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C'est la vie  作者: 増田部 詩音
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1章2話「彼との始まり」

 刑務官の一日は早い。収監されている受刑者達の起床時間に合わせて、その時刻が来る前に万全の準備を整えておかないとならない。社会復帰、更生の導き手たる彼らは受刑者の前では中途半端な立ち居振る舞いは許されないからだ。府中刑務所内で拘置区の担当職員である金山悟は出勤の後に素早く着替えと早すぎる朝食を済ませ、午前6時には夜勤交替勤務の後輩受刑者から連絡事項を確認し、既に業務へと取り掛かる準備を完了していた。

 彼が刑務官として働き始めてもう20年が経つ。高校卒業と同時に親元を離れられ食い扶持を失うことのない職業に就くため刑務官という職業を選んだのだ。今でこそ彼は何ということもなく仕事をこなしてはいるが、最初の3年間いや5年間は全くと言っていいほど刑務官という職業を選択した自分を呪ったことか。夜勤、日勤の入れ替わりが激しい交替勤務のシフトに慣れることが一つ。先輩刑務官の叱責を受けることが一つ。元々体育会系で鳴らしていた彼はそれほど自分はやわじゃないと高を括っていたが完全に見当違いだったのだ。それに何より耐え難かったのが受刑者に新人の刑務官だからといって舐められたことだ。受刑者は少しでも自分に臆しているという態度を見せようものなら一気に彼らに呑まれてしまう。彼らは檻に閉じ込められているといえ一人の人間なのだ。彼らにだって人を品定めし人に応じて態度を変えるのは自明の理であった。そこに気付くまでに何よりも時間がかかった。だが、その事に気づいてから認識した点もある。刑務官たちが真摯に受刑者たちと向き合うと彼らも刑務官に対して真摯な姿勢を取る受刑者も多い、という点だ。そして受刑生活を通じて社会復帰へ前向きに取り組み見事に更生した受刑者を社会に送り出すことの喜びはこの職業の何よりにも代えがたい唯一の賜りものであると。

 それから彼は先輩の仕事を観察し、どうすれば自分が立派な刑務官になれるかを模索し実践を続けた。その結果、一年、また一年と彼を慕ってくれる受刑者が増え、遂には自分宛てに元受刑者から社会復帰後に感謝の手紙をもらったことまであった。そこでやっと、彼は自分の努力が報われたと、この職業を選んでよかったと感じた。

 その事実は刑務所内や刑務官内にも波及し、30歳になる年、勤続12年目にして初めて刑務所内の工場を担当させれられるまでになった。工場担当に命ぜられる刑務官は受刑者の刑務作業を監督し更には彼らの私生活を監督する任が与えられる。そのため、刑務官の中で最も受刑者と交流する機会が多い工場担当にはある程度の刑務官としてまた人としての素養が求められる。金山はそれに足りうる刑務官だ、と上に認められたのと同義なので任命された際彼は大いに喜んだ。

 そして彼が最初に工場担当として与えられた場所が拘置区の担当職員だった。拘置区の担当は初めて担当を任せてもらう刑務官が必ず通る道であり自分の能力を試すいい環境だった。未だに刑事罰の執行されていない分まだ受刑者たちより聞き分けの良い人間が多いのだが逆に刑事罰が確定していない間は日本の刑法上では『被疑者は推定無罪として扱う』という原則があり、それに乗じて好き放題する人間も一定数いるからだ。

 刑務官として今までで培ってきた辣腕を振るいながら金山が工場担当として過ごして1年が過ぎた頃のことだった。いつものように支度を終え拘置区へ向かおうとしているとふと先輩職員に呼び止められた。なんでも、近日中に厄介な人間が拘置区に送り込まれてくるのだ、と先輩職員は言ってきたのだ。

 彼にはなんとなく察しが付いていた。なにせ数年前に世間を賑わせた『悲しき殺人鬼』の死刑の判決が下った報道がつい最近なされていたからだ。彼が逮捕された区域は都内、なら死刑の判決が確定した人間が死刑の執行まで収監されるのはここ府中刑務所だろうと思っていたからだ。なので彼は別段驚くこともなく件の殺人鬼が来るのだろうと返答した。先輩職員は心配するようでも気の毒そうにも見える表情で気をつけろとだけ言ってきた。

 その台詞を聞いてからというもの、彼は何に気を付ければいいのだろうかと思案の日々を続けた。初めて死刑判決を受けた人間と接することだろうか、それともその男自身に気をつけなければならないのか。はたまたはそのどちらもか。

 喉元に骨が引っかかるような感覚を味わいながら仕事を続けて数週間後、遂に彼が、『悲しき殺人鬼』が府中刑務所拘置区にやってきたのだった。


彼は『悲しき殺人鬼』橘律樹と初めて会った日のこと、初めて抱いた彼の印象、そしてこれから彼と過ごすかけがえのない時間をこれから忘れることはないだろうと瞬間的に感じたのだった。

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