プレイ・ボール
見上げれば、空は重い灰色だ。
灰色の無個性な建物に切り取られたこの街の空はいつも灰色で、街もいつも灰色だ。
この場所はモノクロームの無声映画のよう。どこもかしこも灰色で、生気がなくて、静まり返っている。
色があるのは、いたるところに張り巡らされた水路を泳ぐ鯉たちだけだ。
オレンジ、赤、白、金色。灰色の世界の中でそこだけが鮮やかに彩られている。
おかしな街だ。いつからこうで、どうしてこうで、そして自分はどうしてここにいるのだろう。
オッターヴォは空を見上げたまま思う。
記憶はぼんやりとしている。そうなるように、思い出さないように、自分で自分に暗示をかけた。
名前は一番に忘れた。オッターヴォに、今の自分になる前にどんな場所にいて、どんな人間と暮らしていたのか、もう思い出せない。
それでも『虐げられていた』ということだけは忘れられないのだ。
唇の端を吊り上げてひとり嗤う。嗤うしかない。
逃げることも、克服することも、打ち負かすこともできないなら。
負け犬のままで生き続けるしかない。
灰色の世界の中に、白い異物が現れる。
海洋生物のような、天使のカリカチュアのようなそれは、視界の中で見る間に増えていく。
ああ、いつもいつも。
どこから現れるのだろう、やつらは。
都市を蝕み世界を侵食するモノたち。
それを片付けるのが自分たち『ヴィルトゥオーゾ』の仕事であり、存在意義だ。
やがて『天使』は増殖を止める。数体の時もあるし、もっと多い時もある。
今回は二十体を少し超えたところで止まった。出現数としては多いが、
(自分向きの数だ)
オッターヴォは薄く嗤う。
増殖をやめた『天使』たちは攻撃に転じようとする。
その瞬間を狙って、オッターヴォは低く言う。
「プレイ・ボール」
ヴィルトゥオーゾとしての彼の能力発動の条件は二つ。
敵が十八体以上二十七体未満であることと、戦闘がまだ始まっていないことだ。
それを満たした時のみ、オッターヴォはプレイ開始を宣言できる。
宣言さえしてしまえば、後は高みの見物だ。中空に作られた仮想のダイヤモンドに全ての敵は整列する。そして二つのチームに分かれて 闘争 を始める。
オッターヴォはそれを見守り、ジャッジを下すだけだ。試合開始を宣言した彼は闘争の外にある者、審判に他ならないのだから。
ゲームは、ほぼ厳密に野球のルールにのっとって行われる。
幻想のフィールド上で、幻想のボールを使って行われるゲーム。『ストライク』『ボール』『セーフ』『アウト』。オッターヴォはひとつひとつを厳格に判断する。
ただし『アウト』の判定を受けることは『ゲームからの除外』を意味する。
偽りのフィールドからの除外ではない。文字通り『世界』からの除外だ。
オッターヴォに『アウト』を宣告されたものは、もれなくその場で命を失う。これはそういうデス・ゲームだ。
終了条件は『九回の攻防を終える』か、『フィールドからプレイヤーがいなくなる』のどちらかである。オッターヴォがこの 技 を身に着けてから、九回裏まで耐えきった者はいない。
五回裏でゲームは終了した。中空の輝くフィールドは消え、動かなくなった屍だけが灰色の石畳にぼたぼたと落ちてくる。生きていた時は白く輝いていた『天使』たちも、屍になるとこの街と同じ灰色だった。
耳ざわりな駆動音を立てながら清掃マシーンがやって来て、『天使』の屍を次々に回収していった。
水路に屍が落ちた場所には、錦鯉たちが群がっていた。案外、あのために水路に鯉が放されているのかもしれないなとオッターヴォは思った。
自分が戦う『天使』が何者なのか、オッターヴォは知らない。
やつらが本当にあんな姿をしているのか、自分の視覚すら信用できない。
本当は、自分が殺戮しているのはただの人間なのかもしれない。それとも怖気をふるうような怪物なのかもしれない。
わからない、わからない、どちらでもいい。
ヴィルトゥオーゾは『天使』の姿をした相手を狩るための装置なのだ。
そういう人外になるべく選ばれた瞬間から、自分はヒトであることをやめた。
既に『アウト』を宣告されているのだ、ヒトの世界から。
名前もなく、望みもなく、何もなく。ただ敵を狩るためだけに。
ヴィルトゥオーゾ・オッターヴォとして存在する。
それが自分なのだ。