息を飲むほどの多勢で迫っていた。生まれながらに備わった武器で力で、おそらく狩りをする時と同様の感覚で、天使達の息の根を止めに天を駆ける。
その光景にぽつりと呟いたチサへ、アレクが付け加えた。
「正確には魔獣の類だ」
その声色には闘志が満ち溢れ、魔獣を見上げる背中は一人の戦士そのものである。
アレクの思いを汲むように、上空の先頭に立つ天使が刀剣を魔獣達に向けた。それを合図に、天使達は魔獣を屠り始める。顔色一つ変えることなく斬り付け、串刺し、灰とし、次から次へと薙ぎ払っていく。
「……すごい」
初めて目の当たりにする天使と魔獣の激突に、元小天使メンバーが固唾を飲む。
魔獣は、個体差こそあるもののほとんどが天使よりも巨体だ。そんな己の何倍もの大きさを誇る魔獣を返り討ちにしていく同胞たちの姿に、気付けば見入っていた。
「ここ、第一防衛ラインでの役目は敵魔獣の殲滅。君たちには、俺の指揮のもとその補助を担ってもらう」
アレクがそう告げ、アル達に体を向けた瞬間。彼の背後をいきなり黒い影が覆った。
その正体を即座に理解したアルが、彼に警鐘を鳴らすために口を開く。それよりも先、彼の後ろに立つ魔獣が咆哮を放った。
狼を連想させる頭部。二本足で立ち、下腹部に比べ異常に発達した上半身。黒い毛並みは剛毛で、無駄に張ったいかり肩からは丸太のような両腕が伸びる。
「アレクさん、後ろ!」
一番間近で遭遇しているアレクだったが、彼は至って冷静だった。その理由は、鎌の如く鋭い爪が彼に振り上がる直後に分かった。
魔獣の分厚い胸板を、刃が貫いたのである。背後からの一突きに、魔獣はかぎ爪を振り上げた状態で静止した。勢いよくその刃を抜かれれば、舌をだらんと垂らし、アレクの横に転げ落ちた。
「…………」
アレクを除き、その場の全員が絶命した魔獣を見つめていた。
なにが起きたか理解できないでいると、小さな人影が、先程まで魔獣が立っていた位置にいることに気付いた。魔獣を仕留めた武器であろう両手にククリを携え、左手に持つ刀身に付いた血液を払い落す。
上下共に白と青緑色で統一された衣装で、口元を隠すように長く立ち上がった襟。丈の短いジャケットを羽織り、細い腰の両脇には武器を収納する鞘がある。その骨格から女性であることがわかった。
仕留めた魔獣を、軽蔑の思いが込められた淡い群青色の三白眼が見下ろす。その表情は、同じ天使であることを疑うほど険しい。
殺気だった雰囲気に加え、気配を感じさせなかった相手の実力に差を感じ、アルは思わずたじろいでしまった。
「状況は? ファームル」
あの一連の出来事が嘘のように、平然とアレクは女性の名前を呼んだ。声をかけられた相手は、アレクにも同様の目つきで答えた。
「悪魔、確認できない。このままいく、今日、凌げる」
名前を呼ばれたファームルの声はガサついており、潰れているのかとても低くい。
そして、彼女の報告を聞くと、アレクはいつもの笑顔を見せて応対した。
「そうか、ご苦労。もう一踏ん張りだな」
「そいつら、支援部隊?」
アレクの横から顔を出し、アル達と顔を合わせる。桃色の長髪が、後ろで左右に輪っかを作って束ねられている。
広い額で表情がよくわかり、余計に力の入った眼力がアルを襲った。アルは萎縮しながらも、責任感と意地から四つん這いの恰好から立ち上がる。それと同時に、アレクが彼女を紹介しようと手を向けた。
「こちら、今回の支援部隊隊長のアルだ」
隊長という響きに未だに慣れず、気ごちなくも深くお辞儀をする。
「アザレス第一防衛ライン、西の塔支援部隊隊長に任命されたアルです。よろしくお願いします」
「…………」
「………」
その態勢のまま数秒が経過しただろうか、一向に相手からの挨拶はない。
恐る恐る首だけを器用に動かし、どうしたのかとファームルの様子を窺うと、未だに殺気立った表情のままこちらを見下ろす姿があった。
私、ナニかしたんでしょうか……?
そんな眼差しで今度はアレクを見るが、彼は両手を肩のあたりに挙げて首を傾げるだけだった。
その後、ファームルがアル達に近付こうと一歩踏み出すと、突如、後方から爆発音が響いた。小さく舌打ちをするのが聞こえると、彼女は音の方へ踵を返す。
「早く、支援……」
そう言い残し、ファームルは颯爽とその場を後にした。
体感にして数分の出来事だった。未だ理解が及ばないアル達に、責任者でもあるアレクが告げた。
「いきなりすまんな。彼女は俺と同じ隊のファームル。人見知りでな、どうしても緊張して睨んでいると勘違いされてしまう。根は優しい奴だ。仲良くしてくれ」
アレクの申し訳なさそうな態度に、アルはいえいえ、と彼女の言動に理解を深めるのだった。とはいえ、実力は本物であることをアルは先の一戦で確信していた。それに比べ、魔獣への警告からの、己の行動の鈍さに反省していると「さてと、」と、アレクが声を上げた。
「急かされてしまったし、我々も行くとするか」
その発言に、改めて身が引き締まる。
「いよいよか……」
アルの背後で、楽しそうに笑みを零すシオンを筆頭に、チサ、マーク、ミラも起き上がる。
「お互い、悔いのないよう戦おう」
そう言って、アレクはアルに顔を向けた。その表情はどこか悲しく心配しているように窺えた。それが何を指し示しているのか、アルには分かってしまった。そこへ、シオンが口を挟んだ。
「なに、自分達のことは心配しないで下さい。そこに、立派な天使にするまで死なせないって張り切ってる大天使さまがいますから」
口調からして揶揄っているのは確実だった。加えて、「ほほう、それは頼もしいな」とアレクも参戦するものだから、アルは複雑な気持ちになる。
アレクの反応に気を良くしたのか、シオンは再び続けた。
「自信満々に言うもんだから、逆に助けそうで怖いですよ」
そう言って、ゆっくりアルの隣に歩み寄り顔を覗く。一体どんな苦しそうな顔を浮かべているのか、それを見たいがための煽りだった。きっと、自分で蒔いた種に圧し潰されそうになっているはずだ。
予想通り、アルは「大丈夫」と小さく呟いた。苦し紛れであることは声色からも読み取れ、畳みかけようと口を開きかけた。発言よりも先、目に入った彼女の横顔に言葉を失った。
「絶対、護るから」
強く、力の籠った意志は、言葉に、表情に溢れており、シオンはつまらなそうに小さく舌打ちをするのだった。
「さてと、悪ふざけもここまでだ」
手を叩きアレクは全員の顔を見た。期待、願望、不安、覚悟。様々な思いを込めて、天使達は各々、気を昂らせる。
もしかすると、生きて帰れないかもしれない。そんな恐怖を凌駕し、こうしてここに立っていられるのは、おそらく、彼女達をここまで支えてきた大切なもの達がいたからだろう。
それだけで十分。
「行くぞッ」
その言葉を合図に、全員が塹壕から身を乗り出した。
「我らに、神のご加護があらんことを」
決意を新たに、天使達は戦場の地へと駆け出した。
最後まで読んで下さりありがとうございます。
次回も楽しみにして頂けましたら幸いです。