二章 * 理想と現実 1
いよいよ目的地に到着します。
魔物に、脅かされる日常。
だったら魔物を殺せばいい。
それを続ければすべては終わる。
人間の手で出来るかぎりのことを尽くせばきっと魔物はいなくなる。人間が中心となっている世界なのだからそれが当然のはず。
――――魔物さえいなければ、この世界は平和になり、誰もが幸せになれる―――
そんな思いを、誰しも持っている。
魔物とはなにか?
その単純な一言の答えを知らずに。
ジルとバノンたちと共に目的地ビス市を目指してから二日、王宮を慌ただしく出てすでに十日以上過ぎたこの日の昼過ぎ、遂にリオンはビス市も跨ぐ手前の広大な熱帯雨林の中心部にたどり着いた。
そして、そのあたりから自分の中にある《何かが》ゆっくりと目覚めてゆくことも感じとれるようになっていた。
それが何なのか、リオンにはまだ理解できずにいるけれど。
(感じる)
そして、ビートと旅をしていたときの事を鮮明に思い出していた。リオンだけが感じる、《聖域の扉》としての能力なのだろう。全身が空気に混じる異質な気配を正確に把握する。その感じとる能力が飛躍的に向上していた。
(数は少ない、かな)
魔物の気配を全身が感じとる。
(でも、これ、凶暴化しはじめてる? この感じ、よくない……これはちょっとマズイ、かも)
王宮を出てから誰にも言ってはいないが、至るところで魔物の気配を感じていた。それは今までリオンが経験で培った感覚の中ではよくある気配だった。けれど今周辺から漂うこの感覚はそれとは明らかに違うと、リオンの体が冷静に判断を下している。
「あの! セリード様、ジルさんちょっといいですか?」
鬱蒼と茂る熱帯雨林の森を真っ直ぐ南下出来る道を先導して馬を走らせていた二人はリオンの声に手綱を引いてゆっくりと止まる。
「どうしたの?」
フィオラが心配そうにそう声をかけると同時に、すぐ後ろについてきていた馬車の中からティナも顔を出す。
「なにかあったの?」
ふたりの問いにはリオンは何も答えなかった。ただ黙って辺りを何度も見渡している。後ろから護衛する形で最後尾に位置していたバノンも、隊の間を掻き分けるように馬を進め近づいた。
「おい、どうした?」
「シッ。リオンが何か……」
セリードが大きな声で問いかけたバノンを制した。その緊迫した雰囲気にバノンはグッと息を飲み口を閉ざす。
「……やっぱり、これは」
とても落ち着いた声での一言だった。辺りをゆっくりと確認するように眺めていたが、突然進行方向で自分の左側、森の奥深くの一点を見つめて動かなくなった。
「…三、四…六。大きい、かなり凶暴化しています。わりと、近いところに……確実にこちらに気づいています。気をつけてください、たとえ姿を見ても、騒がないでください、絶対」
「これだけの騎士がいてもキツいか?」
ジルの問いに彼女ははっきりと頷いた。その迷いの無さにさすがにセリードも表情が固くなる。
「群れることがないはずの魔物が集まっています。いるかもしれません」
「まさか。聖獣の」
「はい。離れたところに、魔物化した聖獣がいるかもしれません」
一気に緊張が走る。それでもリオンは、ひどく落ち着いていて、彼女をそばで見ている騎士や魔導師はその落ち着きに戸惑いを見せている。
「気配はないので、いたとしても離れているはずです……。でも念のため注意だけは怠らないでもらえますか。魔物は、今の距離なら襲ってくることは、ない、はず……。うん、大丈夫です。飢えている様子ではないです。距離が縮まるようならまた声をかけます、観察するためにわざと距離を縮めるかもしれませんが。その時は戦わず、逃げるつもりでいてください」
「了解。リオンに従う」
セリードのその一言でバノンもすぐに後ろに戻り、ティナが馬車の中に顔を戻す。
再びセリードとジルが先頭に、そしてその後ろにリオンとフィオラが続く。ジルの隊はティナの馬車の前と横に付き、その後ろにバノンの隊が、そしてバノンと副長が最後尾にいる。
今の一時の停止を除けば、朝野営地を出発してからその隊列を一度も崩さず進んできた。こういうことはかなり珍しいことで皆気がついていて口には出さないことがある。
今通っている道は南から中央、そして北へと真っ直ぐ伸びる大動脈とも言われるティルバ有数の整備の行き届いた陸路だ。馬車でも、馬でも、そして徒歩でも行き来しやすく広く凸凹も少ない、本来ならたくさんの旅人や商人、目的地でもある大都市ビスに買い物や海路での移動のために昼間なら絶えず人々が移動する姿が見られる。それなのに、彼らはこの森に入ってから誰一人ともすれ違っていない。
すれ違うことがなく、隊列が全く崩れないのだ。
これは、異常なことだった。
(私がいるから、近づいてこない?)
魔物達が様子を伺ってる。
息を潜め、じっとこちらを。
不気味な程の静けさを纏い、暗闇に溶け込む黒い姿で人間の目を欺きながら。
(それもあるけど……監視してる。黙って通り過ぎるかどうかを、敵対する相手かどうかを探ってる。私以外の人間を)
誰も一言も話さなかった。ただひたすら前進することだけに集中した。降り注ぐ太陽の光と艶やかな木々の緑、カラフルな多種多様な花、至るところから聞こえる鳥のさえずり。誰もそれらを楽しむ余裕などなかった。熱帯地方特有の湿度を帯びた暖かい空気のせいだけでなく、皆手の平に汗をかいているのは長時間途切れることを許さない緊張感からだろう。
早くこの緊張から解放されたい。
心の中に、誰かが常に囁いていた。
「ここからビスだ」
しばらくしてセリードが振り向いてリオンに声をかけた。
熱帯雨林を跨いでいることもあり、境界線となる場所には壁や建物はもちろん、門もなくただ道の両脇に目視しやすいように白と黄色で縦縞に塗られた太い角材が立つだけだった。それでもこの先向こうに人々がいると思えば気持ちが楽になるものだ。
「なあセリード、結局誰ともすれ違わなかったな、こんなこと普通はあり得ないだろ」
「ああ、皆森の中心を避けているんだろう。遠回りになってしまうが、西からも東からも北上は出来るし、東はカネントス伯爵領だ、あの領地は規模が大きい、宿も多いし物流も盛んなところだから大回りになっても安心して行ける。魔物の目撃が多いと報告があった、わざわざ危険なここを通る必要はない。まあ、それだけ魔物の目撃とその情報が出回っている証拠でもあるけどな」
「ああ、そうだな。俺たちが魔物に出くわさなかったのは運が良かった、ってことにしておこうか。気を抜いてばったり遭遇とか洒落にならないしな」
ジルとセリードの会話が、緊張を解くきっかけになり、かなり辛い無言での移動から解放され団員たちは胸を撫で下ろして、大袈裟な深呼吸をした者もいた。
「おい」
突然、ジルが手綱を強く引いて馬を歩を止めた。
「これは」
セリードも、そしてその後続も。
やっと得た解放感はすぐに捨て去ることになった。森の中、少しずつ視界が開けて太陽光が一気に強さを増した理由。本来ここはまだ市街地ではない。広大な果樹園が広がる、心地よい木漏れ日が差し込む場所。
「酷い」
フィオラが眉間にシワを寄せ、口に手を当てて囁いた。
おかしい、なんだろう。
この違和感。
なにか、違う。
どうして?
森が開けた理由。
見渡す渡り、木々がなぎ倒され、無惨に折れ曲がっている。踏みにじられ、たわわに実っていたであろう果実が潰れ飛び散り、みずみずしい甘い果実の香りが土と混じり嗅ぎ慣れない匂いと化している。歩を進める度、果実や木々の水気を吸収した粘着質な土が靴裏につきまとい足取りを重くさせる。
広大な面積を誇る、南部でも有数の果樹園が荒れ果て失われていた。
本来なら果樹園に阻まれまだ見えるはずのないビス市の町並みがはっきりと彼等らの目に映っていた。
「本当に、一区画壊滅とか、まじかよ」
バノンは信じられない様子でただ呆然と見渡して、同じようにそこにいる全員が言葉を失ったまま見渡すだけだった。
ただ一人を除いて。
見極めないと。
何かいつもと違う。
この違和感を見過ごしちゃいけないのよ。
リオンは馬から降りると一人颯爽と歩き出した。枝や大木がふさぐ道なき道を下を注意深く観察しながら進み、立ち止まると、しゃがみこみじっと地面を見つめる。
「気になることでもある?」
皆がいつの間にかリオンの後ろについてきていた。セリードが声をかけるとリオンは振り向き上を見上げた。
「どうして、食べてないんでしょう」
「え?」
「果物です」
「果物を、食べてない?」
「人間はもちろん、動物の骨まで残さず食べてしまうのに。ここまで荒らしてなにも食べてないなんて…。凶暴化して数も増えているなら、何も残らないくらいなんでも食べてしまう。それこそ根こそぎ木でも食べてしまうことも《過去の記憶》から分かっているんです」
リオンの足元には、奇跡的に原型を留めた果実が一つだけあった。そしてその言葉がきっかけとなり騎士たちが誰の合図もなく足早に広がり周囲を注意深く確認しはじめた。
「団長、こっちも果物残ってます!」
ジルに向かって団員の一人が叫んだ。
「ここも荒らされてますが、果物も木も食われてなさそうですよ!」
バノン隊の団員が折れた木の持ち上げながら大きな声で伝える。
「あ!! リオン、ジルさん!! これ!!」
団員の声にリオンとジルが駆け寄る。団員が地面を指差した。
「これは」
そこには、泥まみれになった姿ですでに固く冷たくなったネズミがいた。
「喰われずに、死んでる……? 一体、なにが」
困惑したジルの隣、リオンは何を思うのか。




