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C'est la vie  作者: 増田部 詩音
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1章1話「彼の終わり」

初投稿作品になります。

 毎朝6時50分、起床の号令で目を覚ます。素早く顔を洗い、布団を畳み指定位置にきれいに直す。次の点呼の号令まで幾分か―10分程度しかないのだが―時間があるので歯を磨きながら窓の外の景色を眺める。 

 ろくに手入れもなされていない地面でも春の訪れを感じることもできるのだな、と彼は鉄格子に囲まれた部屋から眺められる限られた景色を見つめていた。

 もう何回、この部屋で新しい季節を迎えるのだろうか。彼には時間の感覚さえ曖昧になっていた。都内にひっそりと、しかし独特な雰囲気を感じさせ存在する府中刑務所、その中でも未だに刑事罰が確定していない容疑者が拘束されている拘置区域、いわゆる『未決』で彼はゆっくりと自分の刑が執行されるのを待っていた。

 「殺人罪」、それが彼の犯した罪であり彼は長きに渡る裁判の結果死刑の判決が下った。5年以上前に世間を賑わせた殺人鬼として彼は多くの人々を好奇と恐怖の渦に陥れた。しかし取り調べやマスコミの調査によって彼がただの殺人鬼ではないことが明るみに出てきてからは世間の彼に対する印象や心象に変化が出てきたのであった。

 世論は彼を死刑にすべきではない、という声が大きくあげられることとなったが終には一審、二審と判決が変わることはなかった。「被告人の事件を起こした経緯や世論には斟酌すべき意見も含まれてはいるが、被告人が殺人を犯したという事実は覆しようがなく、殺人を行った人数があまりにも多く過去の判例からみても今回の事件と同数またはそれに近い事例での極刑以外の選択肢がない。」というのが一貫して裁判所の総意であった。

「点検用意」

看守の号令が聞こえたので彼は素早く身を正し点呼の位置に待機する。朝からのこの動作もはじめはとても慣れはしなかったが、何年も拘置所で過ごしている今となっては特に思うところはなく生活の一部として彼に刷り込まれていた。

 府中刑務所は拘置所といっても収監されている犯罪者の数が他の収監施設が段違いで多いので点呼を取ってから終わるまでが5分以上かかる。

「点検終了、安めー!」と看守の声が放たれたので彼は姿勢を崩し貸与された小机に向かい、昨日読みかけていた本を手に取った。元々、彼は読書は嫌いではなかったが学生の時分が終わって社会人として生活するようになってからは読書にふける時間も得られなかったが、収監されている間は嫌というほど時間に空きがあるためこうして読書をする時間が多くなっていったのだった。といっても、彼がこうして落ち着いて読書を嗜めるようになるまでかなりに時間を要したのだが。

 配給された朝食も食べ終え、いつものように戸外運動の時間が来るまで本でも読もうかと思っていたところで看守が自分が収容されている部屋の前で足を止めた。

「橘」看守が彼の部屋を食器口から覗き込むようにして声をかける。

「はい」彼は読みかけていた本を閉じ看守の呼びかけに答えながら食器口前に移動した。

「称呼番号、氏名は」

「2078番、橘」

「今回は名前まで」と短く彼を促す看守。どことなく彼の声色には緊張と悲哀の色が感じられるのを彼は聞き逃さなかった。彼が収監されてから一度も拘置区の担当を変わることのなかったこの看守に彼は他の看守とは違う感情を抱いていた。拘置所に移送されてから、いや警察に逮捕されてから彼は生きる理由を失ったかのような表情をしていた。実際彼もそのように思っていた。しかし、この看守をはじめとする彼の周りを取り巻く人々のおかげで彼も生来の穏やかな性格、生活を少しは取り戻すことができたのだった。

「橘…律樹(りつき)。」彼の声から感じ取ったものの答え、そして彼から与えられ取り戻すことのできた今の自分を自覚しながら看守の声に応えた。

「今日だ、橘。本日午前9時30分より橘律樹の死刑を執行する。」

 ようやくこの時が来たのだ。彼は長い時間の末に受け取ることの叶った彼に残された唯一の福音に深い安堵を隠すことができなかった。


気軽にコメントやご評価、感想等のご意見いただけたら幸いです。

皆様のお言葉とともに自身も成長していけたらと思っております。

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