騎士と魔導士
庭園には、名残の薔薇が咲いていた。
葉をわずかに紅く染めた荊に、一輪。
もの淋しげに揺れる。
クス、クス。
野趣味をのぞかせる庭は、すこし荒廃した感じを漂わせる。
クスクスクス……
人が好んで訪なうことの少なさそうな場所で、愉しげな忍び笑いが聞こえてくるのは、どういうわけか。
秋の妖精が、舞出し始めたか。
まあそんなわけがない。
ダーマード・ファトオウルは、自分の思考に鼻を鳴らした。
ずいぶんと乙女なことを考えたものだ。およそダーマードらしからぬ事であり、彼ならばまずは、誰か人が居ると考えるのが常である。
人気がないのに声が聞こえたら、まず間謀を疑え。
武官の常識である。
「まあ、テオなら『あら、妖精さんね』くらい言うか」
ロマンチックを愛する彼の上官なら。皮肉で粉飾されているだろうが。
「…………」
上官に毒された。
鈍い金髪の頭を振って、ダーマードは藪に手をかけた。
茂みの向こうからは、軽やかな声がする。
若干、媚びをふくんだ甘い声。
極限まで気配を消し、ダーマードは藪を掻き分け進む。
大抵の人間に見上げられるほどの大男だが、あえて身を屈めたりなどはしなかった。
色ボケ中の人間ほど、警戒心が皆無な生き物は居ない。
気配を消すだけで十分である。
音もさせずに藪を抜け出ると、古びた東屋が見えた。
絡まる蔦も、色味をおびはじめている。
その朽ちかけた東屋の屋根の下、あつらえられたベンチでもつれあう人影。
うふふ、と甘い笑い声がダーマードに届く。
組み敷かれる絹のドレスは濃いワインの色で、キープズ紐と呼ばれる組み紐の飾結びが裾を縁取っている。
その繊細な細工をふんだんに使うドレスは、ここ数年、高位貴族の間の流行りだ。
「ふふ。ダメよ、こんなとこで。これ以上はダメ」
まったくだ。
人気が無いとはいえ、誰かに見られたらどうするのだ。
退屈をもてあそぶ宮廷人に、わざわざゴシップを提供してやる必要は無い。
絹のドレスの上でもそもそと動く男の背を睨みながら、ダーマードは近づいた。
明るい金髪は、典型的な貴族の持ち物だ。
どうせ遊ぶなら、もっと趣味の良いのを選べばよいのに。
我が上官殿はいささか天の邪鬼だ。
自らを貶めようとするきらいがある。
東屋の階段を昇る。
もうそろそろ気づいているだろう。
というか、気づいていないようでは引退していただかないといけない。
「お楽しみのところ失礼いたします。キープズゲート」
びくり。
波打つ金髪が、背中で揺れる。
「議会より召喚命令です。いますぐご用意ください」
よく響く、と言われるダーマードの声は、四方の壁がない東屋でも、響いて通った。
はぁ。
心底うんざりといったため息が返る。
宵空の藍を流し込んで玉にしたような美しい双瞳と、ダーマードの黄玉の双眼が かちあう。
「野暮も大概に、と言いたいとこだけど」
たっぷりとした銀紫の巻き毛を、ココア色の腕がかきあげる。
「議会の召喚なら行かない訳にはいかないのよねぇ」
上に乗っていたよくある金髪の貴族の青年を押し退け、テオドシア・キープズゲードはゆっくり上体を起こした。
あらわになった肩と胸元、たくしあげられた裾から覗く脚が目につき、ダーマードは微かに眉をあげる。
濃い焦げ茶色の肌はよく手入れされており、細肌の細かさを示すように、うっすらと光を放つ。
これを保つのに苦心しているのはダーマードだというのに、功労者に断りもなく晒すとは許しがたい。
冷ややかに、慌てふためく青年貴族を一瞥すると、あとは居ないものとばかりに、テオドシアに向かった。
ベンチにもたれるテオドシアの前に、ひざまづく。
ほどよく肉と筋肉がついた、張りのある腿をスカートの中にもどすべく、捲れた裾に手をかける。
「体を持て余しておいでなら、私におっしゃって下さればよいのですよ」
低く囁いた。
裾を直すフリで、テオドシアの内腿を撫でる。
ぴんっと腿の筋肉が緊張して強張る。
そのまま膝の丸みの形をゆっくりと確かめ、膝裏の窪みに人差し指を入れ、脹ら脛を手で包みながら足首まで辿った。
降りた裾を整えながら、親指で足首の骨をやさしく弄る。
テオドシアは、当然の献身を受けているような顔で清ましているが、内心は腸が煮えくり返っているのだろう。
眼のふちが紅く染まっている。
す、と身を乗り出すと、ひるんだ気配がしたが、そこは流石。
態度には表さず、泰然とした顔を崩さない。
ダーマードは、ずり落ちているテオドシアの下着の肩ひもを引き上げた。
みっちりとした筋肉の、ココア色の肩に白いレースの肩ひもが戻る。
じつに素晴らしい色合いである。
その色の違いをこっそり、しかし十分に楽しんで、それからはだけた襟を留め直す。
ドレスの立襟は、飾結びの鈕で留められるようになっている。
それを留めながら、テオドシアのあまり目立たない喉仏をくすぐる。
テオドシアの眦が、きゅうと険しくなった。
「着替えられますか?」
「いいえ。このままで行くわ」
ダーマードの差し出した手は無視された。
待たせてるんでしょ、と言ってテオドシアはさっさと東屋を出る。
「テオッ」
先程まで睦合っていた青年が、すらりと伸びた背にすがるようにまろび出る。
その声に振り向いたテオドシアは、垂れた目をぱちくりさせている。
ああ、これは忘れていたなと、ダーマードは喉で笑った。
「悪いわね、ルグオン。またにしましょ」
ばちんとウィンクを飛ばして、未練も見せずにテオドシアは行ってしまう。
そのあとを追い、ダーマードは青年貴族の横を抜ける。
「ダ。ダーマード卿」
震える声で呼び掛けられ、これまた貴族にありがちな青い目で、キッと睨まれた。
若造にメンチ切られる覚えはねーぞと、ダーマードは笑みを深める。
ひるんだらしい青年は、ぐびりと喉を鳴らした。
この若者は、たしかバーミック家の冷飯食いのはずだ。
魔導官としても平凡。出世は家名のおかげでそこそこ出来るだろうが、それだけだ。
「なんでしょう。ルグオン」
貴族間の礼儀である敬称を付けてやらず、眼中に無いことをわざと示す。
彼は傷ついた顔を隠しきれなかった。
それに愉悦を覚える。
我ながら大人気が無いことだ。
しかし、テオドシアに相応しいとは思えない青年には、ここで消えていただきたい。
実際テオドシアも、もうほとんど興味が無いだろう。
「失礼。供に付かなくてはならないので」
話が無いならば呼び止めるな。時間がおしいと、冷ややかさでもって表す。
何かを言うまで待ってやるほど親切ではない。
今度こそダーマードも東屋を出る。
青年は傷ついて歪めた顔のまま、取り残されてゆく。
これぐらいで崩れる程度のプライドの持ち主ならば、遅かれ早かれ、テオドシアから離れていたはずだ。
早めに追い払うに越したことは無い。
ダーマードの上官は、美しく強い。
姿も、心根も。魔導武官としても。
上官自身も信じていない美しさを、引き寄せる男たちのなかで、真に理解しているものは、いるのだろうか。
ダーマードが愛するそれを、損なわせるわけにはいかない。
もはや姿の見えなくなった上官を追って、ダーマードは早足に庭園を横切った。