三章 * 黒い恐怖 1
この幕はビスに戻ります。
リオンさん、自分のことをちょっと知るようです。
ビスにきて数日たった夜だった。
全員がその変化に気がついている。本当に魔物が毎日ビスの周辺を徘徊し町を荒らし、眠れぬ日々を送っていたのが嘘だったと思う静かな夜を迎えていたからだ。
一度落ち着いて、そのあとさらに凶暴化した魔物が襲ってくるというリオンの言葉が現実味を帯びはじめたことに、言葉にせずとも騎士団の中では緊張感が高まって自然と意識はその静けさの裏にある未知の動向に向けられていた。
そして、静けさは突然破られる。
さらに、分かってはいても、理解していても、今までの対応とは違う極端な変更に戸惑い悩む。
魔物を見つけても直ぐに攻撃しない。
魔物が様子を伺っているだけなら静かにその場を去る。
通常の魔物よりも大きくて素早いと判断ができ、苦戦する可能性が分かった時点でそれ以上討伐しようとせず、すぐさま逃げる。
逃げることを生き残る選択肢の一つとする。
セリードはもちろん、騎士団に所属し一度でも魔物の討伐経験がある者はリオンのそんな教えにかなりの抵抗があるし、信用もできていなかった。
しかし。それが覆る時が迫っていた。
「嫌な予感がします」
リオンの一言がまるで合図のようだった。
この日リオンは胸騒ぎがするとセリードに伝えすぐさま魔物に荒らされ荒廃した住宅地のある区画との境界がもはや分からなくなった、風景に馴染まなくなった熱帯雨林特有の生い茂る木々が荒らされ一部消失してしまった、異質になってしまった場所に来ていた。
マリオと騎士や魔導師が息をのみ、少し前にいるリオンの背中を見つめる。リオンの横にはセリードとジルがいて、彼らは剣に手をかけることもなくただじっとしている。
最近までは、討伐の際に緊急事態発生時の騎士団総動員の号令を出すかどうか迷うことになるだろうと予測していたマリオも、その迷いを一瞬で捨てていた。
不気味な静けさと、リオンから聞かされていた過去の話から、迷いは致命的と判断したからだ。
「騎士団全隊へ、非常事態宣言。速やかに体制を整えろ」
その体制は、いつもと違うものだが。
三人のさらに前方、木々が茂る森のなかに、大きな黒い影を誰よりも早くリオンが目視で四体確認したその直後。
その四体はこの中で最も経験のあるマリオですら見たことのない、巨大な存在。それがゆらり、と空気を揺らして出現した。それはその場にいた騎士や魔導師の冷静さを一瞬で奪う程の動揺を引き起こしたし、この中で一番リオンを理解し、その知識を得ているセリードも自分の目がおかしくなったのかと疑ってしまう、そんな動揺をした。
今までの騎士としての習慣と本能のせいでとっさにマリオが討伐の号令をかける。剣を握り、大声で士気を高めるように指示を出し、それに誘発されて団員達が動こうと体制を整えた瞬間リオンは振り向いて叫ぶ。
「やめてください! 約束したはず!! じっとして!! 声を出さないで!! あの大きさは倒せません!!」
リオンはそう叫んで彼らに再び背を向けて森に向かって一人で進むと、ピタリと止まってそのまま動かなくなった。
「セリード様もジルさんも、剣に絶対手をかけないで下さい。あれくらい大きいとそれなりの知能があります、こちらの出方を伺っているから刺激する行動は避けてください」
その一言で、その場は静まり返った。当然マリオ達も、困惑しながらもなんとか高めた士気を抑え込む。
セリードとジルは、ゆっくり足音にも気を張りながら、リオンの隣に再びならんだ。
一瞬起こった騎士団の動きと数分間の沈黙は、周りに市民を呼んでいた。騎士団がピリピリした空気をまとい、そんな市民に声を出さないように、何度も何度も抑えた声で呼び掛ける。その異様な騎士団の動きに誘導されて、いつしか沢山の人の集まりは静けさと、緊張感で支配されていた。
「根比べ、かな?」
セリードが呟くとリオンは小さく頷く。
「おい、大丈夫か?」
ジルの声にセリードが真っ直ぐ前を見ていた目をリオンに向ける。彼女は額に汗をかいていて、それが暑さのせいではないとジルが気づいた。
「増え、てる。どんどん、周りに」
「リオン?」
無表情だったはずの彼女に、焦りが浮かんだ。リオンの息がわずかに荒くなる。
「エールじゃ、ない。この、感じ……セリード様、さがって……」
「リオン、一人には」
「ダメです、試されてる、私はもちろん、全員、試されてるみたい……皆を下がらせて貰えますか、静かに、絶対、彼らに手出ししないよう」
「わかった。ジル」
「ああ」
二人がゆっくり、ゆっくり、森には背を向けず、後ろ向きで後退して来るのを見てマリオの隣にいたフィオラがすぐに反応する。
「団長、私たちも下がりましょう」
「おい、リオンどうすんだよ?!」
「考えなしに一人になる訳じゃありませよ。たぶん私たちがいるのが不都合なのかも」
「……よし、おい、皆静かに下がれ。いいか、出来るだけ騒がないよう周りを抑え込め。混乱させるな」
奇妙で異質な光景が広がった。
無言で息を潜め、足早に人が荒廃した地区から次々と逃げ出す。悲鳴のような混乱した声が聞こえるのはそのずっと先で、その声が広がるほど足が速くなっていく。マリオたちに一番近かった市民は皆が散り散りになって空間が出来ると一気に走りだし、それにつられるように走り出す人が爆発的に増え、悲鳴と混乱が拡大していった。
「大丈夫か、あいつ」
いてもたってもいられない様子でマリオはその場でリオンを見つめながらウロウロするが、セリードは腕を組んで離れた所にいるリオンの背中を見つめている。
「試されてる、と言ってました」
マリオの足が止まり、フィオラや団員はセリードに注目する。
「試されてるって、俺たちがか?」
「ええ、でもおそらく、リオンが主にでしょうね」
「試すって、何のことだ」
「分かりません、それより、周りが凄いことになっているみたいですよ、大丈夫ですか」
「ああ、この騒ぎは仕方ねえだろ、周りはバノンに任せてある。何とかしてもらうさ」
「そっちじゃありません」
「なに?」
「去り際、リオンに言われました。この森の奥に無数の魔物が集まってきていると。とんでもない数らしいです、討伐なんて、無理でしょうね」
マリオが何か言おうとしたのをセリードが手を向けて制した。
「絶対に騒いではいけません、リオンの言うように静かにしていましょう。我々が騒いだら大混乱ですよ」
闇に紛れこちらを見ている存在。
リオンの正面にいる。
かなり大きい。
エールよりもはるかに。
そして、異形の姿と闇に溶け込む黒。
どうやって彼らはあの体で音もなく来るのだろう? リオンはそう思ったことがある。
今ならわかる。
彼らはやはり聖獣なのだと。
その存在を現すことは稀なのは、いつでも、どこにでも、自らの意思で自由に行き来することが出来る力を持つゆえに、人間の目を欺くことは息をするように簡単なことだから。この世界では一度出現してしまえば空間など無視して彼らは存在出来る。リオンの中にあるという聖域の扉は関係ないのだ。
普段音を立てない彼ら同様、魔物も音を立てない。それは間違いなく聖獣との共通点だ。
魔物は聖獣の穢れが生を得たもの。
その穢れは人間の欲望、憎悪、恐怖が生む。
(そんなの、無くすなんて無理よ。シンの言った通り、私たちは過ちを何度も繰り返すのよ、時が経てば……過ちを皆が忘れてしまうんだから)
それでも、リオンの中でどうしても消せない綺麗事がある。
人と聖獣の共存を取り戻したい。
たとえ不可能だとしても、挑んで行きたい。
「ごめんなさい、私は、とても、弱くて無力で、ここまでたどり着くのにずいぶん時間がかかってしまった。……もっと早く、聖域の扉として覚醒していればあなたを怒らせることもなく、傷つけることもなかったかもしれない」
『聖域の扉は皆そう言う』
低い、唸るような声だった。
『そうだからこそ、聖域の扉に選ばれ、そして我々と魂を共有し、我々の扉となり、この美しき世界へ導く』
「この世界、好きでいてくれる?」
『ああ、もちろん。空も、大地も、海原も何もかもが美しいこの世界を我々は慈しむ。しかしリオンよ、人間は醜い』
「ごめんね」
『お前のように、我らの穢れすら生ある物として見るその真っ直ぐさがあれば、我々聖獣もこんな醜い姿になることはないというのに。この矛盾もまた、この世界の理だろう』
「……あなたも、ずっとその姿のまま?」
『そうだな、ずいぶん長い間この姿の気がする。ここまでなれば、シンのように、扉が完全に修復されなければ聖域に戻ることは叶わん。だからこれから先も、私はここで、この美しいこの世界を、ありのままの美しい風景が損なわれることがないよう守るだけ。《フォルサ》の願いを守り続けるだけ』
「あなたも、フォルサを知っているの?」
『共に戦った、あのころは、良かった。我々は人間と共存していた』
「もう、無理?」
『ああ、あの頃のようには二度と戻らん』
寂しさを含んだ、微笑みのようなそんな表情をしたようにリオンには見えた。
リオンが話している。
誰と?
目の前の巨大な魔物たちではない。
その先に何かいる?
「誰と、話してるの?」
フィオラの疑問が口に出ていた。
それは、その場にいた全員の疑問を代弁するものでもあった。
(いるんだな、その先に)
セリードは自分の中の目には映らないその姿を探すことはしない。
ただ、その存在がリオンに何を話すのか、それだけが気がかりだった。