1章3話「やり残したこと」
金山さんから死刑の執行の知らせを受けた時、全てを掬い上げられたような感覚を覚えた。そこでやっと、僕はこの時が来るのを待ち望んでいたんだということに気付かされた。ここから見える景色、限られた景色しか見られないのだけど、窓から見える灰色の空も、シミだらけのこの天井も今この瞬間では懐かしさすら感じる。
「分かりました。」僕は自分の本心を悟られないように努めて冷静に返答することができた。ここまで人間然として人と接することができるようになったのは金山さんが僕を辛抱強く見てくれていたところによるものが大きい。あの日から、僕はここに来るまで人としての感情がほとんどが麻痺していたから。
「と言っても、執行までは移送の準備やらなにやらで時間がかかるものでな。橘、何か最後にやり残したことはないか?」
彼もまた努めて職員然として僕に対応してくれた。確かに一個人として僕は彼に信頼をおいている。だからこそそんな僕を気遣ってくれてのことだと容易に理解する事ができた。
「……いえ、特には。」
いくらか考えてみたものの今の僕にはやり残すことなどあるはずもない。これから僕は死ににいくのだ。
「そう言うと思ってだな。最後に君に一つだけやってもらいたいことを持ってきた。」
「え?」
僕が全く思っていなかった彼の言葉に思わず声を上げてしまった。
すると金山さんは微笑むような、それでいて少し悲しそうな顔をして言葉を続けた。
「君がここに来てそんな顔をするようになるとはな。それより君にやってもらいたいというのはこれなんだ。」
彼はそう言って脇に携えていたファイルから一通の手紙を取り出した。それを見た瞬間僕は息が詰まった。その手紙はいつも僕が見ていたあの手紙たちと全く変わらない、よく知っているまっさらな封筒。
「今朝方届いてな、いつもなら検閲に時間を要するのだが今回は事情が事情だ。検閲も必要ないだろうしな。だから君がこの手紙を読む最初の人物だ。」
そう言って金山さんは僕に手紙を差し出した。僕は手が震えてうまく手紙を受け取ることができなかった。手紙を手にとったまま軽く呼吸を整え改めて手紙を見てみる。目を凝らしてみると封筒にこころなしか皺が付いているように見える。今までこんなことはなかったのに。しかし次の瞬間今までの手紙と明らかに違う箇所が目に止まった。宛名の文字が震えている。差出人の文字も。それを見て僕は直感した。金山さんもそんな僕を見て全てを察したように口を開いた。
「あまりこういう言葉は使いたくはないのだが、これも運命と言うべきなのか。この手紙がここに届いて数分後のことだ。橘沙耶さんの訃報が届いた。午前7時11分のことだそうだ。」
沙耶、死んだのか。
意外とそれ以外の言葉が思い浮かばなかった。あれだけ彼女を助けようと必死だったのに、それだけしか考えずに生きてきたのに。意外と結果はあっけなかったものだと思う。というより現実感がないのだろうか。それもそうだ、彼女の死は金山さんからしか聞かされていないしこの目で確かめることすらできなかったのだから。
「天寿を全うするまで彼女は必死に頑張られた。まるで君の犯した罪に報いるように、だそうだ。」
「そう、ですか。」
言葉が何も選べなかった。
「おそらくそれは彼女が最後の力を振り絞って君に宛てた最後の手紙だろう。これを読むまで君に死刑が執行されることは、君が死ぬことは俺が許さない。君は彼女の最後の言葉を噛み締めろ。そうやって死んでいくんだ。それが君が死ぬ前にやるべき最後の仕事だ。」
力を込めて、全てを噛み締めるように彼は僕に言った。彼も彼なりに考えるところはあるのだろうか。そう考えるとこれから死ぬ人間にすら感情を込めて、最後まで人として接してくれる金山さんは本当に素敵な人だと思う。彼がここの担当の職員でいてくれて良かった。
でも。
僕は大罪人で彼は刑務官だ。そして僕はこれから裁かれるのだ。今更こんな感情が何になるというのだろう。
それでも。
「分かりました。金山さん、ありがとうございました。」
「……」
何も言わず彼は僕の前から去った。でも大丈夫、彼には全て伝わったようだ。金山さん、今まで僕の面倒を見てくれてありがとうございます。最後に見送ってくれる人があなたで良かった。
金山さんが去ったあと僕は自室の文机に向かって手紙を置き、心を整えた。流石にこの手紙を見るには多少の勇気がいる。
幾分が時が過ぎ、ようやく心の準備ができたところで手紙の封を開ける。そして便箋に目を通す。
僕はこの手紙を死んでも忘れることはないだろう。