二章 * 理想と現実 4
リオンが目の前で堂々と守ってくれるように立っているから、安心して立っていられる。そんな単純なことでは片付けられない感覚だった。リオンが急に振り向いたのでむしろそのことに驚いてフィオラはびくりと体を強張らせてしまって、それを見たリオンもビックリして体を強張らせた。
「び、ビックリした。急に振り向かないでよ」
「なんで? びっくりするところ違う気がするんだけど?」
リオンが笑っている。魔物に囲まれた状況で、彼女は実に落ち着いている。それがフィオラを急激に落ち着かせ、そして冷静にさせてくれた。
「ね、ねえ、もしかしてあれって」
「うん、他と違うのわかるよね。聖獣よ、間違いなく。魔物と同じ黒なのに……大きさだけじゃ済まされない存在感があるでしょ、シンに、通ずるものがあるから」
リオンは、振り向き再びその存在と向き合った。
「ごめんなさい、あなたの住処に入り込んで。でも会いたかったのよ、会って、話したかったの。用が済めば直ぐに出ていくから少しだけ私に付き合ってくれる?」
『私の存在を知っていたのか?』
「いいえ、ごめんなさい、そうじゃないの。ただ、ここに来れば話せる相手がいる、そんな気がしただけ」
『ふははは! 面白いことを言う』
その高笑いに、フィオラがまた驚く。実に爽快に、心から面白がって笑っているように見えたのだ。
「笑ってる……」
『珍しいか?』
「えっ!?」
『私から見たらお前こそかなり珍しい人間に見えるがな』
そう言われてフィオラは目が点になるようにキョトンとして、その目をリオンに向ける。
「私そんなに変わってる?」
「うん、まぁ、色々規格外だし、我が道を行くタイプよね」
「……それなりにショック受けるわね」
妙なやり取りが行われたその時、太陽が完全に沈み暗闇に包まれようとしている二人の周りの森の木々が、風に撫でられるように葉をサワサワと擦れ合う音を出した。無数に取り囲んでいた魔物が一体、また一体と、闇に紛れて消えて行く。
「これは……」
フィオラは呆然と立ち尽くし、リオンは驚きつつも、その顔には穏やかな笑みが浮かび、ホッと安堵の息が漏れた。
『久しく落ち着いた人の声を聞いていなかった。お前たちの声は悪くない、話を聞いてやろう。』
パッと笑顔になってリオンは、大きな声で言った。
「ありがとう!」
名前は《エール》。古い時代からいるシンに比べるとこの世界に来たのはかなり新しい時代だと言う。それでも、エールが来た頃の、当時のことで知るこの国のことを聞くと、
「うわぁ、あの遺跡に人が住んでたってことは二千年以上前だわ」
とフィオラが遠い目をした。
『なぜ、ここに来た? 私はお前と関わることはないと思っていたのだが』
穏やかで、まるでリオンを気遣うような優しい問いかけに、リオンは苦笑する。
「……色々、考えることが多くて」
『私はお前の中を通ることはできない、聖域の扉を私のような姿しているものたちは恐らくお前が生きている間は通れないだろうしな。会う必要はないと思っていたのだ』
「え? どういうこと?」
フィオラが意外そうにして、リオンに問いかけるような表情をする。それに答えるべくリオンがセリードと共に体験したこと、オクトナから教えられたことを話そうとした。けれどそれを話だしたのはエールだった。
『この姿は負を背負って穢れた状態だ。このまま通ると扉を腐らせ、破壊してしまう。今扉は訳あって崩壊寸前でな……通ることができるのは穢れを受けていないもののみ』
「じゃあ、いつその扉は元に戻るの?」
『さぁ、そればかりは我々は答えを出せないのだよ、全てはリオンとお前たち人間が次第だと思ってくれてかまわない』
「リオンと、私たち次第?ねえ、それってつまりは私たちの知識や意識の問題よね……―――」
リオンは、不思議な気分だった。
人々の恐怖の象徴とも言えるこの黒い存在は今、その人間を前にして穏やかに話し聞かせている。その人間も怯えることもなく、まるで人間と会話をしているように正面で真剣に耳を傾けて、時折質問しているし、逆に人間のことを聞かれて言葉を選びつつもそれに答えている。
人の命を奪い、喰らい、時には生かす代償として苦痛を植え付ける。
怒りの矛先は人間。怒りの原因を生み出すのも人間。
その人間を前に黒い存在は静かに人間と時を過ごしている。
その黒い存在を前に人間は真剣な面持ちで時を過ごしている。
(シンの時も、そうだった……。短い時間だったけどビートとも会話してくれて……たとえ、裏切られても直ぐに町を壊滅させるほどの恐怖の存在に成り果てるわけじゃないのよ、いろんな事が積み重なって、恐怖の存在になってしまう)
必要なのは、互いのことを理解することだけなのだと、先入観なと持たず想いを、考えを互いに知り、そして伝え、それらを理解していくことなのだ。
今この世界に必要な事であろう縮図が目の前で繰り広げられている。その光景をリオンは、じっと見つめる。
どれくらいその光景を見つめていただろう。
リオンは殆ど話さなかった。フィオラとエールの、セリードとオクトナが交わした言葉に似た内容を時間をかけて話す姿が、このまま続けばいいと思ってしまった。
昔は、人と聖獣がこうして話をするのが当たり前だったことを《過去の記憶》で見せられて、純粋に羨ましいと、自分も他の人もその一部になれればと何度も何度も、憧れを抱いた。
それがどうしてこんな世界になってしまったのか。
どうしてこんな辛い次代に生まれたのか。
聖獣が落とす穢れが魔物になる。
穢れは人間の欲望、嫉妬、憎悪、ありとあらゆる人を傷つける苦しめる負の感情が作り出す。
そんな感情がなくなるとこなんて永遠にない。
この今の世界の人間と聖獣と魔物の関係が当然だとしても、過去の穏やかな関係を知ってしまった。羨ましくて、妬ましい。
「あはは」
『ふはは』
穢れを背負った聖獣と人が互いに笑い合う。
「聖獣っておもしろいのね?」
『この姿を聖獣というものはおらんよ』
「聖獣でしょ?」
『この姿になってそれなりの時間を過ごした。聖域に戻り穢れを落とさなければ、聖獣とは言えぬさ。我らの間ではこの姿を【闇色】と呼ぶ。闇色は魔物と同じ、負の、穢れた証だからな。聖獣と呼ぶべきではなかろう』
「でも、あなたは私を襲わないじゃない。魔物ではないわ」
リオンが穏やかな気持ちに複雑な思いを絡ませながら見つめているとふいにフィオラは言葉が途切れ、自分の腰に着けていた袋に手を入れて、ごそごそと何かを探りだしてその手をエールに差し出した。
「これを。持っていって」
高山菖蒲の香りのついた琥珀。フィオラの手にエールが鼻を近づける。
『ほう、珍しいものを』
その匂いを嗅いだエールが笑ったように見えた。
「いる?」
『なぜ?』
「え?」
『この辺りには決して生息しない花の香りだ。珍しいものだが、私には必要ない。この香りを懐かしむのは《フォルサ》と過ごした聖獣だけだ、私は関係ない』
エールの言葉にリオンが反応した。フィオラと二人互いに目配せをして再びエールに目を向けた。
「ねぇフィオラ、《フォルサ》って」
「王都の別の呼び名。なぜか建国前からあの辺りをそう呼んでるっていう文献だけ見つかってるの。女性の名前なんだけど、どうしてそう呼ばれるようになったのか誰も知らないわ」
『体の弱かった若くして亡くなった《ロウサ》の妹のことだ。《フォルサ》は兄のその名前を聖獣に与えて共に生活していたことがある。当時あの辺りを統治するに重要な立場にいた一族が彼女の名前を残したくて呼ぶようになった』
フィオラは顎が外れそうなくらい口を開けて、ちょっと怖い形相で驚愕した。リオンは、驚愕したものの、それよりもずっと知りたかったことの答えに近づける瞬間にようやくたどり着けた喜びで、自然と身を乗り出していた。
「詳しくおしえて!!」
『そうしてやりたいが、来たぞ』
「え?」
『こちらに真っ直ぐ向かってくる人の気配だ。私は関わるつもりはない。そして、この地を荒らしたもの達を許すわけではない。これからどうするのか、どうなるのか、全て人間たち次第ということだ』
「どういうこと?! エール!! 待って!!」
突然告げられたこの貴重な時間の終わりに、リオンは動揺するだけだ。
『また会おう、私だけではないぞこの地を守ろうと思っているのは』
「リオン!」
闇に溶け込むように、エールが森の中へと消えて行く。追いかけようとした彼女の手をフィオラが引き止めた。
「ま、まずいってば」
「何が?!」
「この気、セリード様とジル団長だわ」
フィオラのそりゃもう気まずそうな顔を見て、リオンは我に返る。
「いま、何時だろ」
「聞かないで。わかるわけないでしょ」
二人揃って空を見上げた。
嫌みなほど、満点の星空がそこにはあった。
「わぁ……怒られるの確定」
リオンとフィオラはその星空を、遠い目をして少しだけ眺めずにはいられなかった。
リオン、がんばれー。




