1章4話「彼に触れる」
沙耶からの最後の手紙を読み終えた時からしばらくすると。金山さんとは違う刑務官が僕の前に現れた。
「橘、時間だ。これから移送だ。」
とうとうこの瞬間がやってきたのだ。出室を命じられ僕は収監されていた独居房から出ることを許された。室内に備えていた履物を取り出し部屋から出ようとする時に金山さんから声を掛けられた。
「どうだった。」
「どうって……今際の際でどうもないですよ。」
少しぶっきらぼうに言うと金山さんは思わず苦笑した。
「そう言われればそうなんだがな。でも、それくらいの軽口をたたける程度には君の心に影響があったのだろうな。
確かに金山さんの言うとおりだ。でもその心の余裕が僕に人間として最も原始的な感情を呼び起こさせたのだ。
「怖いか、これから死ぬのが。」
金山さんが僕に尋ねる。僕はその問いに答えられない。
「そうだろうな。君は自分の犯した罪と君個人の死にたくないという感情を今天秤にかけている。それが罪の意識に苛まれるということだ。君はやっと今自分の罪を自覚したんだ。彼女からの手紙を読んで”死にたくない”という自我に気づいたからだ。君は彼女を助ける為に多くの人を殺した。君は自分のエゴで人を殺し、それで得た報酬を糧に彼女を病から救おうとした。」ふ、と息を吐き金山さんは言葉を連ねる。まるで今まで溜めていたものをすべて吐き出すように。
「確かに君の当時の立場で考えたらそうするのが一番効率的に大金を集めることができた。警視庁公安部の主任ともなれば尚更だ。極左思想の指定暴力団の組織と秘密裏に契約を結び、彼らの依頼、つまり敵対組織の重要人物の暗殺を請け負った。その報酬として多額の現金を受け取り君の妻、沙耶さんの病気の治療費を捻出した。事件の全貌のうち外の薄い皮だけ剥いでみてもだいぶ問題があるとはいえ”自分の身を滅ぼしてまで妻を助けようとした”、”反社会的勢力の人間の間引きを行った”というメディアに報道されている部分だけ見れば君を”悲しき殺人鬼”などと祀り上げて半ば英雄視する風潮もわかる。特に当時はそういう話題に欠いていたものだからそれも追い風となった。だがなこの事件には、いや君にはまだ公表されていない、公表できない重大な闇が隠されている。」
金山さんはまっすぐ僕を見つめて言葉を放った。
「君はいつの間にか目標のための手段ではなく、手段を得るための目標を掲げていたのではないのか?」